前田 徹 (マエダ トオル)

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所属

文学学術院

職名

名誉教授

学歴 【 表示 / 非表示

  •  
    -
    1976年

    北海道大学大学院   文学研究科   東洋史学  

  •  
    -
    1971年

    北海道大学   文学部   史学科東洋史学  

学位 【 表示 / 非表示

  • 北海道大学   文学修士

所属学協会 【 表示 / 非表示

  •  
     
     

    日本西洋史学会

  •  
     
     

    日本オリエント学会

 

研究分野 【 表示 / 非表示

  • ヨーロッパ史、アメリカ史

論文 【 表示 / 非表示

  • ウル第三王朝時代の王の祭儀権とウンマの祭

    前田 徹

    早稲田大学文学研究科紀要   57 ( 4 ) 5 - 18  2012年03月

  • ウル第三王朝のエラム統治とシマシュキ朝の成立

    前田 徹

    西南アジア研究   ( 73 ) 1 - 18  2010年09月

  • 王妃アビシムティと豊饒神イナンナ

    前田 徹

    早稲田大学文学研究科紀要   55 ( 4 ) 35 - 48  2010年03月

  • Gilgamesh and Agga, a heroic story

    Tohru Maeda

    Orient   ( 45 ) 61 - 66  2010年03月

  • rabian babtisu

    前田 徹

    科学研究費補助金 成果報告書(特定領域研究「セム系部族社会の形成」、計画研究「シュメール文字文明の成立と展開     11 - 14  2010年03月

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書籍等出版物 【 表示 / 非表示

  • メソポタミアの王・神・世界観ーシュメール人の王権観

    山川出版社  2003年10月

  • メソポタミアの楔形文字

    菊池徹夫編『文字の考古学1』同成社  2003年03月

  • 古代オリエント

    佐藤次高編 西アジア1、山川出版社  2002年03月

  • 第一章 総論、第二章 都市国家から統一国家へ

    歴史学の現在 古代オリエント、山川出版社  2000年07月

  • 初期メソポタミア社会論

    岩波講座世界歴史2 オリエント世界  1998年12月

受賞 【 表示 / 非表示

  • 流沙海西奨学会賞

    1982年08月  

  • 日本オリエント学会奨励賞

    1980年10月  

共同研究・競争的資金等の研究課題 【 表示 / 非表示

  • ヨーロッパ史における分化と統合の契機

    基盤研究(B)

  • シュメールにおける統一王権と都市支配者

    基盤研究(C)

  • 「シュメール文字文明」の成立と展開

    特定領域研究

  • 史料とてのシュメール語王讃歌の活用

    基盤研究(C)

特定課題研究 【 表示 / 非表示

  • 初期メソポタミア史における王権と法

    2009年  

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     本研究課題の目的は、初期メソポタミアに区分される前3千紀後半と前2千年紀前半の楔形文字史料によって、王権と法の関わりを検討することであった。具体的には、従来、個別的に扱われてきた初期メソポタミア(前1500年以前)における法の明文化(法典)、都市支配者による債務奴隷の解放宣言、債務証書の破棄(徳政令)などを網羅し、看過されてきた王権の視点から、都市国家から統一国家への発展に平行して変化した王権の理念や権能に関連させた法研究を目指し、王が社会規範としての法をどのように捉え、法を統治の一環として、どのように社会に浸透させたかを検証することが目的である。意図としては、従来の法制史的研究の欠けた部分を新しい視点からの検討によって補い、初期メソポタミア史における法と王権との性格付けをより精緻にすることにある。 関係史料は、王権の発展に合わせて、法典が成立したウル第三王朝を区切りとして、それ以前と以後に二分した。ウル第三王朝時代以前(前2500年‐前2100年)が(1)の段階であるが、さらに後者を、(2)ウル第三王朝以後ハンムラビまでの時期(前2100年‐前1750年)、(3)ハンムラビ以後の時期(前1750年‐前1500年)に二分することで、結果として3区分による史料収集と分析をおこなった。 本研究に入る前に、(1)の段階については、ある程度の研究見通しが立っており、ここでの中心は(2)の段階から(3)への変化である。研究期間内では、史料を収集し、その解釈と整理までを行った。しかし、いまだ結論を述べる段階にはない。ただし、(2)の段階に関係するのであるが、この研究の基礎になる法典について、同じ法典とされるにしても、ウルナンム法典、エシュヌンナ法典、ハンムラビ法典の3法典と、エシュヌンナ法典やアッシリア法典とは、性格が異なり、王権に関わる性格付けも区別しなければならないという確信を強くした。

  • シュメールにおける王権と家産制

    2002年  

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     シュメールの王権は初期王朝時代からウル第三王朝時代にかけて、都市国家分立の状態から領域国家そして統一国家へと展開した。王権の経済基盤は初期王朝時代の都市国家と同様に家産体制に依存した。ウルの王権は支配下の各都市に直営地を設定し、ラガシュでは500ユニット、ウンマでは100ユニットのごとくに画一的な掌握であった。その耕作に専従するものは初期王朝時代と同様に、公的組織に服属し、土地と大麦の支給を受けた。旧来の家産体制を継承するのである。 そうした前提を踏まえて、ウルの支配下にあるシュメール各都市における公的経営体の実態を解明する必要があり、さらに都市間に相違があるかどうかも確認されなければならない。 ウル第三王朝時代に統一国家が成立したにしても、シュメール各都市の自立的傾向は維持されいる。中央集権化と地方分権化の相克と捉えても良いが、そうしたなかで、都市の支配者エンシは、それぞれの都市においてウルの王の代官的役割、統治組織の下部を支える役割を期待されながらも、一方において、中央政権からの一定の自立を求める動きも見せたはずであり、それを実証することが必要になる。それが第2の課題になる。 こうした課題のもとに研究を進めており、第44回日本オリエント学会大会2002.10.19,20 東北大学(仙台)において、「ウル第三王朝時代ウンマにおける支配者(エンシ)とシャブラ」と題する発表をおこなった。隣接したラガシュとウンマを比較しながら、公的経営体の組織の相違、それに起因するシャブラやエンシの都市行政組織における役割の相違が、発表の骨子である。この発表原稿を元にした論文は、『オリエント』第45巻第1号(2003.9.)に掲載される予定である。

  • ヨーロッパ史における分化と統合の契機

    2001年  

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    古代メソポタミアにおける遊牧民マルトゥを例に取り、異民族として蔑視されたマルトゥが政治的社会的に主体性を獲得する過程を明らかにした。そのことで、古代メソポタミアにおけるひとつの特色として、新来の民族と強固に築かれた伝統的社会の確執と融合の関係の一側面が明らかになった。なお、関連する科学研究費助成金補助金が本年度最終年度となり、研究成果報告書が作成され、詳細はそこに記されている。

  • 前三千年紀末から前二千年紀前半のアモリ人の自立化過程

    2000年  

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     前二千年紀のメソポタミアでは、アモリ人(マルトゥ)が政治の主導権を握っていた。しかし、それ以前の前三千年紀では、アモリ人は周辺異民族のひとつと看做されていた。アモリ人が周辺異民族=「蛮族」観から脱却し、政治勢力として自立する過程を解明することが、古代メソポタミア史を理解する上に重要な課題になる。本課題の目的は、この自立過程をウル第三王朝時代(前三千年末)からの歴史的状況の中で具体的に捉え直すことである。 マルトゥの政治舞台への登場は、ウル第三王朝が正規軍を補い、地方の治安を安定させる目的でマルトゥを「傭兵」としたことから始まると言える。ウルの王は、マルトゥの族長を温存して、その指導力に頼った。そのことが、マルトゥの族長制を助長したと思われる。前二千年紀に入ると、族長に率いられたこれら遊牧のマルトゥは、バビロンやエシュヌンナなどの有力な都市の王と同盟を結ぶまでに政治勢力として実力を付けた。一方で、マルトゥ諸族に同族意識が芽生えていた。バビロンのハンムラビとアッシリアのシャムシアダドの王統譜は相似し、マルトゥ系諸族の名祖が系譜的に辿られている。同一の祖から分かれた同族であるという意識がこの二つの王統譜に反映する。これは、マルトゥの政治的自立を裏付けるものであろう。 バビロンのハムラビは、統一事業が完成するとともに、いままでその力を有効に使ってきたマルトゥの族長の勢力を削ぐために、マルトゥを自己の軍隊の中に組み入れ、その長をラビアン(族長)でなく、軍隊組織の位階であるウグラ・マルトゥとした。さらに王領地から封地を与えることで、遊牧的族長体制の弱体化を図った。ハンムラビのこうした政策が功を奏したかどうかはなお検討すべき事柄であるが、彼がこうした政策を採らざるを得なかったことは、等閑視できない一大政治勢力としてのマルトゥの存在を証明することになろう。

  • マダガからのアスファルト買い付け

    1999年  

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     ウル第三王朝時代ウンマの文書に、アスファルトを求めて現在のイラク・キルクーク地方とされるマダガへ行く記録がある。シュルギ王の25、37、38、46年、アマルシン王の1年から9年までの毎年、シュシン王1、2、6、7、8年のものが残されている。マダガ行きは、多く9月から11月に実施され、2~3ケ月程度の旅程であった。 本課題では、マダガへの人員派遣とその人数や隊編成、それに掛かる経費、アスファルト購入に必要な物品、購入されたアスファルトの管理と利用などを、ウンマ文書から明らかにすることを目的とした。それらの詳細は、『西南アジア研究』第53号(2000)掲載予定の「マダガからのアスファルト」に譲る。 このアスファルトを取りにマダガへ行くことと、アマルシン8年頃に実際に始まり、シュシン王の最後の年の年名に採用されたシャラ神殿造営とが関係し、その資材集めであるという意見がある。常識的に言えばアスファルトが建築資材として使用されたことは容認できる。しかし、ウンマのマダガ関係資料にはシャラ神殿造営に直接関与する記述はないし、既に述べたようにマダガ行きは限られた年に集中することなく、シュルギからシュシンの治世かけて毎年のように実施されており、それに関与する人も、アマルシンとシュシン治世を通じてアッバギナとルガルイトゥダの二人であり、彼らがシャラ神殿造営用に特別に派遣されたと考える根拠はない。逆に、シャラ神殿造営に関わる資材を文書に追うと、マダガからのアスファルトを含めて色々集められた資材はマルサに一旦置かれ、そこから必要に応じて運び出されている。シャラ神殿の造営とこのマルサに関わるのはルガルニルなる人物であった。彼はマダガ行きとは無関係である。ウル第三王朝時代ウンマの行政管理組織における役割分担を明らかにすることは、この組織の再構成に不可欠な要素であるので、慎重な分析を要する問題である。

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