2024/05/21 更新

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ムライ マコト
村井 誠人
所属
文学学術院
職名
名誉教授
学位
文学修士

学歴

  •  
    -
    1978年

    早稲田大学   文学研究科   史学(西洋史)  

  •  
    -
    1971年

    早稲田大学   教育学部   社会科(地理歴史)  

所属学協会

  •  
     
     

    早稲田史学会

  •  
     
     

    バルト=スカンディナヴィア研究会

  •  
     
     

    バルト・スカンディナヴィア研究会

  •  
     
     

    日本西洋史学会

  •  
     
     

    早稲田大学史学会

研究分野

  • ヨーロッパ史、アメリカ史

研究キーワード

  • 北欧史研究、国境問題

 

論文

  • 変わりゆくデンマーク社会を傍観する ——1968年の意味するもの——

    村井誠人

    北欧史研究   24   223 - 234  2007年08月

  • 王家の断章 グリュクスボー王朝の始まり

    Excellent Denmark Loving(デンマーク大使館・株式会社シルバーストーン)   ( 2 ) 12 - 20  2006年04月

  • 「日本のデンマーク」安城に見る我が国の海外文化の受容に関する一考察

    早稲田大学大学院文学研究科 早稲田大学大学院文学研究科紀要   第51輯・第4分冊   87 - 112  2006年02月

  • Historiker i Politik: Fornyede Overvejelse over Dr.Solfs Brev af den 14. november 1918

    Makoto Murai

    Historisk Tidsskrift (Den danske historiske Forening)   Bind 106 Haefte1   264 - 294  2006年

  • 「北欧デンマークの輝き」を実体として

    特別展 北欧デンマークの輝き(安城市歴史博物館)     30 - 38  2005年03月

  • 世界一開かれた王家とデンマークの歴史 王家の断章

    Excellent Denmark LOVING(デンマーク大使館・株式会社シルバーストーン)   ( 1 ) 8 - 16  2004年12月

  • 物語の基底は何? それを探る (蘇るアンデルセン)

    Excellent Denmark Loving (デンマーク大使館・株式会社シルバーストーン)   ( 1 ) 144 - 149  2004年12月

  • Dalgas og søn: Danske helte i Japan

    Balto-Scandia(北欧史研究)   ( 14 ) 69 - 76  2004年07月

  • ゾルフ書翰の謎(下)

    早稲田大学大学院文学研究科紀要   第48輯第4分冊  2003年03月

  • Region Soenderjylland / Slesvig考 −デンマーク人の民族的アイデンティティと国境−

    IDUN(大阪外国語大学デンマーク語・スウェーデン語教室)   15  2003年02月

  • ゾルフ書翰の謎(上)

    早稲田大学大学院文学研究科紀要   第47輯・第四分冊  2002年03月

  • 北欧における分化と統合 —デンマークの国境地帯を事例として—

    ヨーロッパ史における分化と統合の契機(早稲田大学西洋史研究室・代表者 前田徹)    2002年03月

  • オーラ・リーマンとヴィゴ・ヘーロプ −19世紀デンマーク史に対する世代論的理解の実践の一例−

    IDUN(大阪外国語大学デンマーク語・スウェーデン語教室)   14  2001年02月

  • スウェーデン史速歩き(ビルギッタ・ティングダール著/ ヒースマン・姿子訳)

    ビネバル出版    1999年01月

  • 市民社会と労働者文化—スウェーデン福祉国家の社会的起源(石原 俊時著)

    社会経済史学/ 社会経済史学会   64;5 pp.151-153  1998年12月

  • 北欧史

    山川出版社    1998年08月

  • 南スリースヴィ問題とデンマークにおける国境観の対立−デンマーク・ドイツ国境成立75周年に寄せて−

    早稲田大学大学院文学研究科紀要   42  1997年02月

  • 大国中心の歴史を見直す

    宮崎県高等学校地理歴史科公民科歴史研究大会(社会化の研究 35,pp12〜25)    1997年01月

  • 北欧(デンマーク)における差別と偏見

    西洋史における差別と偏見/文学部西洋史研究室    1996年03月

  • デンマークのドイツ人,フリスラント人,西ドイツのデンマーク人

    世界のマイノリティ事典/明石書店    1996年03月

  • 追補執筆「1986年以降のデンマーク」

    デンマークの歴史/ビネバル出版    1995年11月

  • 項目選定協力者(北欧及びバルト諸国)及び分担執筆

    世界民族問題事典/平凡社    1995年09月

  • アンデルセンの時代

    アンデルセン研究/日本アンデルセン協会   13  1995年06月

  • 「囲み板の隙間から」入り込んで作られた「解放区」

    新鐘(早稲田大学)   ( 71 )

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書籍等出版物

  • デンマークを知るための68章

    村井誠人

    明石書店  2009年06月

  • スウェーデンを知るための60章

    村井誠人

    明石書店  2009年05月 ISBN: 9784750329987

  • デンマークといえば「アンデルセン」

    岡澤憲夫, 村井誠人

    『北欧世界のことばと文化』 早稲田大学国際言語文化研究所・成文堂  2007年01月

  • 国境地帯に生きる人々 —デンマーク・ドイツ国境地域事情—

    『ヨーロッパ世界のことばと文化』 早稲田大学国際言語文化研究所・成文堂  2006年05月

  • 地理・国土・言語

    村井誠人, 奥島孝康

    ノルウェーの社会(早稲田大学出版部)  2004年11月

  • スカンディナヴィア主義とノルウェー

    村井誠人, 奥島孝康

    ノルウェーの社会(早稲田大学出版部)  2004年11月

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講演・口頭発表等

  • 農業繁栄国デンマークのイメージと日本での受容

    発表年月: 2007年10月

  • 我が国における地域イメージの形成 ——愛知県安城市(碧海郡)の場合——

    発表年月: 2007年09月

共同研究・競争的資金等の研究課題

  • ヨーロッパ史における分化と統合の契機

    科学研究費助成事業(早稲田大学)  科学研究費助成事業(基盤研究(B))

    研究期間:

    1998年
    -
    2001年
     

    前田 徹, 大内 宏一, 小倉 欣一, 野口 洋二, 井内 敏夫, 村井 誠人, 安斎 和雄

     概要を見る

    本課題の研究目的は、現在進行形で推移するヨーロッパの変容を通時的に理解するために、分化と統合という相反する複雑な諸力がいかに作動してきたかを歴史的に再検討するものである。10名の研究分担者が対象としたのは、時代は古代オリエントから現代まで、地域は西欧をはじめ東欧、北欧、アメリカという空間的にも時間的にも広い範囲である。研究成果報告書は印刷される予定であるので、詳細はそれに譲り、研究成果の一側面を示す。
    古典古代にはじまるヒューマニズムの理念、ローマ教会に体現される普遍的教会の理念とローマ帝国理念、さらには、人間理性の覚醒と「文芸共和国」という国境を越えた文化共同体、それらは、普遍的価値に裏打ちされたヨーロッパを求める動きととれる。宗教改革も、近代の国民国家の創成も、ヨーロッパを普遍的なものに基盤を置きたいという動きであって、統合の場を破壊する動きではないと見做しうる。また国民国家・民族国家形成以後の近代・現代の動向、一見分化の動きに見えるものが、より高度な統一の原理を求めるもしくは補強する意図に起因し、そのなかでのヘゲモニー争いと見做しうる事象といえる。
    そこで醸成されたヨーロッパの優位性の意識は、たとえば、イスラム世界と対時したときどのような態度なり、反応になるのであろうか。また、アメリカでは、黒人やアジア系など歴史的に異なった人々との複合的な価値観を共有できる国家へと変貌することが統合に不可欠であろうが、その道は厳しいものとなっている。
    ヨーロッパは、過去に築かれた伝統的な価値観や政治・社会の遺産の上に成り立っており、その歴史性を脱却してはいないであろう。しかし、歴史は変容を迫るものであり、その新しい事態を見極めることは至難である。そうであっても、この研究で示したような通時的な問題整理、すなわち歴史的考察が不可欠であることは間違いない。

  • バルト海地域交流に関する総合的地域研究

    科学研究費助成事業(早稲田大学)  科学研究費助成事業(国際学術研究)

    研究期間:

    1993年
    -
    1995年
     

    井内 敏夫, WEVER Ole, VIRSIS Marti, GAWLIKOWSKI クシュストフ, LUND Niels, 志摩 園子, 吉武 信彦, 松村 一登, 塩屋 保, 百瀬 宏, 大島 美穂, 本間 晴樹, 村井 誠人, GAWLIKOWSKI クリストフ, WAEVER Ole, KAHK Juhan, GAWLIKOWSKI, HORBY Kai

     概要を見る

    当研究では、まず、「バルト海地域」と呼ぶべき地域設定が重要である。単なるバルト海沿岸地方では歴史的生態系の概念からもその陸地における範囲が不明瞭であり、バルト海に注ぐ河川の流域ではそれはあまりに広大であり、不適当である。バルト海を中心に人間の営みにおける歴史的生態系を見いだし確定するには、そこが表面積415,000Km^2である"内海"であり、周辺民族にとっては活動の舞台、"通路"で、沿岸地方を結びつける役割に注目していくことにより、その活動によって限定される地域として他地域と区別しうる歴史的景観が、地形学(geoformology)が示唆する一地域と合致することに行き当たる。
    すなわち、バルト海の北部、ボスニア湾がアイソスタシ-現象によって地殻が陥没していて、現在も"刻々"と隆起していることから、最終氷期における氷床の中心をなした場所であることがわかり、このときの氷床の最大拡大範囲がここで問題としている「バルト海地域」であるくことが特定されうる。氷床の拡大に際して、中央部から周縁に向かって表土の侵触作用が行われ、その外側の外縁部では氷床の拡大期にもたらされた中央部周縁の表土が、氷床の後退期に残留・堆積したために、標高2〜300mのモレーン丘陵を形成した。バルト海の西・南・東岸沿岸にこれが分布し、デンマークの島嶼部及びユトランド半島からエルベ右岸の北ドイツ地方・ポーランドの沿バルト海の丘陵地帯・旧東プロイセンのマズ-リ-地方・バルト三国、そしてロシアのサンクトペテルブルクの東方まで連続する。例えば、この丘陵地帯の存在によって、平原の民たるポーランド人のバルト海沿岸への進出が永いこと阻まれてきたし、この沿岸地域に居住したスラブ系のヴェント人やバルト系のプロシャ人・ラトヴィア人、フィン・ウゴール系のエストニア人らが国家を形成する段階に到達する以前に、北欧人や北ドイツ人の活動の場となり、ヴァイキング活動、ハンザ・騎士団領の創設といった排他的空間が提供されたりした。また、バルト帝国を築いたスウェーデンが、国家発展の重点を本土の南北に拡大するのではなく、ストックホルムから真東へと向け、海を越え、対岸のフィンランド湾沿岸諸都市に求めていったことは注目に値する。その記憶がエストニア、ラトヴイィアに「バルト・スカンディア」概念を創起させ、両国の東方に対する拒絶感によって「冷戦期」にあってもこの概念が抱かれ続けてきた。
    大北方戦争以降、ロシアの勢力範囲がバルト海沿岸に達し、北欧勢力がオ-デル河口を例外としてバルト海南岸から撤退すると、ポーランドがロシア・プロイセン(のちにドイツ帝国)に分割され、いわゆる"列強"による勢力分割の舞台としてバルト海南岸は位置づけられ、それが結局・冷戦終結期まで続くことになる。そして、実際、バルト海が「分断」の海として"完全に"機能したのが、第二次世界大戦の冷戦機の状況のみであり、1989年の「東欧革命」と1991年のバルト三国のロシアからの独立に至るまでの時期であったが、あまりにもその期間の印象が強烈であったために、東独以東のポーランド北岸・バルト三国沿岸が"封鎖された海"のイメージを形成していたのである。
    この分断状態が打ち破られていく契機となったのが、バルト海の環境問題に対するゴルバチョフの提案(1989)であり、北欧会議的手法にならった議員レベルの地域協力が、最もそれに反発を抱くはずのロシアから謳われたことが重要である。この提案が、「バルト海地域」の真の有機的協力関係設立のゴ-サインであった。ドイツのシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州が"地域"として積極的に「バルト海地域」に関わっていこうとし、また、地理的には沿バルト海に属しているとは言えないノルウェーとアイスランドが、それぞれ1994年、1995年に環バルト海協力への積極的参加を具体的に表明した。それは、オ-レ・ヴェーヴァが「ノルディズムからバルティズムへ」と表明する「ノルディズム(北欧協力)」の拡大によって「バルティズム(バルト海協力)」に至る方向性が現実のものとなることを示唆している。今後、具体的に進行していくこの「バルト海領域」の"下位地域協力"がEUの拡大に先行する-また、EU的組織の手が届かない地道な地域協力を築いていく-注目すべきモデルを提供している。

  • ヨ-ロッパ史における女性と社会

    科学研究費助成事業(早稲田大学)  科学研究費助成事業(一般研究(A))

 

特別研究期間制度(学内資金)

  • デンマークにとっての1864年の意味

    2011年04月
    -
    2012年03月

    デンマーク   コペンハーゲン大学

  • デンマーク急進左翼党のデンマーク社会への影響

    2000年04月
    -
    2001年03月

    デンマーク   コペンハーゲン大学

特定課題制度(学内資金)

  • 北部スレースヴィの帰属を問う住民投票とその北欧諸国・ドイツによる評価の比較研究

    2003年  

     概要を見る

     北部スレースヴィ(シュレースヴィッヒ)の帰属を問う住民投票は、2つの住民投票地区に分けられて、1920年2月10日と3月14日に行なわれた。その結果、第1投票地区に振り当てられた北部スレースヴィはデンマーク票が75パーセントの得票を得てデンマークに復帰し、第2投票地区に振り当てられた中部スレースヴィでは、そのうちのいかなるコミューンもデンマーク票が過半数を占めることなく、その地域全体がドイツに残留することになった。 第1次世界大戦の敗戦国ドイツの国境地帯は、オランダ・スイス・オーストリアと接する以外の地域では、エルザス=ロートリンゲンやポーランド回廊のように帰属を問う住民投票などを経ることなく、「歴史的根拠」を理由に外国領土になっていった地、国際連盟の監視のもとで国際管理地域となっていった地、住民投票によって帰属が問われ、その結果として外国領土となった地・ドイツに残留した地と、どこをとっても深刻な問題が横たわる状況にあった。そして、講和会議において敗戦国ドイツからその領土を一部奪うことで、周辺国が自国領土の青写真を示したことに対し、ドイツ側がその地の住民に帰属の意思を聞くように要求したことから「住民投票」が実施される道が開かれたのである。この住民投票地域の設定の経緯において、大戦を中立国としてやり過ごしたデンマークは、きわめて特異な、そしていわば「隠密的」ともいえる外交的行動を貫く形で、そのほかの住民投票地域のなかに北部スレースヴィ問題を滑り込ますことに成功している。1864年以来の「イルレデンティズモ」的問題をドイツの敗北を機に解決を図ったのである。 本研究課題は、この歴史的事情を、デンマークではその状況においていわば「主役」として行動した当事者が、デンマークの歴史学界に多大な影響力を持っていた一大学教授であって、彼の影響下で歴史叙述のモノポリー的状況の中で「同時代史」が編纂されている状況に、デンマーク国内、北欧諸国内、そしてドイツ内での歴史叙述がいかなるものであったかを、比較検討するものである。 デンマーク国内では、叙述上のモノポリー現象が見事に成功し、北欧諸国でもデンマークの状況を受けて同様であったが、ドイツにおいては、1918年当時の国境設定交渉にかかわる当事者および周辺者に対する批判から、かなり異なる状況が見受けられる。

  • 第1次世界大戦終了時におけるデンマーク急進左翼党の対ドイツ政策

    2002年  

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     第1次世界大戦の終了当時,デンマークでは急進左翼党が社会民主党の支持のもとに政権を担っていたが、隣国ドイツの敗北という事態にデンマーク国内では一挙に戦勝国フランスの支援のもとにかつてドイツに「奪われた」スリースヴィを、時代状況に乗る形でできるだけ広い地域をもって、取り戻そうとする機運が醸成されつつあった。その事態は,コペンハーゲンのインテリ層を支持母体とする急進左翼党の政策とは正反対のものであり,同党の方針は、保守国民党・左翼党が押し進める、将来のドイツ復興後の事態を恐れない楽観的な「旧デンマーク領土」の返還を求めた国境修正の要求を、なんとしてでも押しとどめようとするものであった.敗戦国ドイツに対し,対戦中に中立を貫いたデンマークが,いわば戦勝国側の承認のもとにフリーハンドで「祖国復帰」地域を設定できる状況にあって,急進左翼党政府が、いわば「禁欲的な」領土政策を外的状況が彼らの目指そうとする方向以外にありえないという状況を「演出して」、内政・外交ともにある種の禁欲的必然状況を作り出していった、と言えるのではないだろうか. その方法とはどのようにしたのであろうか.まずは,禁欲的領土要求に基づく国境修正こそが,世論であるとする署名活動。その宣言文,すなわち「十月宣言」の作成と意図的な「不発表」。敗戦国と戦勝国間の総括的講和に先んじるドイツによる「自発的」北部スリースヴィの返還提案の画策。それに対する水面下での努力。復帰地域を限定することになる住民投票への動きにゴーサインを与えるドイツ外相による書簡(「ゾルフ書簡」)下書きの作成。そして,それらは政治家ではない人物,コペンハーゲン大学歴史学教授オーウェ・フリースによる,一連の隠密行動によってなされた観がある.

  • 19世紀デンマーク・ナショナルリベラリズムの可能性と限界

    1998年  

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     19世紀のデンマーク社会に、知識階級、すなわちナショナルリベラルが与えた影響は極めて大きく、画期的ではあるが、その中にナショナルリベラルの有していた本来的性格と、その時間的空間に、ある意味で偶然的に同居していたより自由主義的な性格とを、明確に区別する必要がありそうだ。いままで筆者は、ナショナルリベラルをそのスポークスマンであったオーラ・リーマンの言動に代表させてきたことによって、本来のナショナルリベラルよりも遥かに自由主義的な彼の政治感覚をナショナルリベラルのそれと混同してきたようだし、アントン・チェアニングの、若くして国外の自由主義の展開を見てきたコスモポリタン的な軍人的機能主義に基づく平等感覚を、見落としてはいなかったろうか。1848年の絶対王政の終焉、1849年の自由主義憲法といった自由主義の勝利は、ナショナルリベラルによる行き過ぎた自由の修正という問題が生じ、それによってよりリベラルな農民の友との対立が表面化したのであった。1846年の農民の友協会設立の当事者でもあった二人は、それぞれ三月内閣の無任所大臣と陸軍大臣となったが、三月内閣が本来のナショナルリベラルの持つ以上の自由主義を実現するに至らなかったために、後の左翼党となる農民の友を離反させることになってしまった。世代的にも、思想的にもナショナルリベラルに属さないチェアニングは、軍人としての視野から農民・庶民を動員することに関心を持ち、階級的平等の実現を求めたのである。そして、1840年代において彼の求める階級的平等を基点とする自由主義的欲求は、リーマンらの推し進めるナショナルリベラル運動と合流し、前述した農民の友協会の設立にリーマンらと協力するところとなった。そして、リーマンがナショナルリベラルの枠を飛び越す形で農民の権利や庶民をも前提とした男子普通選挙権を語るとき、リーマンとチェアニングらが、時の勢いで本来のナショナルリベラルが持っている以上の自由をナショナルリベラルに負わせてしまったのである。それゆえ、そのあたりを充分に分析・整理をしない限り、1870年以降のラディカル派によるナショナルリベラル批判を正当には評価できないに違いない。

  • デンマーク史に見られる小国民意識の成立過程について

    1997年  

     概要を見る

    ここでいう“小国民意識”を一般論ではなくデンマークという国にとっての国民意識と限定する必要がある。一般的“小国民意識”という点では、1864年の第二次スリースヴィ戦争の敗北によって生じており、それでも欧州列強の力関係次第では、その舵取りでスリースヴィの奪還の可能性を考えることもありえた。ナショナルリベラルを含めた政府の存続は、その可能性にこだわったからである。ところが、国際的権力政治の中で、その座標位置が“援軍”さえ受けられようがないという認識が、政府及び上層階級から下層階級まで行きわたるには、やはり大きな衝撃が必要であった。そこには1871年のドイツ帝国の誕生を想定するだけでは解答はえられない。 デンマークという国にこだわって“小国民意識”を論じる際に、前提となすべきは、第一次世界大戦終了時における徹底した禁欲的領土観の存在であり、敗戦国ドイツの復興の論理をも先取りした将来を見据えた“小国存続”のためのマヌーヴァ選択の国民意識の分析である。それは第二次世界大戦の終了時にも、そして、1955年のボン・コペンハーゲン宣言に至るまで生き続けた“小国の国家理性”に貫かれた発想法の究明にある。大いなる隣人ドイツとどのようにしたら自らが存続可能であろうかという認識の出発点の探求が大事である。 そこで、注目するのは、1878年に独墺間でとりきめた“プラハ条約”の無効確認であり、これが公開された翌年にデンマークで反独世論が盛り上った際、(―デンマーク王クリスチャン九世の末娘がハノーファー家に連なる英国カンバーランド公と結婚することになる状況が生まれていた―)、ドイツにおけるデンマーク敵視世論の動きは、デンマーク国民をちぢみ上がらせたという。現実に、この時点から、デンマーク政府は反独言論に過敏となっていったようだ。研究成果の発表2000年3月 早稲田大学文系研究科、『文学研究科紀要』「デンマーク史に見られる小国民意識の成立過程」

  • 北欧社会における現代への「突破」Gennembrudに関する研究-デンマークを事例として

    1996年  

     概要を見る

     デンマーク史における「突破」は、国際関係の座標的認識に限って言えば、外交的状況を”力”に頼りうるものとして理解する”好戦的”なナショナルリベラルという知識階層が政治的・社会的・文化的領域で君臨していた状況の存在を前提にして、”力”の限界を認識し祖国を小国と自認するいわば”国防ニヒリズム”的な”平和主義的”実感を持つ人々の抬頭現象とも言えよう。現実には、そのイデオロギーを政党綱領として掲げる1905年の急進左翼党の出現によって、第二次世界大戦までのデンマークの外交的動きが説明可能となったのであるが、この政党のイデオロギーを先駆的に育んだヴィゴ・ヘーロプやブランデスの1870年代における抬頭が決定的意味をもつ。それらを報告者は1994年の『文学研究科紀要』第39輯の拙稿等において指摘してきたが、それらで指摘したヘーロプの認識が外見上時代状況の大幅な変化があったにもかかわらず、第一次世界大戦直後はもとより、第二次世界大戦直後に至っても急進左翼党の立場を固執する歴史学者オーエ・フリースによって明確に改めて語られるのである。そこでは決定的敗北を喫したドイツの”強国”としての再興など起こりえない状況のもと、なりゆき次第では南スリースヴィの”祖国復帰”が明確な世論になりえた時代にあって、国境の不変を主張した。彼の提唱した国境政策は、デンマーク内のドイツ少数民族の優遇策であり、その政策によって生ずる信頼醸成によって、国境の外にいるデンマーク少数民族の対遇が改善され、それが”平和で安定した”国境をもつデンマークの安全保障に繋がるとしたのである。そして現実に国境は動かなかった。 こうした発想法が、たとえば近隣には”真の友人”を持たない我国の国民にとっても、我国の安全保障の一つの策として、在日外国人の充分な権利保証に対する前向きな姿勢をとるべきだという立場に支持を与えることになろうか。