2024/12/21 更新

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コンドウ カズナリ
近藤 一成
所属
文学学術院
職名
名誉教授
学位
博士(文学)早大 ( 早稲田大学 )

学歴

  •  
    -
    1977年

    早稲田大学   文学研究科   史学  

  •  
    -
    1969年

    早稲田大学   文学部   史学  

所属学協会

  •  
     
     

    史学会

  •  
     
     

    早稲田大学東洋史懇話会

  •  
     
     

    東洋史研究会

  •  
     
     

    東方学会

  •  
     
     

    日本歴史学協会

研究分野

  • アジア史、アフリカ史

研究キーワード

  • 中国宋代史

 

論文

  • 南宋地域社会の科挙と儒学—明州慶元府の場合—

    近藤一成

    近世儒学研究の方法と課題     187 - 206  2006年02月

  • 宋代科挙社会的形成—以明州慶元府為例

    近藤一成

    厦門大学学報   2005 ( 6 ) 15 - 24  2005年11月

  • 宋代の修譜と国政—青木報告によせて—

    井上徹・遠藤隆俊編『宋—明宗族の研究』 汲古書院刊     299 - 312  2005年03月

  • 南宋四川類省試からみた地域の問題

    史観   151   15 - 29  2004年09月

  • 『俄蔵黒水城文献』宋西北辺境軍政文書 裁判案件訳注稿(一)

    早稲田大学宋代史ゼミナール

    史滴   25  2003年12月

  • 東坡「黄州寒食詩巻」と宋代士大夫

    近藤一成

    早稲田大学大学院文学研究科紀要   48  2003年

  • John W. Chaffee; 〈I〉Branches of Heaven: A History of the Imperial Clan of Sung China〈/I〉

    近藤一成

    東洋史研究   61-1  2002年06月

  • 文人官僚蘇軾の対高麗政策

    近藤一成

    史滴   23  2001年

  • 南宋の端宗と帝

    近藤一成

    月刊しにか   10-8  1999年07月

  • The Political Features of Scholar-officials in Sung China

    Iwanami's The World History   9  1999年

  • 宋代士大夫政治の特色

    岩波講座世界歴史   9  1999年01月

  • 宋代士大夫政治の特色

    近藤一成

    岩波講座世界歴史   9  1999年

  • 蘇東坡と王安石

    月刊しにか   9;11  1998年11月

  • On the Elegant Gathering in Western Garden, 1,2

    SHIKAN   /139・141,48-60,16-29  1998年

  • 西園雅集考-宋代文人伝説の誕生-正,続

    近藤一成

    史観   /139・141,48-60,16-29  1998年

  • 王安石撰墓誌銘を読む—地域・人脈・党争

    中国史学/中国史学会   7;pp.171-191  1997年12月

  • 東坡の犯罪—烏臺詩案の基礎的考察

    東方学会創立50周年記念 東方学論集/東方学会   pp.627-643  1997年05月

  • On the Inscription Stones by Wang An-shi

    Studies in Chinese History   7/,171-191  1997年

  • 王安石撰墓誌を読む

    近藤一成

    中国史学   7/,171-191  1997年

  • 宋元時代史の基本問題

    汲古書院    1996年07月

  • 宋代の士大夫と社会

    中国史学の基本問題3宋元時代史の基本問題    1996年07月

  • 宋史選挙志学校試

    宋史選挙志訳註(二)/東洋文庫    1996年03月

  • ピーター・ボル著 唐宋変遷の再考

    史滴/早稲田大学東洋史懇話会   17  1995年12月

  • 信頼できる司馬光の伝記

    東方/東方書店   170  1995年05月

  • A Study of Cai Jing's Educational Policy and Civil Service Examinations

    The Journal of Oriental Researches   53/1,24-44  1994年

  • 蔡京の科挙学校政策

    近藤一成

    東洋史研究   53/1,24-44  1994年

  • On the epitaph of S(]J1166[) X(]J1166[)n by Zh(]J1107[)ng F(]J1107[)ng-p(]J1131[)ng

    Bulletin of the Graduate Division of Literature of Waseda Univ.   39,137-150  1993年

  • 張方平「文安先生墓表」と弁姦論

    近藤一成

    文学研究科紀要   39,137-150  1993年

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書籍等出版物

  • 宋代中国科挙社会の研究

    近藤一成

    汲古書院  2009年05月 ISBN: 9784762925825

  • アジア地域文化学の構築—総論

    近藤一成

    雄山閣『アジア地域文化学の構築—21世紀COEプログラム研究集成』早稲田大学アジア地域文化エンハンシング研究センター  2006年03月

  • 黒水城出土文書宋代軍政文書の研究

    近藤一成

    平成15年・16年度科学研究費補助金基盤C(2)研究成果報告書  2005年04月

  • 南宋・金という時代

    近藤一成

    『世界美術大全集東洋編六南宋・金』小学館  2000年

  • 宋史選挙志訳註(三)補蔭

    近藤一成

    宋史選挙志訳註(三) (財)東洋文庫  2000年

  • 東坡の犯罪-『鳥臺詩案』の基礎的考察-

    近藤一成

    東方学会創立五十周年記念東方学論集  1997年

  • 宋代の士大夫と社会-黄(]G3261[)における礼の世界と法の世界-

    近藤一成

    宋元時代史の基本問題:中国史学の基本問題3  1996年

  • 宋史選挙志訳註(二)学校試

    近藤一成

    宋史選挙志訳註(二)( 財)東洋文庫  1996年

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共同研究・競争的資金等の研究課題

  • 中国科挙制度からみた寧波士人社会の形成と展開

    科学研究費助成事業(早稲田大学)  科学研究費助成事業(特定領域研究)

    研究期間:

    2005年
    -
    2009年
     

    近藤 一成, 森田 憲司, 櫻井 智美, 鶴成 久章, 飯山 知保

     概要を見る

    寧波地域を主な対象とし、時代を宋・元・明に限定して、科挙をキーワードに地域における士人社会の構造の通時的解明を行った。その結果、北宋が科挙制度の確立と士人社会の形成期、南宋が科挙社会と士人社会の成熟期であり、士人社会が自らの来歴の物語を作り出したことが明らかとなった。次の元代は科挙制度が消失したにもかかわらず士人社会は継続し、南宋士人社会の文化伝統を書籍の刊行などによって後世に伝え、科挙が復活した明代は士人社会の爛熟期であり、それらは、北宋の豊稷から明の豊坊に至る豊氏の歴史が雄弁に物語る。

  • 朝野類要の総合的研究

    科学研究費助成事業((財)東洋文庫)  科学研究費助成事業(基盤研究(C))

    研究期間:

    2005年
    -
    2006年
     

    渡辺 紘良, 青木 敦, 長谷川 誠夫, 相田 洋, 近藤 一成

     概要を見る

    1 まず中国における『朝野類要』研究状況調査と研究者との意見交換をめざし、平成18年1月、北京大学張希清教授を招聘した。教授は、北京大学大学院演習題目『朝野類要研究』の担当教官であった。平成18年3月には、来日中の河南大学苗書梅教授を招き、平成19年1月には上海師範大学朱瑞煕教授を招聘した。特に朱瑞煕教授は、宋代科挙官僚制研究の第一人者として知られており、特に『朝野類要』には造詣が深く、同席された研究会において得られた知見は多大であった。また平成18年4月、北京大学を訪問し、『朝野類要』の刊本、編者、内容、訳註方法等について討論を深めた。
    2 北京大学訪問の際、同図書館を訪ね、四庫全書本の底本に当たり、恵棟のみならず、四庫館臣の校訂作業の形跡を多く発見した。北京にては、社会科学院及び中国国家図書館をも訪ね版本調査に当たった。また平成18年7月には南京大学、同年9月には台北に国家図書館を訪ね、それぞれ版本調査に当たった。以上の版本調査をもとに、「朝野類要明刊本校証稿」を作成した。わが国における明刊本の初めての紹介である。
    3 編纂者趙升については、本書序文に「文宣趙升」或いは「双桂書院」とあるのみで詳細は不明であったが、天理大学図書館所蔵『重編詳備砕金』に「双桂書院」及び「趙宅書籍鋪」なる記載を発見することができた。本書の著者が官僚ではなく、「書鋪」或いは書店経営者であることを突き止められた意義は大きい。
    4 『朝野類要』三三〇条の全訳註を完成させ、「朝野類要明刊本校証稿」「朝野類要編纂者趙升考」及び「索引」を付して、報告書『朝野類要の総合的研究』を刊行した。

  • 黒水城出土宋代軍政文書の研究

    科学研究費助成事業(早稲田大学)  科学研究費助成事業(基盤研究(C))

    研究期間:

    2003年
    -
    2004年
     

    近藤 一成

     概要を見る

    北宋末・南宋初の年号をもつ官文書は、今までのところロシア東方学研究所蔵コズロフ将来黒水城文献に含まれた109葉の文書しか知られていない。本研究は、2000年に宋西北辺境軍政文書と名づけられて上海古籍出版社より公刊され、われわれがようやく目にすることのできるようになったこの文書について、その内容を検討し、また部分的ではあるが世界で最初の訳注を試みたものである。
    文書はすべて断片であり、詳しい内容は確定できない。そのなかで最も多くの40葉以上は、北宋徽宗朝の宣和年間に〓延路保安軍金湯城(陜西省延安市志丹県金鼎鎮金湯村)で起った軍糧の不正支給に関する裁判関係の書類である。文書にみられる年号によると、金湯城は紹興元年まで宋軍の指揮下にあり、北宋一代を通し対西夏戦の最前線として重要な軍事拠点でありつづけたこの城寨は、北宋滅亡後もしばらく宋側にとどまったことが分かる。しかし史書によれば西夏軍はしばしば金湯城を攻略し、ここを宋側が恒常的に確保するのは神宗の元豊年間以降であり、哲宗の元符2年に、恐らく現在遺跡の残る城壁が築かれ、金湯城の名称が与えられた。裁判は、民間人の李適という人物の告発によって始まった。かれの素性は分からないが、知城や胥吏などを訴え、またかれらが逆に李適を告発しているところをみれば、かなりの有力者であり、この地域の特殊性を考えると軍糧納入か支払いにかかわる商人・鋪戸の可能性が高い。蕃官・蕃兵を含めた軍制の安定的維持が、金湯城を含め縁辺と位置づけられた国境ベルト地帯の最重要課題であり、そのためには軍糧問題の解決が肝要であった。この裁判関係文書は、従来の文献史料ではうかがい知れなかった、その具体的システムを知るための手掛かりを提供する。

  • 宋代の経済政策及び関連する諸政策の総合的研究

    科学研究費助成事業((財)東洋文庫)  科学研究費助成事業(基盤研究(B))

    研究期間:

    2002年
    -
    2004年
     

    斯波 義信, 渡辺 紘良, 青木 敦, 王 瑞来, 相田 洋, 近藤 一成

     概要を見る

    本プロジェクトは作業内容を勘案して、(1)宋史食貨志研究班、(2)宋会要輯稿研究班、(3)朝野類要研究班の3判に分けて事業を推進させた。
    (1)班は、塩・茶篇の『宋史食貨志訳注(5)』を刊行し(平成16年3月)、最終巻『宋史食貨志訳注(6)』については、平成17年度内刊行を目指し、その酒・坑冶・礬・香・商税・市易・均輸・互市舶法の諸篇の正確な訓読と詳細な注釈を施す作業にあたり、ほぼ各篇の原稿を作成することができた。われわれの『宋史食貨志訳注』(1)〜(6)に匹敵する徹底・詳細な注釈書は他にないと自負している。また平成14年12月に『宋史食貨志訳注(1)〜(4)語彙索引』を刊行した。
    (2)班は、『宋会要輯稿食貨索引(地名篇)』と『宋会要輯稿食貨索引(一般語彙篇)』の刊行を目指した。前者は3万余りの語彙について逐一原典に当たり、アイウエオ順に並べたものであり、今回の報告書に収録した。後者の語彙数は10万に近いが、その編集作業をほぼ完了させることができた。平成17年度内刊行を目指している。
    (3)班の研究対象『朝野類要』5巻は、官僚制度研究に不可欠の文献であるにかかわらず、短編であるためか単独で研究対象とされることがなかった。今回われわれは上海図書館及び南京図書館所蔵明刊本を入手し、その書誌学的研究を行い、逐条訓読し詳細な注釈を施すこととした。典拠に乏しい条文が多く作業は難渋したが、半ば以上作成することができたので、今回『朝野類要訳注稿』として書誌学的研究を付して報告書に収録した。また訳注作業の進捗を目指し『叢書集成本朝野類要語彙索引稿』を作成した。
    また研究代表者は平成15年3月米国アジア学会の年次大会に出席し本プロジェクトの研究状況を発表し、将来の国際協力についても協議を行った。

  • 欧米及び中国に於ける中国史研究の歴史的特質

    科学研究費助成事業(早稲田大学)  科学研究費助成事業(一般研究(C))

    研究期間:

    1994年
    -
    1995年
     

    近藤 一成

     概要を見る

    百年以上にわたる歴史をもつ近代日本の中国史研究は、現在、大きな転換期に立っている。その背景には、国民国家形成と歩調をあわせて成立してきた近代歴史学全般が、19世紀的知的枠組みの変化のなかで変容を迫られている事態がある。ヨーロッパで生まれた近代歴史学を父とし、中国の伝統経学・考証学を母として展開してきた日本の中国史学は、経済・考証学的研究方法の限界もあって、当然のことながら現状からの脱皮を求められ、多くの研究者が新たな道を模索している。本研究課題は、この事態に三つの計画で対応しようとしたものである。第1は、日本・欧米・中国という、それぞれが異なる学問伝統と研究対象への距離をもつ中国史学の三極が、その相違を自覚しながら討論できる国際学会を実現すること。この計画は、現在多くの研究者の協力を得て進行中である。第2は、近年、とみに活発な欧米の研究状況を、恒常的に独自の仕方で日本の学界に取り入れる環境を整備すること。これは報告書に記したように中断している。第3が、報告者の専攻する分野で注目すべき業績を挙げている英語圏の中国史研究の特質を、その原風景まで溯って検討すること。これについては、アメリカの史料情報の数量的把握を基礎とする研究方法のルーツを探ると、19世紀半ばのイギリス、アメリカの「中国総論」というべき二書にたどり着く。欧米にあって歴史学とはヨーロッパ史であり、中国は旅行記の対象であり、その後、学問的に検討される場合は時間軸が比較的軽視される地域研究として扱かわれたきた。勿論、現行の中国史研究が時間軸を軽視することなどありえないが、文献史料に対する姿勢はやはり日本と異なる場面がある。そこで報告書では、それへの対置を意識した論考を執筆してみたが、率直に言って未だ不十分な段階と認めざるを得ない。全ては、今後に期したいと考える。

  • 「中国精神史」序説についての共同研究

    科学研究費助成事業(早稲田大学)  科学研究費助成事業(国際学術研究)

    研究期間:

    1992年
    -
    1993年
     

    近藤 一成, マクマーレン D., マクデモット J.P., 土田 健次郎, D.マクマーレン, J.P.マクデモット

     概要を見る

    洋の東西、歴史の古今を問わず、政治と思想は密接な関係にある。とりわけ聖権と俗権が一人の天子に集中する前近代中国にあっては、その傾向が著しい。その中国史において、宋代は特に政治の世界と思想の世界が、大きく重なり合う時代である。新しい社会構造と政治体制の出現は、新たな秩序付けの理論を必要とし、個人の内面から宇宙の構造までを通貫する論理によって体系的に把握せんとする道学は、この要請に応える思想であった。従って、道学派の思想的営為は多分に政治的行為ともなり、その学派の形成と拡大は、思想内容と現実社会との関連両面からの考究、すなわち思想史と政治史共通の検討対象であり、本共同研究の格好の課題たり得る。今回は、この道学派の問題を日本側が扱い、英国側はさらに広く、その前の唐代について「公と私」(マクマーレン)、後の明代について「友情」(マクデモット)の観点から中国における思想と社会の相互関連を考察した。
    土田は、思想史の立場から道学派の形成を考察した。先ず、従来の中国思想史研究の多くが、思想史の設定された枠組みの中で完結する叙述に止まることを批判し、また近年、歴史研究の成果を積極的に導入する必要性が指摘されながらも、それが十分思想史研究の内的構造に組み込まれていない現状を反省して、方法論上の問題点を挙げる。それは、個々の思想自体と、それが思想史として記憶された姿が往々にして乖離するからであり、しかも思想家たちは多くの場合、自己の思想の思想史的必然性を闡明にすることでその思想の説得力を増そうとする。従来の思想史がそれぞれ「経学史」「儒教史」などの枠内で整然たる叙述が可能であった理由は、思想そのものを歴史的に再把握するよりも、思想史として記憶されたものを連結していったからであるとする。例えば経学史であれば、清朝でなされた漢学と宋学という分類をもとに、その漢学を清朝考証学と漢唐訓詁学に分け、宋学を宋学と明学に分ける。更に宋学を今度は正学・実学・道学に分けるというように代入を繰り返していくのである。そこで、現在必要とされる方法は、先ず個々の思想が出現する状況の具体的把握を通してその実態を検証すること、次にそれらの思想が思想史として記憶されていく過程を追跡し、この両者をはっきり区別して検討することである。そしてこの両者は、例えば北宋道学の実態と、朱熹が儒教及び道学内部における自己の思想の正統性の表明のために北宋道学を思想史の中に定式化した姿というように、ともに思想史研究に必須の検討対象であるとして、従来の方法論的不備を指摘した。その上で、道学派形成の具体的問題として、道学派が士大夫社会の中で自己を主張した際、最初に衝突することになる王安石の思想・学問の構造を初めて体系的に解明し、程頤に代表される道学の構造と対比して、両者の特色と衝突の必然性を考察した。更に程頤と対立した蘇軾の学問とその衝突の特色、朱熹の蘇軾批判は程頤と軾の対立の実際というより朱熹の構想する道学形成史からのものであることを確認し、また思想・哲学論議の場が北宋の上奏文から南宋の書簡や語類、すなわち公から私に移行する傾向のあることに注目した。
    近藤は、朱熹没後の道学派の拡大について考察した。慶元偽学の禁からも分かるように、道学は朱熹の時代、正統思想の地位を獲得していたわけではない。しかし朱熹没時、朱門が最大の学派勢力であったことも事実である。道学派内での主導権を握った朱門が、如何にして社会と統治階級のなかに地歩を固め官学の地位を獲得していったのか。この過程を中央政界、地方政治、郷村社会のそれぞれの段階で検討するとき、特に後二者の場合、朱熹の女婿で朱門高弟の黄〓の存在が注目される。50才で、それまでの修養・講学の生活から恩蔭出身の非エリート地方官として官界に入った黄〓は、典型的な道学派官僚として任地での統治・教化一体の活動に邁進する。江西を中心に長江中下流域全体に及ぶその足跡を追うと、当時の社会が道学的思惟と実践を欲求していた現実を知ることができ、また官界にも黄〓を支える土壌が出来上がっていたことを確認できる。
    以上の考察を、英国側報告の和訳を待ち、併せて刊行する予定である。

  • 東アジア史上の国際関係と文化交流

    科学研究費助成事業(早稲田大学)  科学研究費助成事業(総合研究(A))

    研究期間:

    1986年
    -
    1987年
     

    福井 重雅, 吉田 順一, 斎藤 実, 藤家 禮之助, 長澤 和俊, 古賀 登, 近藤 一成

     概要を見る

    本研究は本年度(昭和62年度)をもって2年間の継続研究を終了する. 本年度の研究実績については, 別紙の昭和62年度の研究報告書の「当該年度のまとめ」欄に記述した内容と重複する点も多いが, ここにその概要を略記する. 本研究は過去2年における各研究役割分担者の個別的研究を基礎に, 研究課題の総合的研究を推進した結果, 以下の研究成果を達成することができた. (1)朝鮮と中国の国際関係・文化交流(以下, 国際関係と文化交流を省略)の分野では, 斎藤は前漢武帝と朝鮮の郡県化, 福井は『魏志』倭人伝と『魏略』, 李は『梁職貢図』と高句麗使を対象に, それぞれ漢魏六朝時代の朝鮮と中国を中心とする東アジア史上の諸問題を検討した. (2)中央アジアと中国の分野では, まず長澤がその全体的展望を示したのち, 山本は東西ローマの地理書を通じて古代の欧亜関係の一端を摸索し, 松崎は隋唐時代のタリム盆地に興亡した諸国の歴史を究明し, 内藤は唐代における統治機関の処置をめぐる当時の国際関係を分析した. (3)北アジアと中国の分野では, 石見は唐代の蕃望, 近藤は入宋僧の入国手続, 吉田は南宋の使節の旅行記などを焦点に, 各自文献学的研究の成果をあげた. (4)東南アジアと中国の分野では, 工藤は戦国秦墓出土の竹簡, 岡安は魏晋時代の地方志, 渡部は明代の農書を主体に, 独自の論文を完成した. (5)日本と中国の分野では, 古賀は記紀と中国史料に依拠して, 両国の伝説や習俗の成立を比較吟味し, 堀は律令を主体に日中の相違を分析し, 藤家と美川はともに遺隋使, 遺唐使の国書問題に注目した古代の日唐関係, 細野は21か条をめぐる近代の日清関係を中心に, いずれも日中交渉の断面を取上げた. 以上, 各自の研究は様々の興味ある問題を喚起しており, 本研究を終了するにあたって, 近日中にこれらの論考を一書にまとめる予定である.

  • 宋代士大夫の精神世界と地域社会

    科学研究費助成事業(早稲田大学)  科学研究費助成事業(一般研究(C))

  • 国際学会「中国史学の現状と展望」に関する企画調査

    科学研究費助成事業(早稲田大学)  科学研究費助成事業(基盤研究(C))

  • 東アジアの海域交流と日本伝統文化の形成

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特定課題制度(学内資金)

  • 新出土武義徐謂禮文書の基礎的研究

    2013年  

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     2005年6月、浙江省金華市武義県郊外の一基の南宋墓が盗掘され、事件を調査した公安は、盗掘品がほとんど売り捌れたなかで、一連の官文書のみが残っていることを確認した。2011年3月に写真を入手した武義県博物館は、早速その真偽の認定や盗掘人の供述に基づく現地の発掘調査を始め、もと浙江大学、現人民大学教授包偉民氏を中心とする研究会を立ち上げた。早くも2012年11月には全文の写真と移録文を掲載した報告書の刊行報告会が現地で開催された。その報告書『武義南宋徐謂禮文書』によると、官文書とは、南宋後半の官僚であった徐謂禮の「錄白告身」「録白敕黄」「録白印紙」の三種類であった。2013年3月にはこの文書を課題とする最初の学会が北京の人民大学で開催され、海外からは唯一、私のゼミ出身で宋代官文書を研究対象の一つとする小林隆道PD(東洋文庫 当時)が出席、報告した。そのときの報告論文17本と報告書に掲載された包教授の概括論文を併せると、文書の解題的な基礎論考は出揃ったと思われる。そこで、この文書の「南宋官僚制度とその運用についての従来の研究に及ぼす影響」が次の段階の基礎的研究として浮かび上がってくる。本特定課題は、では、そのために今後どのような課題を設定し、それをどのような角度から分析すれば本文書の歴史的意義が明らかになるのかについて基礎的考察をおこなった。 出土した三種の文書は、当時の官僚が常時携帯した公文書で、本人の官僚としての正式な身分を証明する皇帝・政府発行の辞令(告身)、実際に従事する職務〈差遣〉への任命状(敕黄)と、官僚としての経歴を記した履歴書(印紙)である。錄白とは、それらの写しを意味するが、役所に保存される原本とは別に公印も捺され本人に渡される副本で原本と同じ正式な公文書扱いである。これらのことは文献史料から知られていたことであるが、実物や形式の記載内容が残る告身と敕黄に対し、史料に用語として頻出する印紙(印紙暦子)は、それがどのような内容をもったものかは分からなかった。今回の出土文書は、徐謂禮が生前保持していた録白をさらにコピーして墓に入れたもので、写しとはいえ何が書かれているかを示す具体的な史料が初めて出てきたのである。本研究は、その印紙について考察した。 印紙全80項目を一読すると、以下のことが分かる。印紙は官僚が最初の差遣を受けたときに吏部が発給する。その印紙原本は役所が保存し、各自はその写しである錄白印紙(白紙に移録の意か)を副本として携帯する。中央を含めた赴任先で着任や離任、職務遂行、勤務評価のための書類提出など官僚としての仕事はすべてもれなく書き込み、それを所属官庁に定期的に提出し、原本印紙に書き込む、と同時に錄白にも記載内容が事実であることの証明を受ける。これを批書といい、外任のときは所属の州が批書した。印紙は印紙暦子といい、年月ごとに記事が記され、記載事項が増加すれば新しい紙を粘添して、官僚生活が終わるまで書き続けた。 実例に則して検討すると、例えば朱熹について次のような事情が明らかとなる。朱熹は、殿試の合格順位が低かったために3年間の自宅待機の後、紹興21年に左迪功郎の官位を受け福建路泉州同安県主簿に任命された。しかし泉州同安県に主簿として実際に赴任したのは23年の秋であった。やがてそこでの任期が終わった紹興26年の秋、『朱子年譜』は『語類』を引き、所属の泉州に赴き「候批書(批書をまつ)」と記す。この意味がよく分からなかったが、徐謂禮文書を参照すれば、主簿としての履歴を書いた錄白印紙を泉州官庁に提出し、その記載が誤りではないことを州から証明してもらい(批書)、同時に記録を原本に転載する作業を待っていたことだと理解できる。『語類』は、その待機期間に「客邸」で館人から『孟子』一冊を借りて読み、熟読することで『孟子』理解の手掛かりを初めて得たと記す。これは朱熹自身の言葉であるから、やがて『孟子集註』に結実する朱子学の『孟子』解釈の第一歩が紹興27年秋7月27歳の時に泉州であったことが明らかとなる。これ以外にも、『朱子年譜』の官僚としての朱熹に関係する記載事項を徐謂禮文書と対照することで、かれの取った行動や当時の具体的状況が明らかになる点が多々あると予想される。一つだけ追加すると、『朱子文集』巻22「申建寧府状一」「同二」「謝改官宮觀奏状」は、45歳になった淳熙元年、朱熹自ら望んだからであるが、27年に及ぶ長い官僚見習い的な地位である選人身分から、辞退しきれずに京官の宣教郎に改官されたときの建寧府と中央政府に宛てた申状と謝表である。その中に「望闕遥謝祗受訖」という文言があり、この具体的情況が今一つ分かりにくかった。ところが徐謂禮の録白印紙三「寶慶元年(1225)二月 日、進寶赦恩轉承事郎」は、武義県に居住する徐が、このとき赦恩によって承事郎の官位(録白告身二に収録)を得、その通知を受けて婺州(当時の金華)に赴き提出して批書を受けた印紙の録白であるが、その5行目から6行目に「望闕遥謝祗受訖」と書かれており、地方で告身を授与される官僚が、受領するときに遥か都の御所を拝して謝する動作を示すことと理解できる。外任の地方官が、どこで新しい告身を受領し、その際の一連の手続きがどのように行われたのかが、「徐謂禮文書」によって明らかになる。些細なことであるが、宋代官僚政治制度の具体的なイメージを喚起する上で貴重な史料となるのである。 この他、伝記資料として重要な墓誌とともに、納められた墓から出土する、同じく伝記資料である壙記が墓誌とどのように区別されるかが曖昧であった。内容上、官歴に特化した壙記が印紙に基づき制作されたことなどを明らかにした。

  • 中国科挙制度からみた呉興士人社会の形成と展開

    2005年  

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     中国「近世」史の前半に位置する宋代と元代は、政権を担当した王朝政府の在り方からみると対照的といえる。唐末五代の政治的分裂期を終息させ、再び天下を統一した宋朝は、しかし歴代の他の統一王朝に比べその版図は最小ともいえる範囲にとどまった。反対に元朝はモンゴル帝国の一部として広大なユーラシア大陸とのつながりのなかでモンゴルを中核とする多民族複合国家(杉山正明氏の表現)として展開した。これを中華文明という枠で考えると、宋は「近世」中国社会の担い手として新たに士人と呼ばれる読書人層が生まれた時代であり、かれらは科挙の合格者、受験者とその予備軍からなり士人層を構成した。これは中華文明の粋を具現する士人社会が、国家制度である科挙とのかかわりの中から出現したことを意味する。元代は、その士人層が拠る科挙が廃止、ないし実質的に廃され、その結果、士人層は、国家と繋がる路が著しく制限される中で活動せねばならなくなり、その統治階層としての立場は変質を余儀なくされた。 呉興と称される湖州は、北宋南宋を通じての科挙合格者の動向が南宋期になると時代を追うごとに逓減するという傾向を示す。実は、経済の先進地帯・文化の淵藪といわれる中国東南部にあって浙西の諸州は軒並み同様の傾向を示し、逆に増加傾向を示す浙東諸州と好対照なのである。かといって経済・文化の面で前者が後者に遅れをとるようになったわけではない。何故こうした現象が起るのか検討が必要になる。 南宋から元にかけて活動した呉興の趙孟頫は、宋の宗室でありながら元朝の五代の皇帝に仕え、元を代表とする文人官僚として一生を送った。一方、南宋の都杭州臨安府の賑わいを活写した武林旧事をはじめ膨大な著作を著わした周密は、代々の官僚の家に生まれ、恩蔭によって官を得たが、南宋滅亡後は元に仕えず遺民として過ごした。その生き方が対蹠的な二人に、趙孟頫がその代表作である鵲華秋色図を周密の為に画き上げ贈ったように、親密な交流があったことは、士大夫とよばれるかれらの生き方が単純ではないことを示唆する。しかし乾隆帝愛蔵のこの図巻は甚だ疑問の多い作品である。この真偽の定かでない鵲華秋色図を手がかりに両人の関係、ひいては呉興士人社会の実像に迫ってみた。

  • 中国文人伝説の誕生-西園雅集考-

    1999年  

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     北宋の元祐年間、都の開封において蘇軾以下16名の当代を代表する文人が集った雅会は、西園雅集として名高く、李公麟画とされる雅集図と米■筆とされる記は、とくに明清時代に繰り返し臨模され、中国文人文化の精華として人々に認識されていた。しかし、西園雅集は南宋以降の想像上の産物であり歴史事実ではないとの見解を明代の一部文人が唱え、近年の研究によって虚構説はほぼ定着するにいたった。今回の考察においても虚構説は妥当との判断に落ち着いたが、その論拠の幾つかについては疑問があり、むしろ当時の歴史状況の理解を大いに誤らせることになりかねないことを指摘した。その一つは、元祐二、三年に米■は南方旅行中で開封の雅会参加は不可能という点である。これは考証の不徹底による誤解で、同じ史料はむしろ米■が開封にいたことを証明する。第二は、北宋の徽宗朝は新法党による旧法党の弾圧が激しかった時期であり、雅集図が描かれたり流布する状況にはなかったとの見方である。確かに時代の流れとしてはその通りであるが、史料批判を重ねると崇寧元年から宣和七年までの24年間中、蘇軾の書や文章が厳しく禁止された時期は、徽宗朝の初めと終わりの8年間に過ぎず、その間の16年間は、建前上の元祐学術の禁にもかかわらず、東坡愛好熱が朝廷にも及んでいた事実が浮かび上がってくる。これは虚構説が、二百年後に突然現れたとして考察の対象とはしなかった元の黄■撰「述古堂記」の再考を促す。というのは、この記は、通説とは異なる徽宗期朝廷の東坡熱を前提にして始めて解釈可能な記述を含み、雅会参会者間の微妙な人間関係を背景に成立しているからである。こうして記を利用可能な史料とすると、雅集伝説の成立は、一気に軾の没後間もない徽宗朝前半にまで遡る可能性が出てくる。文人伝説は、蘇軾の死とともに誕生したといえよう。