2024/03/28 更新

写真a

マエダ トオル
前田 徹
所属
文学学術院
職名
名誉教授
学位
文学修士 ( 北海道大学 )

学歴

  •  
    -
    1976年

    北海道大学大学院   文学研究科   東洋史学  

  •  
    -
    1971年

    北海道大学   文学部   史学科東洋史学  

所属学協会

  •  
     
     

    日本西洋史学会

  •  
     
     

    日本オリエント学会

研究分野

  • ヨーロッパ史、アメリカ史

受賞

  • 流沙海西奨学会賞

    1982年08月  

  • 日本オリエント学会奨励賞

    1980年10月  

 

論文

  • ウル第三王朝時代の王の祭儀権とウンマの祭

    前田 徹

    早稲田大学文学研究科紀要   57 ( 4 ) 5 - 18  2012年03月

  • ウル第三王朝のエラム統治とシマシュキ朝の成立

    前田 徹

    西南アジア研究   ( 73 ) 1 - 18  2010年09月

    CiNii

  • 王妃アビシムティと豊饒神イナンナ

    前田 徹

    早稲田大学文学研究科紀要   55 ( 4 ) 35 - 48  2010年03月

  • Gilgamesh and Agga, a heroic story

    Tohru Maeda

    Orient   45 ( 45 ) 61 - 66  2010年03月

     概要を見る

    Lines 100-106 of Gilgamesh and Agga are usually interpreted as Gilgamesh speaking in retrospect. That is, Gilgamesh is recalling his indebtedness to Agga, and speaks of returning the old favor to him. However, I suggest that this section does not look back upon some past event, but expresses the real situation just after the battle, in which the victor Gilgamesh tells the defeated Agga to become his subject, thus allowing Gilgamesh to portray himself alone as having become the hero with no rival.

    DOI CiNii

  • rabian babtisu

    前田 徹

    科学研究費補助金 成果報告書(特定領域研究「セム系部族社会の形成」、計画研究「シュメール文字文明の成立と展開     11 - 14  2010年03月

  • 初期メソポタミアの王権

    前田 徹

    西洋史論叢   31 ( 31 ) 125 - 133  2009年12月

    CiNii

  • シュメールにおける地域国家の成立

    前田徹

    早稲田大学文学研究科紀要   54 ( 4 ) 39 - 54  2009年03月

  • シュシンの登位事情

    前田徹

    西洋史論叢   ( 30 ) 1 - 12  2008年12月

    CiNii

  • ウル第三王朝時代ウンマにおけるシャラ神殿造営

    前田徹

    早稲田大学文学研究科紀要   53 ( 4 ) 33 - 44  2008年02月

  • キシュとウルクの対立

    前田 徹

    史朋   39 ( 39 ) 1 - 13  2007年03月

    CiNii

  • ウル第三王朝時代ウンマ文書における王のサギ

    前田 徹

    早稲田大学大学院文学研究科紀要   51 ( 4 ) 35 - 48  2006年02月

    CiNii

  • Royal Inscriptions of Lugalzagesi and Sargon

    Tohru Maeda

    Orient   40   3 - 30  2005年06月

  • エブラ文書の年代

    前田 徹

    早稲田大学大学院文学研究科紀要   50 ( 4 ) 5 - 16  2005年02月

  • Some Corrections of M.Sigrist's Texts from the Yale Babylonian Collections, Parts 1 & 2

    Tohru Maeda

    Orient   39  2004年06月

  • エンメテナの回顧碑文

    西洋史論叢/早稲田大学西洋史研究会   25  2003年12月

  • ウル第三王朝時代ウンマにおけるエンシとシャブラ

    オリエント   46 ( 1 )  2003年09月

  • シュメール語文字史料から見た動物

    西アジア考古学   ( 4 ) 31 - 39  2003年03月

  • マルトゥ、周辺異民族=「蛮族」観からの自立過程

    ヨーロッパ史における分化と統合の契機、科学研究費補助金研究成果報告書・代表研究者前田徹    2002年03月

  • ウル第三王朝時代ウンマの労働集計文書における休日計算

    オリエント   44 ( 2 )  2002年03月

  • Assyriology,part 1:It all started with fifty Sumerian tablets,

    Orient:RSNESJ 36   36  2001年11月

  • ウンマ文書に現れるdu11-ga-gi-na

    オリエント   44 ( 1 )  2001年09月

  • シュメール人の思考の一断面

    早稲田大学文学研究科紀要   46;4  2001年02月

  • ウル第三王朝時代ウンマ文書からみたマダガのアスファルト

    西南アジア研究   53  2000年06月

  • ウンマにおける舟の運行と管理

    オリエント、日本オリエント学会   42;2  2000年03月

  • ウル第三王朝時代ウンマの文書管理官GA2-dub-ba

    早稲田大学文学研究科紀要   45 ( 4 )  2000年02月

  • 「ギルガメシュとアッガ」解釈の試み

    オリエント   43 ( 1 ) 119 - 126  2000年

  • シュメールの蛮族侵入史観

    オリエント/日本オリエント学会   41 ( 2 ) 154 - 165  1999年03月

  • シュメールにおける王権の象徴

    早大文研紀要   44;4,21-30  1999年02月

  • アッシリア学と19世紀ヨーロッパ

    西洋史論叢/早大西洋史   20;69-81  1999年01月

  • 複合都市国家ラガシュ

    史朋/北海道大学文学部東洋史談話会   ( 30 ) 14 - 25  1998年03月

  • 複合都市国家ラガシュ

    史朋   30   14 - 25  1998年

  • シュメールの蛮族侵入史観

    前田 徹

    オリエント   41 ( 2 ) 154 - 165  1998年

    DOI CiNii

  • シュメール王権の展開と家産制

    オリエント   38 ( 2 )  1996年

  • bal-ensi2 in the Drehem texts

    Acta Sumerologica   16   115 - 164  1994年

  • シャギナ(将軍)職の成立-シュメール統一王権の確立に関連させて-

    史観   130   62 - 73  1994年

  • 王碑文末尾の文章-時代区分に関連して-

    前田 徹

    オリエント   35 ( 2 ) 106 - 118  1993年

    DOI CiNii

  • ウル第三王朝成立直前におけるエラムの政治的統合

    オリエント   36 ( 1 )  1993年

  • The defense zone during the rule of the Ur III dynasty

    Acta Sumerologica   14   135 - 172  1992年

  • Two Rulers by the name Ur-Ningirsu in Pre-Ur(]G0003[) Lagash

    Acta Sumerologica   10   19 - 35  1988年

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書籍等出版物

  • メソポタミアの王・神・世界観ーシュメール人の王権観

    山川出版社  2003年10月

  • メソポタミアの楔形文字

    菊池徹夫編『文字の考古学1』同成社  2003年03月

  • 古代オリエント

    佐藤次高編 西アジア1、山川出版社  2002年03月

  • 第一章 総論、第二章 都市国家から統一国家へ

    歴史学の現在 古代オリエント、山川出版社  2000年07月

  • 初期メソポタミア社会論

    岩波講座世界歴史2 オリエント世界  1998年12月

共同研究・競争的資金等の研究課題

  • 「シュメール文字文明」の成立と展開

    科学研究費助成事業(京都大学)  科学研究費助成事業(特定領域研究)

    研究期間:

    2005年
    -
    2009年
     

    前川 和也, 前田 徹, 依田 泉, 森 若葉, 松島 英子

     概要を見る

    前4千年紀末にメソポタミア南部で成立したシュメール文字記録システムが、遅くとも前3千年紀中葉にはシリア各地で受け入れられ、シリア・メソポタミア世界が一体化した(「シュメール文字」文明)。アッカド語などセム系言語を話す人々も膠着語であるシュメール語彙や音節文字を容易に利用できたのである。本研究は、「「シュメール文字」文明」の展開過程、またセム諸民族がこれを用いてどのように社会システムやイデオロギーを表現しようとしたかを考究した。

  • 史料とてのシュメール語王讃歌の活用

    科学研究費助成事業(早稲田大学)  科学研究費助成事業(基盤研究(C))

    研究期間:

    2006年
    -
    2008年
     

    前田 徹

     概要を見る

    メソポタミアの前3千年紀末に成立した王讃歌の正確な成立時期と作成目的について、研究者の間で一致した見解がなかった。前者について、ウル第三王朝の創始者ウルナンム治世に成立したことを論証した。後者については、従来の神殿祭儀と宮廷祭儀の二分法は有効でなく、王の自己表現という分析視点を据えることで、王権の正統な授与者であること、神々のために王権を誠実に行使することを唱うために作成されたと結論される。

  • シュメールにおける統一王権と都市支配者

    科学研究費助成事業(早稲田大学)  科学研究費助成事業(基盤研究(C))

    研究期間:

    2003年
    -
    2005年
     

    前田 徹

     概要を見る

    本課題では、前3千年紀最後の時期にメソポタミアを統一したウルの王権が支配下にある伝統的な都市に対してどのように関わったかを、支配下にあったウンマの文書から、1)王の神格化、2)ウル王のウンマにおける祭儀権、この2面から考察した。結果として、ウンマの伝統を尊重しつつ、その協カの下に祭儀を実施していたという結論を得た。この結果は、ウル第三王朝は中央集権的な国家体制を形成したという定説でなく、むしろ、研究代表者がシュメール王権の研究を続ける過程で得たシュメール諸都市に対するウル第三王朝の直接統治体制は未完成であるという説を補強するものである。
    1)王の神格化ウル第三王朝の王は、初代ウルナンムを除いて、以後の4代の王が自らを神とした。王の神格化は絶大な権力を持つ王の登場として理解されている。しかし、ウンマ文書から明らかになるのは、神たる王は、ウンマ側が期待するウンマの平安と豊読を見守る守護神(flama)であり、ウルの王が理想とする君臨する王として神殿からウンマを統御し支配する王ではない。
    2)ウル王のウンマにおける祭儀権ウンマの祭儀の根幹に触れるほど重要な王の行為である「王の供犠」をウンマ文書から検証すると、「王の供儀」を中核としたウンマの諸祭儀の組み替えが見られるにしても、ウルの王が都市の伝統を破壊して、中央集権的で画一化した祭儀を押しつけることはない。あくまでも、ウンマ側の協力のもとに祭儀権を行使するのが基本という特徴が指摘できる。

  • ヨーロッパ史における分化と統合の契機

    科学研究費助成事業(早稲田大学)  科学研究費助成事業(基盤研究(B))

    研究期間:

    1998年
    -
    2001年
     

    前田 徹, 大内 宏一, 小倉 欣一, 野口 洋二, 井内 敏夫, 村井 誠人, 安斎 和雄

     概要を見る

    本課題の研究目的は、現在進行形で推移するヨーロッパの変容を通時的に理解するために、分化と統合という相反する複雑な諸力がいかに作動してきたかを歴史的に再検討するものである。10名の研究分担者が対象としたのは、時代は古代オリエントから現代まで、地域は西欧をはじめ東欧、北欧、アメリカという空間的にも時間的にも広い範囲である。研究成果報告書は印刷される予定であるので、詳細はそれに譲り、研究成果の一側面を示す。
    古典古代にはじまるヒューマニズムの理念、ローマ教会に体現される普遍的教会の理念とローマ帝国理念、さらには、人間理性の覚醒と「文芸共和国」という国境を越えた文化共同体、それらは、普遍的価値に裏打ちされたヨーロッパを求める動きととれる。宗教改革も、近代の国民国家の創成も、ヨーロッパを普遍的なものに基盤を置きたいという動きであって、統合の場を破壊する動きではないと見做しうる。また国民国家・民族国家形成以後の近代・現代の動向、一見分化の動きに見えるものが、より高度な統一の原理を求めるもしくは補強する意図に起因し、そのなかでのヘゲモニー争いと見做しうる事象といえる。
    そこで醸成されたヨーロッパの優位性の意識は、たとえば、イスラム世界と対時したときどのような態度なり、反応になるのであろうか。また、アメリカでは、黒人やアジア系など歴史的に異なった人々との複合的な価値観を共有できる国家へと変貌することが統合に不可欠であろうが、その道は厳しいものとなっている。
    ヨーロッパは、過去に築かれた伝統的な価値観や政治・社会の遺産の上に成り立っており、その歴史性を脱却してはいないであろう。しかし、歴史は変容を迫るものであり、その新しい事態を見極めることは至難である。そうであっても、この研究で示したような通時的な問題整理、すなわち歴史的考察が不可欠であることは間違いない。

 

特定課題制度(学内資金)

  • 初期メソポタミア史における王権と法

    2009年  

     概要を見る

     本研究課題の目的は、初期メソポタミアに区分される前3千紀後半と前2千年紀前半の楔形文字史料によって、王権と法の関わりを検討することであった。具体的には、従来、個別的に扱われてきた初期メソポタミア(前1500年以前)における法の明文化(法典)、都市支配者による債務奴隷の解放宣言、債務証書の破棄(徳政令)などを網羅し、看過されてきた王権の視点から、都市国家から統一国家への発展に平行して変化した王権の理念や権能に関連させた法研究を目指し、王が社会規範としての法をどのように捉え、法を統治の一環として、どのように社会に浸透させたかを検証することが目的である。意図としては、従来の法制史的研究の欠けた部分を新しい視点からの検討によって補い、初期メソポタミア史における法と王権との性格付けをより精緻にすることにある。 関係史料は、王権の発展に合わせて、法典が成立したウル第三王朝を区切りとして、それ以前と以後に二分した。ウル第三王朝時代以前(前2500年‐前2100年)が(1)の段階であるが、さらに後者を、(2)ウル第三王朝以後ハンムラビまでの時期(前2100年‐前1750年)、(3)ハンムラビ以後の時期(前1750年‐前1500年)に二分することで、結果として3区分による史料収集と分析をおこなった。 本研究に入る前に、(1)の段階については、ある程度の研究見通しが立っており、ここでの中心は(2)の段階から(3)への変化である。研究期間内では、史料を収集し、その解釈と整理までを行った。しかし、いまだ結論を述べる段階にはない。ただし、(2)の段階に関係するのであるが、この研究の基礎になる法典について、同じ法典とされるにしても、ウルナンム法典、エシュヌンナ法典、ハンムラビ法典の3法典と、エシュヌンナ法典やアッシリア法典とは、性格が異なり、王権に関わる性格付けも区別しなければならないという確信を強くした。

  • シュメールにおける王権と家産制

    2002年  

     概要を見る

     シュメールの王権は初期王朝時代からウル第三王朝時代にかけて、都市国家分立の状態から領域国家そして統一国家へと展開した。王権の経済基盤は初期王朝時代の都市国家と同様に家産体制に依存した。ウルの王権は支配下の各都市に直営地を設定し、ラガシュでは500ユニット、ウンマでは100ユニットのごとくに画一的な掌握であった。その耕作に専従するものは初期王朝時代と同様に、公的組織に服属し、土地と大麦の支給を受けた。旧来の家産体制を継承するのである。 そうした前提を踏まえて、ウルの支配下にあるシュメール各都市における公的経営体の実態を解明する必要があり、さらに都市間に相違があるかどうかも確認されなければならない。 ウル第三王朝時代に統一国家が成立したにしても、シュメール各都市の自立的傾向は維持されいる。中央集権化と地方分権化の相克と捉えても良いが、そうしたなかで、都市の支配者エンシは、それぞれの都市においてウルの王の代官的役割、統治組織の下部を支える役割を期待されながらも、一方において、中央政権からの一定の自立を求める動きも見せたはずであり、それを実証することが必要になる。それが第2の課題になる。 こうした課題のもとに研究を進めており、第44回日本オリエント学会大会2002.10.19,20 東北大学(仙台)において、「ウル第三王朝時代ウンマにおける支配者(エンシ)とシャブラ」と題する発表をおこなった。隣接したラガシュとウンマを比較しながら、公的経営体の組織の相違、それに起因するシャブラやエンシの都市行政組織における役割の相違が、発表の骨子である。この発表原稿を元にした論文は、『オリエント』第45巻第1号(2003.9.)に掲載される予定である。

  • ヨーロッパ史における分化と統合の契機

    2001年  

     概要を見る

    古代メソポタミアにおける遊牧民マルトゥを例に取り、異民族として蔑視されたマルトゥが政治的社会的に主体性を獲得する過程を明らかにした。そのことで、古代メソポタミアにおけるひとつの特色として、新来の民族と強固に築かれた伝統的社会の確執と融合の関係の一側面が明らかになった。なお、関連する科学研究費助成金補助金が本年度最終年度となり、研究成果報告書が作成され、詳細はそこに記されている。

  • 前三千年紀末から前二千年紀前半のアモリ人の自立化過程

    2000年  

     概要を見る

     前二千年紀のメソポタミアでは、アモリ人(マルトゥ)が政治の主導権を握っていた。しかし、それ以前の前三千年紀では、アモリ人は周辺異民族のひとつと看做されていた。アモリ人が周辺異民族=「蛮族」観から脱却し、政治勢力として自立する過程を解明することが、古代メソポタミア史を理解する上に重要な課題になる。本課題の目的は、この自立過程をウル第三王朝時代(前三千年末)からの歴史的状況の中で具体的に捉え直すことである。 マルトゥの政治舞台への登場は、ウル第三王朝が正規軍を補い、地方の治安を安定させる目的でマルトゥを「傭兵」としたことから始まると言える。ウルの王は、マルトゥの族長を温存して、その指導力に頼った。そのことが、マルトゥの族長制を助長したと思われる。前二千年紀に入ると、族長に率いられたこれら遊牧のマルトゥは、バビロンやエシュヌンナなどの有力な都市の王と同盟を結ぶまでに政治勢力として実力を付けた。一方で、マルトゥ諸族に同族意識が芽生えていた。バビロンのハンムラビとアッシリアのシャムシアダドの王統譜は相似し、マルトゥ系諸族の名祖が系譜的に辿られている。同一の祖から分かれた同族であるという意識がこの二つの王統譜に反映する。これは、マルトゥの政治的自立を裏付けるものであろう。 バビロンのハムラビは、統一事業が完成するとともに、いままでその力を有効に使ってきたマルトゥの族長の勢力を削ぐために、マルトゥを自己の軍隊の中に組み入れ、その長をラビアン(族長)でなく、軍隊組織の位階であるウグラ・マルトゥとした。さらに王領地から封地を与えることで、遊牧的族長体制の弱体化を図った。ハンムラビのこうした政策が功を奏したかどうかはなお検討すべき事柄であるが、彼がこうした政策を採らざるを得なかったことは、等閑視できない一大政治勢力としてのマルトゥの存在を証明することになろう。

  • マダガからのアスファルト買い付け

    1999年  

     概要を見る

     ウル第三王朝時代ウンマの文書に、アスファルトを求めて現在のイラク・キルクーク地方とされるマダガへ行く記録がある。シュルギ王の25、37、38、46年、アマルシン王の1年から9年までの毎年、シュシン王1、2、6、7、8年のものが残されている。マダガ行きは、多く9月から11月に実施され、2~3ケ月程度の旅程であった。 本課題では、マダガへの人員派遣とその人数や隊編成、それに掛かる経費、アスファルト購入に必要な物品、購入されたアスファルトの管理と利用などを、ウンマ文書から明らかにすることを目的とした。それらの詳細は、『西南アジア研究』第53号(2000)掲載予定の「マダガからのアスファルト」に譲る。 このアスファルトを取りにマダガへ行くことと、アマルシン8年頃に実際に始まり、シュシン王の最後の年の年名に採用されたシャラ神殿造営とが関係し、その資材集めであるという意見がある。常識的に言えばアスファルトが建築資材として使用されたことは容認できる。しかし、ウンマのマダガ関係資料にはシャラ神殿造営に直接関与する記述はないし、既に述べたようにマダガ行きは限られた年に集中することなく、シュルギからシュシンの治世かけて毎年のように実施されており、それに関与する人も、アマルシンとシュシン治世を通じてアッバギナとルガルイトゥダの二人であり、彼らがシャラ神殿造営用に特別に派遣されたと考える根拠はない。逆に、シャラ神殿造営に関わる資材を文書に追うと、マダガからのアスファルトを含めて色々集められた資材はマルサに一旦置かれ、そこから必要に応じて運び出されている。シャラ神殿の造営とこのマルサに関わるのはルガルニルなる人物であった。彼はマダガ行きとは無関係である。ウル第三王朝時代ウンマの行政管理組織における役割分担を明らかにすることは、この組織の再構成に不可欠な要素であるので、慎重な分析を要する問題である。

  • ウル第3王朝時代ウンマにおける船の運行と管理

    1998年  

     概要を見る

     本課題では、ウル第三王朝時代のウンマから出土した行政経済文書の分析を通じて、舟の運行と管理を検討した。初期王朝時代が馬車中心であるのに対して、ウル第三王朝時代は舟の利用が飛躍的に伸びた時代である。大きさと用途に区分された舟に関する用語が多数、経済文書に記録された。舟の管理と運行に関する経済文書も多く残された時代である。情報量に優れたウンマの行政経済文書から明らかになる舟の管理と運行について、その特徴をまとめると次のようになる。1) 舟の建造の補修を行うのがマルサmar-saと呼ばれる箇所であった。ラガシュにおいては、ニナ市区など三箇所にマルサが存在したが、ウンマでは一箇所であった。マルサは舟の建造に必要な各種の材料の貯蔵所でもあり、さらには織物工房なども付随していたと思われ、一大工房を形成していたのである。2) 船頭は、舟の管理に責任をもつ者であり、マルサに所属していた。彼らを統括する者がおり、彼はマルサにおける管理職であった。船頭は舟の破損や破壊に責任を持った。3) 舟の運行に関しては、船全体を統括する運行管理部のような組織はなく、地域や職種によって区別された運用であった。舟それ自体を管理するのが船頭であったが、運行は労働集団が担った。この場合他の運河労働などと同じく、同一の運行を複数の労働集団によって担われていた。4) 舟の管理が船頭、運行が労働集団であるが、舟に積載された物資については、ギリ(gir3)として文書に現れる者が責任者であった。舟自体、舟を動かすこと、積載物、それぞれに別の責任者がいたことになる。

  • ウル第3王朝時代ウンマにおける文書管理官

    1997年  

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    ウル第三王朝時代ウンマ市の文書管理官(GA2-dub-ba)は、ウルシャラとその子ウルヌンガルが知られる。ウルシャラはシュルギ33年からアマルシン8年まで約26年間その職にあり、その年に息子のウルヌンガルと交代した。ウルシャラの子ウルヌンガルは、父の職を継ぐ前のアマルシン1年から、すでに父の下で補佐的な役割を果たしていた。ウルシャラ以前に文書管理官が誰であったか不明である。 文書管理官は会計文書の管理に関わる。例えば、銀をウルエエなる人物からウルギギルが受領して自らの会計簿に入れたとき、文書管理官はその銀の移動を確認するために印章を押している。別の例では、ウルアムマの会計簿にある大麦で、前年度からの繰り越し分の中からすでに別の人に支出した分があり、文書管理官は、この大麦の移動を記録した粘土板を取って保管していた。会計文書に敢えてそのように記すのは、その文書をすでに調査し確認済みであることを示すためであろう。このように文書管理官の任務は経済記録の保管・維持であった。これに関連することとして、文書管理官は、粘土板を保管するための葦篭を作る材料となる葦類を受領している。 文書管理官への土地支給や大麦支給などその地位の高さを窺える史料は現在のところ存在しないが、文書管理官はウンマのエンシに対して「あなたの奴僕」という銘がある印章を使用したので、ウンマの行政機構のなかでエンシの側近として高い地位にあったことは確かであろう。彼らの地位は、ウルの王に属して活躍する役人よりは低かったと思われる。ウンマにおいては、アピサル市区には、家畜や耕地などに関してウンマ市区とは別の責任者がいた。しかし、文書管理官は、エンシ直属の役人として、ウンマ市区とアピサル市区の区別なく、両地区に関与した。 銅製品が造られたとき、文書管理官が倉庫長と共にその重さを量る事例が多い。計った記録を文書管理官が保管し、銅製品そのものは倉庫長が受け取ったのであろうか。この事例の意味するところは、不祥と言わざるを得ない。研究成果の発表1998年3月 「複合都市国家ラガシュ」『史朋』30 (北海道大学東洋史談話会)

  • アッシリア学の成立とヨーロッパ19世紀

    1996年  

     概要を見る

     西アジアの古代を対象とするアッシリア学は、西アジアでなく西欧、とりわけ英・仏・独の三カ国において19世紀に成立、発達した。本課題では、アッシリア学の成立を19世紀ヨーロッパの政治・軍事・文化との関わりから考察し、アッシリア学が現在に引きずる問題の在処を再確認することを目的とした。(1)啓蒙主義とロマン主義、(2)政治:帝国主義時代と西アジア、(3)文化:オリエンタリズム:シノワズリ、ジャポニズムの3視点を設定し、人類学・地質学・古生物学などの学問の発展の側面、西欧の政治的軍事的力学の側面、それに付随するオリエンタリズムの側面から検討した。 アッシリアの都の発掘を競った英仏の二人がともに領事であったことや、その後の発掘を推進した母体がドイツでは1898年にドイツ皇帝のの肝煎りで創設され、国家の援助のもと、政治家・官僚・財界・教会の有力者がメンバーになっているドイツオリエント学会であったように、国家の威信をかけた活動であったことが確認される。 アッシリア学の進展の過程で、非セム系語族の発見により、アーリア人問題などが議論され、イデオロギッシュな人種論争の的になった。しかし、アッシリア学は聖書学の影響を被っている。アッシリア学成立期においては、発掘で見つかった粘土板記録と旧約聖書との調和をはかり、古典たるベッロソスやクテシアスを利用して枠組みするという、ある意味で旧守的な学問態度が主流であったのである。学問の周辺において人種論的偏見による論争があったとしても、学問自体においてはその防波堤の役割を果たしたといえる。さらに、東方の憧憬というオリエンタリズムに影響を与えるとしても、オリエンタリズムからほとんど影響を受けなかった。 このように、聖書学に制約されたアッシリア学の功罪を意識して、人類史の一部としてのアッシリア学を構築する必要がある。

  • ウル第三王朝時代ウンマにおける神殿奉納物受領者

    1995年  

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    神殿とは一義的には神々を祭る場所であるが,一個の経営体でもあった。ウル第三王朝時代シュメールの各都市は,各都市の支配者が管轄する王の家産的経営体と神殿の二重の構造になっており,さらに王の家産的な組織においては支配者一族の経営体が独立的に存在した。同様に神殿とされるものも,中心とその周囲をとりまく二重になっていたのではないかと考えられる。そのことを検証するために,奉納物と定期支給各々の受領者を特定することが本課題の目的であった。奉納とは,都市の各層からの持参物(mu-tum2)であり,定期支給(sa2-dug4)は,神々への月単位の奉納や,神殿に奉仕する者への食料支給などのことである。 持参は,主神シャラの各神殿や,ニンウルラ神の神殿のようにウンマ市の主要神の緒神殿への奉納となっており,奉納物はそこから王の経営体に移譲された。一方の定期支給は,そうした主要神殿の他に,神格化した王や,他の群小の諸神に対しても為されていた。つまり,神殿は王の経営体とは別個の独立した組織と権威を有するも,その保護下にあったことが理解される。 献納を含む持参を扱う者の職名が明示される例は一例しかないが,その場合イシブ神官となっている。定期支給受領者は,グダ神官が担当しており,両者に相違があったようである。グダは,神を祭るという神官本来の意味だけでなく神殿所属の者を総称する場合があるが,一方のイシブは,神を祭る本来的な役割を担った者であった。ここに神殿の二重構造を推定する手がかりがあると思われる。

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