2025/02/15 更新

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アダチ ヨシコ
阿達 佳子
所属
文学学術院 文化構想学部
職名
助手
 

特定課題制度(学内資金)

  • ハンス=ゲオルク・ガダマーにおける翻訳不可能性について

    2024年  

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     2024年度の特定課題研究では、ハンス=ゲオルク・ガダマーの哲学的解釈学における「翻訳」概念の包括的把握を試みた。具体的には、ガダマーの哲学的解釈学において(1)翻訳はいかなる行為とみなされているのか、(2)翻訳不可能性に対していかなるアプローチがなされているか、という二つの課題に取り組んだ。(1)ガダマーの哲学的解釈学における「翻訳」は、原典の意味を保持しつつ、その意味を別の言語の意味連関のうちへと移し入れる(架橋する)古典的翻訳理論を基本とする。しかし、翻訳者と原典の間には言語的隔たりや時代的隔たりが存しているため、語や意味を完全に再現することはできない。つまり、翻訳行為のうちには必然的に、なんらかの喪失と利益が生じることになる(「過剰照明(Überhellung)」)。喪失と利益を伴う架橋としての翻訳はつねに、「模作(Nachbildung)」としての新たな創造行為と考えられているのである。このような考え方は、いかなる理解もつねに別様の理解とならざるをえないというガダマーの「理解」に対する基本的な考え方のひとつであるが、翻訳においてはより顕著にあらわれている。(2)翻訳不可能性は、とりわけ詩の翻訳において現れる。詩の翻訳は書かれた言語の意味と音声形態に由来するため、つねに曖昧さや不確定性を伴って遂行される。つまり、詩の翻訳において認識されるのは、隔たりの埋め尽くしがたさであり、その遂行過程のうちではテクストの他者性がもっとも顕著に現れてくる。翻訳者は翻訳不可能性という抵抗の前で立ち止まることになるが、この抵抗は消極的に捉えられるべきではなく、むしろテクストの曖昧さに入り込むための契機として捉えるほうが適切である。ガダマーが詩の翻訳に要求するのは、隔たりを完全に埋めることではなく、隔たりの間で「最善の解決策」を求める解釈学的努力である。翻訳不可能性は、解釈学的努力として理解の可能性を開く契機を提供しているのである。

  • ハンス=ゲオルク・ガダマーにおける「地平の融合」再考

    2023年  

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     2024年度の特定課題研究では、「他者性」を軸として「地平の融合」概念の再解釈を行なった。『真理と方法』において、理解を始動させる契機となるのは、理解されるべき事柄の他者性であり、この他者性の理解者への関与は、解釈学的条件のひとつとして重要な位置づけがなされている。しかし、理解を始動させるこの他者性がいかなる他者性であるのかについては、『真理と方法』において主題的には論じられていない。本研究では、このようなガダマーの解釈学における「他者性」が哲学一般において考えられるような絶対的な他者性とは異なる性質をもつものとして捉えられていた点を批判的に取り上げながら、 (1)伝承との関係、(2) 言語性の観点から明らかにした。   第一に、ガダマーにとっての他者性は、連続性のうちで際立ちながら「他であること(Anderssein)」として自らを示してくる異他性という性質をもつ。この異他性は、「伝承」として、理解者の先入観を刺激し、その者の先入観を試すようはたらきかける役割を担っている。その一方で、伝承には親近性という、もうひとつの性質が付与されており、この相反する二つの性質のあいだにこそ解釈学の真の場所があるとされる。伝承と理解者は対立関係ではなく、相互関係として捉えられており、それゆえに「際立てる」という仕方で伝承の異他性は現れてくる。したがって、ガダマーの解釈学における他者性は、完全に異なる地平に属する絶対的な他者性ではなく、連続性によって満たされているひとつの地平のうちで際立ってくる異他性であると考えられる。   第二に、ガダマーにとっての他者は「他者」として志向され、考察される対象ではなく、事柄に関する探究のなかで、言語を介して現れてくる共同探究者としての他者である。理解の向かう先はつねに「共通の事柄」であり、われわれはその事柄について語る言語のうちで他者と関係し、言語的なやりとりのなかではじめて、他者の他者性や個性に出会うことができる。これを可能にするのは、言語そのものの関係づけ結びつけるという機能であり、対話者たちを巻き込みながら主観と客観の区別を無効にする言語の動性である。したがって言語性の観点からも、ガダマーにとっての他者性は完全に分離されてはおらず、言語による結びつきの上で現れてくることを認めることができた。