2023/10/02 更新

写真a

ミズバヤシ タケシ
水林 彪
所属
法学学術院
職名
名誉教授

研究分野

  • 史学一般
 

共同研究・競争的資金等の研究課題

  • 近代法システムの形成・展開・変容―西欧・日本・中国の比較研究―

    科学研究費助成事業(東京都立大学)  科学研究費助成事業(基盤研究(C))

  • 民商二法の関係についての比較法史学的研究

    科学研究費助成事業(東京都立大学)  科学研究費助成事業(基盤研究(C))

  • 主要<文明社会>の法の比較史的研究-西欧・中国・日本等における土地法-

    科学研究費助成事業(東京都立大学)  科学研究費助成事業(基盤研究(C))

  • 近代日本地域自治の軌跡-村と「むら」の法史学的分析

    科学研究費助成事業(明治大学)  科学研究費助成事業(基盤研究(B))

  • 民法における近代と現代

    科学研究費助成事業(一橋大学)  科学研究費助成事業(基盤研究(C))

  • 天皇制の法史学的考察-古代と近代-

    科学研究費助成事業(一橋大学)  科学研究費助成事業(基盤研究(C))

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特定課題制度(学内資金)

  • ヤマト政権の形成と構造に関する国制史的研究-倭と出雲・吉備・北九州との関係を中心として-

    2015年  

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    本研究は、3世紀中葉に成立するヤマト政権の形成過程および構造的特質を、比較法制史・国制史の観点から究明することを課題とした。ただし、この時代は日本人がまだ文字をもたなかったことによって、研究方法としては考古学者との協同が不可欠となった。具体的には、考古学者の先達のもと、出雲、大和などの古墳を探索した。最も大きな成果は、弥生末期(2~3世紀中葉)の出雲・伯耆地方において、古代在地首長一揆とでもいうべき権力秩序が形成されていたこと、3世紀中葉から5世紀にかけての前期・中期ヤマト政権も、王権的秩序ではなく、在地首長一揆的秩序であったらしいことがわかったことである。

  • ボアソナード民法典草案の註釈的研究

    2014年   水林彪

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    本研究は、民法史とくにわが国におけるそれにおいて重要な位置をしめるボアソナード民法典草案の中から、きわめて重要な意義を有する諸条文を選択し、これらに、(a)民法史、および、(b)フランス語、の二つの観点から註釈をほどこすことを目的として行われた。①1条〜3条(物権一元論のフランス民法典の流れに属しながら、物権・債権二元論を提起した条文)、②31条・32条(自然権としての所有権および土地収用について規定した条文)、③占有(possession)に関する長大な前註(フランス民法典の系統の占有観念が体系的に展開された重要箇所)、などについて、検討を行った。

  • 律令天皇制の総合的研究

    2013年  

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    1.研究助成金によって、まず、二つの研究を行った。一つは、古代天皇制に関する考古学的研究の成果をフォローすること、いま一つは、考古学研究の成果を参考にしつつ、私自身が、古墳の実地見学を実施することであった。文字使用がなかったヤマト王権ないし前方後円墳体制時代およびそれ以前の国制史研究ないし王権研究にあたっては、文献史料研究だけには絶対的な限界があり、私自身も、考古学研究の成果から多くのものを学ばねばならないという考えから、そのような研究に着手した。 2.前方後円墳体制研究の第一人者である広瀬和雄氏の著作を読み進める中で、少なくとも5世紀中葉までの時代には、王権という表現が必ずしも適切ではないのではないか、という考えに到達した。というのも、広瀬氏によれば、5世紀中葉以前の「ヤマト王権」とは、実は、ヤマト地方に蟠踞していた複数の有力豪族の連合体であったからである。この連合体が、列島全体の盟主的な地位にあったということになる。 地域の有力豪族の連合体は、王権とは概念化できない。王とは、王臣関係という異質な身分的地位にあるものの支配服属関係にほかならないからである。地域の有力豪族の連合体を、日本史の史料用語を用いて表現するならば、時代は大きくことなるが、中世の「一揆」から借用し、「ヤマト王権」ではなく、「古代ヤマト一揆」ということになろう。 3.広瀬和雄氏の「ヤマト王権」研究から、以上のような示唆を受けながら、2013年9月に、かねてより関心をよせていた出雲地方の古墳の実地見学を行った。この実地見学において、1世紀から3世紀中葉以前までの時期に、現島根県を中心に、西は広島県、東は北陸地方に至る間での地域に、「四隅突出型古墳」とよばれる独特の形状を有する古墳が点在している姿を目の当たりにすることができた。この事実から、一般には、「ヤマト王権」時代が開始される以前に、出雲地方を中心に、「出雲王権」が存在したというようなことが言われるのであるが、私は、これについても、「王権」とは言い難く、むしろ、「四隅突出型古墳」に葬られるクラスの有力土豪の連合体秩序、すなわち、「古代出雲一揆」が存在した、と表現すべきであると考えるにいたった。 4.以上要するに、本研究を通じて、私は、5世紀中葉以前の列島の国制を、「王権的秩序」ではなく、「一揆的秩序」として理解すべきではないか、という見通しを得るにいたった。いわゆる「ヤマト王権」(「前方後円墳体制」)が成立するとされる3世紀中葉より以前の時期については、「古代地域一揆割拠体制」、いわゆる「ヤマト王権」(「前方後円墳体制」)は「古代ヤマト一揆支配体制」とでも表現するのが適当であろうか。 5.今後の研究課題は、(1)出雲地方について実見することのできた古代一揆と同様のものを、他の地方についても確認できるかどうか、実地見学を続けること、(2)5世紀末以降の王権の形成(雄略天皇を画期とする)、とくに、律令天皇王権の形成とともに、古代一揆体制はどのように変容せしめられたのかを検証する研究を行うこと、(3)中世後期に各地に姿をあらわす在地領主の一揆体制と上記古代一揆体制との連続と断絶について考えてみること、などである。古代と中世の一揆の間に何らかの継承関係が仮に認められるとするならば、わが国の国制史の叙述の仕方は、これまでのものとは大きく異なるものとなろう。是非とも検証しなければならない仮説であると考える。

  • 我妻栄の「憲法学」:戦前・戦後の憲法学史における位置づけおよび我妻民法学との関連の探求

    2013年  

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    [Ⅰ]1.本研究は、私が数年前から着手した「憲法・民法関係の歴史的考察」の一環として構想されたものであった。すなわち、わが国の民法研究史における第一人者たる我妻栄が、憲法と民法との関係をどのようなものとして考えていたのか、ということを課題とする研究である。その背景としては、我妻は民法学者であるが、20歳代におけるドイツ留学時代から晩年に至るまで、一貫して、憲法に関心を寄せ、憲法に関する著作・論文を数多くものしたという事情がある。 2.私は、以上のような課題を究明すべく、我妻のドイツ留学時代(1920代前半)から晩年にいたる憲法関係の著作・論文を、我妻の民法学との関係を意識しつつ、精査することを試みた。以下、その概要を記す。 [Ⅱ]1.民法学者我妻栄が憲法に学問的関心を寄せるようになった大きな切掛けは、1920年代前半期になされたドイツ留学において、ワイマール憲法(1919年)に接したことであったと思われる。同憲法は、純粋な「公法」ではなく、私人間のあり方についても規定する「私法」の基本法でもあることに特徴が存在するが、まさにそのことの故に、我妻は、必然的に憲法にも関心を寄せることになった。我妻がものした最初の憲法関係論文は、「〈紹介〉ニッパーダイ編『ドイツ国憲法に於ける基本権と基本義務』」(1932年)である。 2.我妻が憲法について論ずるようになった第2の契機は、日本国憲法の制定(1946年)である。大日本帝国憲法から日本国憲法への転換を我妻は感激をもって受けとめ、日本国憲法制定直後から、この新憲法の精神を解明する論文を矢継ぎ早に発表することになった。これは、しかし、民法学者が専門外の憲法のことを研究しはじめた、という性質のものではなかった。日本国憲法は、ワイマール憲法の影響を強く受けて制定されたものであったこともあり、日本国憲法には私人間に適用されるべき基本的人権関連規定が存在する。財産法・家族法両分野にわたり、その根本原則は、日本国憲法において規定されることになったので、民法学者・我妻も、専門内在的に憲法について論ずることになった。 3.日本国憲法制定直後の我妻の日本国憲法論は、古典的自由権よりもむしろ生存権的な基本的人権に着目するものであった。ワイマール憲法とそのもとでの民法・私法のあり方を探求してきた我妻にとって、そのことはごく自然のことであったと思われる。 4.しかし、その論調は、1955年ころから大きく変化する。自然権、古典的自由権の重視という論調へと変化したのである。この転換の理由は、ひとえに、自由党の憲法調査会が、「日本国憲法改正案要綱」を発表し、その説明書において、日本国憲法の背後に存在する自然権思想ないし天賦人権思想を非難したからであった。我妻は、憲法擁護のための前線を、生存権から自由権へと引き戻さざるを得ない、と判断したものと思われる。

  • 近代民法の原型とその変容ー訴訟法を内包する民法とその変容の視角からー

    2012年  

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     1.本特定課題研究は、私自身が以前に発表した次の2論文の延長線上に構想されたものであった。「近代民法の本源的性格ー全法体系の根本法としてのCode civilー」(『民法研究』第5号、2008年)、「近代民法の原初的構想ー1791年憲法律に見えるCode de lois civilesについてー」(『民法研究』第7号、2011年)。 2.以上の研究の過程において、私は、フランス型の民法が、わが国の法学が言う意味での「実体法」のみならず、「訴訟法」をも内包するものであることに注目するにいたった。それが、2012年度の特定課題Bの研究である。 わが国の法学およびその前提をなしたドイツのそれにおいては、訴訟法は、裁判所という国家権力機関が直接に関与する領域であるために、訴訟法は「公法」と観念され、私人間の権利義務関係を規律する「私法」としての民法とは次元を異にすると考えられている(ドイツ・日本的公私法二元論)。しかるに、フランスにおいては、民事法は、究極において裁判所における紛争の解決を目指すものであり、そのような意味において、民法も広い意味での訴訟法の一環として意識されている。そのような広義の民事訴訟法が、(1)法廷における法律家の活動部分(民事訴訟法の根幹部分)と、(2)法廷内外における手続とに二分され、(1)が民法典において、(2)が民事手続法典(通常、民事訴訟法と訳される)に規律されたのであった。(1)は、①私人間の権利義務関係を定めるいわゆる「実体法」と、②「実体法」によって法的に評価されるところの「事実」を証明するための「証拠法」との二本立てである。そして、この①②の総合が、法廷における法律家の実践となるのである。そして、以上のような考え方を最も直截に体系的に提示したものが、ボアソナードに民法典草案なのであった。ここには、財産編、財産取得編、債権担保編などの実体法のほかに、証拠編が存在した。 以上のような観点からのフランス型民法論は、現在準備中の著作『近代憲法・民法史論』うちの一つの章「訴訟法としてのフランス型民法」において、論じられる予定である。 3.なお、上記論文と密接に関連するところの、同書に収載予定の「「憲法と経済秩序」の近代的原型とその変容ー日本国憲法の歴史的位置」論文の方がいちはやく脱稿し(これは、2011年度特定課題Bの研究成果でもある)、早稲田大学法学学術院GCOEの機関誌『季刊 企業と法創造』9巻3号、2013年2月)に発表する機会を得た。

  • 憲法と民法の近代的原初形態とその現代的変容

    2011年  

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     1.本特定課題研究は、私自身が以前に発表した以下の3論文の延長線上に構想されたものであった。「近代憲法の本源的性格――soci&#233;t&#233; civileの基本法としての1789年人権宣言・1791年憲法―」(戒能通厚・楜澤能生編『企業・市場・市民社会の基礎法的考察』日本評論社、2008年)、「近代民法の本源的性格ー全法体系の根本法としてのCode civilー」(『民法研究』第5号、2008年)、「近代民法の原初的構想ー1791年憲法律に見えるCode de lois civilesについてー」(『民法研究』第7号、2011年)。これらの論文は、フランス近代(革命期~ナポレオン時代)における憲法と民法との関係(憲法と民法の近代的原初形態)について、論じたものである。 2.本特定課題研究では、以上をふまえ、主として19~20世紀における民法の変容の研究を行った。具体的には、19世紀後末期段階におけるフランス民法典(1804年)の変容を、一個の法典草案の形でまとめたボアソナード民法典草案の研究である(いただいた助成金は、ボアソナード民法典草案関係のテキスト・資料の収集費用にあてさせていただいた)。膨大なテキストから、2011年度は、(1)債権論(フランス民法典は、契約法を債務obligationの観点から構成していたが、ボアソナードは、これに加えて、債権=対人権 droit personnelの観点からも構成した)、(2)会社契約(soci&#233;t&#233;)、(3)証拠(preuve)の3つの部分について精読した。 私自身、予想をこえた成果を得たと感じているのは、(1)および(3)の研究である。 (1)の研究を通じて、ボアソナード民法典草案は、片足をフランス民法典が採用したインスティトゥティオネス体系におきつつも、パンデクテン体系に一歩踏み出す性格のものであったことを確認した。ボアソナード民法典草案の体系は、一般に、フランス型のインスティトゥティオネス体系であると評されることが多いが、それは、正確ではない。 (3)の研究(この部分は、一橋大学法学研究科特任講師の葉晶珠氏との共同研究)を通じて、フランス型民法典は、ローマ以来の伝統をふまえて、訴訟法(訴権法と証拠法)を内包する性質を有していたこと、ボアソナード民法典草案証拠編は、この伝統を一つの編という形で明示したものであること、訴権法・証拠法を民法から切り離し、民事訴訟法にとりこむのは、ドイツ型法体系であり、今日の日本法はこの影響を受けたものであること、そのようなドイツ・日本法の背景には、国家(公法)と社会(私法)の独特の二元論が存在することを具体的に知り得たことである。 3.以上の諸研究の一端は、国際学術シンポジウム「東アジアにおける民法の受容と展開:民法の歴史的基盤と民法改正の課題」(韓国法史学会、ソウル大学校法学研究所主催、2012年2月21-22日、ソウル)における基調講演「西洋近代民法の諸類型」として、口頭で発表した。この報告は、本年秋に、韓国法史学会機関誌上で、韓国語に翻訳されて発表される予定である。 4.さらに、以上の研究を、『憲法・民法の近代的原初形態とその歴史的展開』(仮題)と題する単著にまとめるべく(すでにある出版社と約束ができている)、原稿を執筆中である。

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