2024/03/29 更新

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モロホシ カズオ
諸星 和夫
所属
国際学術院
職名
名誉教授

学歴

  •  
    -
    1987年

    早稲田大学   文学研究科   ロシヤ文学  

  •  
    -
    1987年

    早稲田大学  

  •  
    -
    1974年

    早稲田大学   文学部   ロシア文学  

  •  
    -
    1974年

    早稲田大学  

所属学協会

  •  
     
     

    日本ロシア文学会

研究キーワード

  • その他外国語・外国文学

 

書籍等出版物

  • Японська поетика хрестоматія

    Видавничий Дім Дмитра Бураго (Київ)  2013年

  • Японська поетика хрестоматія

    Видавничий Дім Дмитра Бураго (Київ)  2013年

  • 『はじめて学ぶロシア文学史』

    ミネルヴァ書房  2003年

Works(作品等)

  • Вибрані поезії (Всесвіт, №1000, с. 5-18)

    芸術活動 

    2012年
    -
     

  • Чому я почав писати вірші ? (Всесвіт, №1003, с.183-189)

    芸術活動 

    2012年
    -
     

  • 詩集『あいさつ』(昭森社、1986年)

    芸術活動 

    1986年
    -
     

共同研究・競争的資金等の研究課題

  • ポーランド・ルネサンス

  • 16-17世紀におけるロシアとポーランドの文学関係

  • 16-17世紀における英露交渉史の研究

  • シメオン・ポーロツキイと『韻文詩篇』

  • Polish Renaissance

  • Russian-Polish Literary Relations in the 16th-17th Centuries

  • British-Russian Relations in the 16th-17th Centuries

  • Simeon Polotskii and the Rhymed Psalter

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Misc

  • 「越境者の眼差しで―ロシアの近代化をめぐるS.ポーロツキイの創作と戦略について」

    Waseda Global Forum   ( 10 ) 149 - 185  2014年

  • ハイブリディティの真相 ― 西方ロシア時代におけるS.ポーロツキイの遍歴と創作について

    Waseda Global Forum   ( 8 ) 151 - 181  2012年

  • В.М.Лурье Русское Православие между Киевом и Москвой

    Waseda Global Forum   ( 7 ) 411 - 416  2011年

  • ニコンの改革の起源

    Waseda Global Forum   ( 6 ) 157 - 181  2010年

  • 17世紀におけるロシアとポーランド関係の特質について ― フィレンツェ公会議理念の展開とウクライナ動乱の影響について

    Waseda Global Forum   ( 5 ) 95 - 105  2009年

  • 16世紀におけるロシアとポーランド関係の特質について ― フィレンツェ公会議理念の影響を中心に

    Waseda Global Forum   ( 4 ) 131 - 140  2008年

  • Isabel de Madariaga, Ivan the Terrible

    Waseda Global Forum   ( 2 ) 105 - 108  2006年

  • 座標軸としてのリヴォニア ― 15-16世紀におけるロシアの対リヴォニア戦略について

    「語研フォーラム」   ( 20 )  2004年

  • Якоб Ульфельдт, Путешествие в Россию

    「語研フォーラム」   ( 19 )  2003年

  • 断章(リヴォニアへ)

    「語研フォーラム」   ( 18 )  2003年

  • ツァーリの国を抜けて ― イギリス人による東方商業ルート探索の起源について

    「語研フォーラム」   ( 17 )  2002年

  • 英露交渉史研究ノート ― リチャード・チャンセラー2度目の航海

    「語研フォーラム」   ( 15 )  2001年

  • M.サルビェフスキの詩学を読む

    「語研フォーラム」   ( 11 )  1999年

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特別研究期間制度(学内資金)

  • シメオン・ポーロツキィ研究-ロシアの近代化とウクライナ文化

    2012年04月
    -
    2013年03月

    ウクライナ   シェフチェンコ記念国立キエフ大学、ベ ルナツキイ記念ウクライナ国立図書館

特定課題制度(学内資金)

  • シメオン・ポーロツキイとウクライナ文化―西方ロシアとモスクワにおける詩篇歌流行の原因について

    2013年  

     概要を見る

    本研究では17世紀のロシア詩人シメオン・ポーロツキイの最晩年の作品のひとつ『韻文詩篇』(1680)をめぐって、作者自身がその序文で挙げている作品成立の動機のひとつとなった西方ロシアおよびモスクワにおけるポーランド語詩篇歌流行の原因を探ることを目的とした。研究は当初2013年4月からの開始を予定していたが、助成費の交付決定が予想したよりも大幅に遅れたことにより、この間、着手の目途が立たず、予め策定されていた同月からの研究プランにも影響した。最初にこの点を本研究の途上で生じた軌道修正上の明確な根拠として確認しておきたい。改めて進め方を見直した結果、すでに4月から開始していた関連研究たるシメオン・ポーロツキイのモスクワ上京後の活動を追うための作業を続行するほかはなかった。とはいえ、この作業自体は本研究の当初のテーマたる「シメオン・ポーロツキイとウクライナ文化」をむしろ全体的に把握することにつながり、結果的にその一環を成す詩篇歌流行の原因を探るためのさらなる研究に裨益し得たと信じる。それは同年秋までに纏められたこの研究が「越境者の眼差しで― ロシアの近代化をめぐるS.ポーロツキイの創作と戦略について」と題され、シメオン・ポーロツキイの後半生の活動におけるウクライナを含む西方ロシアの影響について検討することを目的としているからである。筆者が本稿で明らかにしたのは、ひとことで言えば、キエフやヴィリニュスで学問上の鍛錬を重ねたシメオンが、その身に負った教養基盤を活用することで、古いモスクワの精神風土を変容させ、本格的にはピョートル1世の出現を待って実現する、西欧化への環境整備に貢献したその偉大な先駆者としての役割である。これに関連して注目に値するのは、歴史的に西方ロシアから発してその延長線上の北東部分に国家を形成したモスクワ・ルーシ(=モスコヴィア)が、この度も再び西方ロシアの指導の下に西欧化という新たな地平に舵を切るという興味深い事実である。とはいえ、この際はっきり押さえておかなければならないのは、やがてロシア帝国として脱皮する新興ロシア国家は、その成長過程で単に西方ロシアを模したのではなく、したたかにもそれを新たな飛躍のための栄養分として摂取したに過ぎなかったことである。この意味で、キエフを中核とする17世紀の西方ロシア文化は、台頭しつつあった北東ロシア国家の中で鮮やかな転生を果たしたとも言える。一例を引けば、あのジェチポスポリータ(ポーランド=リトアニア連合国家)に固有の表現とも言える「サルマチア」は、シメオン・ポーロツキイの代表的な作品の中では、ダイナミックな変容が期待される「ロシアのサルマチア」と読み換えられている。以上の作業を経ることにより、当初に予定した詩篇歌流行の原因を探る試みも、同主題群の考察の一環を構成することが改めて確認された。

  • 16世紀における英露交渉史の研究―リヴォニア戦争の展開とその影響について

    2002年  

     概要を見る

     本研究は、16世紀の英露交渉史を主題にした研究の継続部分にあたり、関連資料の収集とその分析を通じて、主にリヴォニア戦争の展開とその影響について考察することにある。ここで、特にリヴォニア戦争に着目したのは、それが近代ヨーロッパにおける初期国際紛争のひとつであり、そこに巨大なハンザの利権が関係していたこと、一方、後期チューダー朝のイギリスにおいても、ハンザと冒険商人たちの確執が問題化し、やがてロンドンのハンザ商館であるいわゆるスティールヤードの閉鎖を招来したこと、この動きが、15世紀末のノブゴロドのハンザ商館閉鎖に酷似していること等々の連想が働いたからである。 本研究は1558年の年頭に勃発したリヴォニア戦争をめぐって、従来ほとんど省みられることのなかったロシアとイギリスの連携の可能性を探ることを主題にしている。この一年間の研究では、以上の主題を開拓する上で必要とされる基本資料の収集に主な時間を割かざるを得なかった。その主な成果として、探索の結果、基本史料のひとつであるルソウの年代記の原本および英訳本を取得したほか、E.Tibergの一連の仕事を手元の参考文献として加えることができた。とりわけ、ながらくその所在が不明であったルソウの英訳本を入手した意義は大きい。もともとルソウの著作は低地ドイツ語で書かれ、その解読には専門家ですら相当の努力を強いられるからである。Jerry C. Smith ほかによる英訳本の存在は、その精密な注釈と併せ、研究に格段の進展を促すことになった。 とはいえ、事柄の性質上、また時間的な制約の点からも、この一年間で進めることができた研究の範囲は、結果的には、当初の計画のごく一部に過ぎない。かかる研究の遅延には、とりわけ、2003年春に実施を予定していた資料調査を、惜しくも、職務上の都合から断念せざるを得なかったことが大きく響いている。かかる事情にもかかわらず、研究は可能な限り継続的に進められ、その結果、以下のような点を確認することができた。すなわち、ノブゴロドのハンザ商館閉鎖に当って、そこを追われたハンザの勢力はリヴォニアに移動するが、ここでは、当地の商人たちはすでにそれ以前から独自の動きを示している点で、必ずしもハンザ本体の動きと同一視できないこと、従って、ロシアとイギリスが常に同じ対象を敵視していたことにはならないこと。ただし、その場合でも、国際商業取引では後進国とも言えるイギリスとロシアが、いわゆる仲買人の存在に大きな障害を覚え、自国商人の健全な育成を阻むものと見ていた点では、両国とも極めて似たような状況下にあり、そのレヴェルにおける利害の一致があったのではないか。筆者はなおこの考え方を捨て去ることができないでいるが、その詳細な調査については、残念ながら、いまだその途上にあると言わざるを得ない。なお、リヴォニア戦争の経過の中で、ロシアのナルヴァ占領が実現した際、その権益をめぐって、ロシア・カンパニーが執拗な主張を繰り返したこと、その結果、いわゆるインターローパーが少なくとも外交上は不当とみなされ、カンパニーの独占が確保されたこと、さらに、この戦争に関わるイギリスのロシアへの軍事支援が間接的に処々で示唆されていること等々、本研究については、さらに具体的な戦争の経過を精査することでしか解決され得ない諸問題があることを付言しておきたい。 本研究に関わる成果の一部については可及的速やかに公表するつもりである。

  • 16世紀における英露交渉史の研究

    2000年  

     概要を見る

     本研究の目的は、16世紀におけるロシアの異文化接触をめぐって、それを招来せしめた様々な契機と要因、またその後世への影響について討究することにある。本研究では、とりわけこの時代の英露交渉史の発端と展開を主なテーマにしている。 以上の点を検討するにあたり、もとより、この問題をめぐる両国の特殊事情を調査しなければならなかった。そのために大いに裨益したものとして、98年秋より一年間にわたる在外研究期間中の英国での予備調査を挙げることができる。とはいえ、この期間には専ら研究書誌や北東航路上の航海をめぐるイギリス側の社会背景などに時間を費やさざるを得なかった。特定課題研究のための助成を受けた本研究は、その延長線上にあり、引き続き、北東航路開拓の一層明確な動機づけ、従来見過ごされていた可能性のある両国に跨るハンザ同盟との関係等について論を進めた。これに関連して、夏期休暇中には、バルト海沿岸都市を歴訪、これら諸都市と往時のロシア市場との関係について史料の収集に努めた。史料収集は再度、春季休暇中にも展開した。 一年間にわたる考察の具体的な成果として、いわゆる「イギリス人のモスコヴィア発見」が単に両国間の問題に止まらないことが一段と明確になった。同時に、この時代の両国の利害が必ずしも一致しないこと、かかる齟齬の修正が往時の両国間外交の主な目的であったことなどが確認された。 今後の課題として、同時代史料の正確な読み込み、問題のマクロ的な把握、併せて、ロシアの国内事情から見たイギリス人到来の意味、ヨーロッパ人にとってのロシア情報の価値づけ、ことにリヴォニア戦争をめぐる環バルト海諸国の動向などに着目して、引き続き検討を重ねたい。

  • M.サルビェフスキの詩学―ロシア・バロック文学への影響について

    1997年  

     概要を見る

    ポーランドの詩人マチェイ・サルビェフスキ(1595-1640)とロシア文学の関係についてはこれまでにもことあるごとに論じられてきている。ルネサンスというモメントを持たないロシアのバロック文芸は、もともと特殊な外来の文学形式たらざるを得なかったが、そこに巨大な影を落としていたのが、「サルマチアのホラチウス」の異名をとったM.サルビェフスキだったからである。本研究では、基本的な手続きとして、まず旧来問題とされているサルビェフスキの論考“De acuto et arguto”を読み直すことによって解決の糸口を求めようとした。詩人はこの論を1619-1620年にポーロック(ベラルーシ)で、さらに1623年にはローマで披瀝、大きな反響を呼んだことが、当時の聴講者から寄せられた書簡からも知られている。ここで扱われているのはバロック詩学の美学、とりわけその枢軸を成す「驚き」と「快感」の解析だが、サルビェフスキによれば、かかる受容者側の心理状態は一致(予想通り)と不一致(予想外)の接点の上に築かれる。ここには明かにプラトン風のミメシスを乗り越えようとする詩人の熱意、具体的には、アリストテレス詩学への親近感が表明されているわけだが、見方を変えれば、ここから「詩人=世界の解読者」への道筋は数歩を残すのみとなる。一方、サルビェフスキのこの論考に見られる基本的な考え方は、主に学校教材を通じて、当時の西方ロシア地域、後には首都モスクワにまで波及して行ったことが、幾人かの、主にポーランド人学者の仕事を通じて知られている。筆者はかかる事実(サルビェフスキ詩学の流行)に着目し、これを単に偶然の産物としてではなく、むしろ往時の東スラヴ人が求めていた詩人の特殊な役割と関連させてみたい誘惑に駆られる。つまり、この地域では当時の社会状況から、詩人は正教文化圏の指導者たらざるを得ず、その教育と普及に全霊を捧げなければならない運命にあったが、サルビェフスキの仕事に体現されるポーランド経由のバロック詩学はまさにこのような風土に格好の居場所を得たものと言える。このポーランド詩人の別の論考にはまた、J.C.スカリゲル(1484-1558)の影響が色濃く反映していることが知られる。スカリゲルこそは詩人を第二の神と呼んだ人物であり、この流れを汲むサルビェフスキの詩学は、直ちに東スラヴ知識人の心を捉え、17世紀後半のロシアに忽然とバロックの麗華を開花させる。ロシア最大のバロック詩人シメオン・ポーロツキイ(1629-80)に対するポーランド文化の影響は機会あるごとに指摘されているが、その文学的営為の精髄は実はかかる文脈の中で初めて理解され得るものではないだろうか。本研究の歩みはようやく一年を経たところであり、従って、細部になお検討の余地を残しているが、果実の一部は可及的早期に公に問うつもりである。