Updated on 2023/12/09

写真a

 
KONDO, Kazunari
 
Affiliation
Faculty of Letters, Arts and Sciences
Job title
Professor Emeritus
Degree
(BLANK) ( 早稲田大学 )

Education Background

  •  
    -
    1977

    Waseda University   Graduate School, Division of Letters   History  

  •  
    -
    1969

    Waseda University   Faculty of Literature   History  

Professional Memberships

  •  
     
     

    史学会

  •  
     
     

    早稲田大学東洋史懇話会

  •  
     
     

    東洋史研究会

  •  
     
     

    東方学会

  •  
     
     

    the japanese historical council

Research Areas

  • History of Asia and Africa

Research Interests

  • Chinese History

 

Papers

  • 南宋地域社会の科挙と儒学—明州慶元府の場合—

    近藤一成

    近世儒学研究の方法と課題     187 - 206  2006.02

  • 宋代科挙社会的形成—以明州慶元府為例

    近藤一成

    厦門大学学報   2005 ( 6 ) 15 - 24  2005.11

  • 宋代の修譜と国政—青木報告によせて—

    井上徹・遠藤隆俊編『宋—明宗族の研究』 汲古書院刊     299 - 312  2005.03

  • 南宋四川類省試からみた地域の問題

    史観   151   15 - 29  2004.09

  • 『俄蔵黒水城文献』宋西北辺境軍政文書 裁判案件訳注稿(一)

    早稲田大学宋代史ゼミナール

    史滴   25  2003.12

  • 東坡「黄州寒食詩巻」と宋代士大夫

    近藤一成

    早稲田大学大学院文学研究科紀要   48  2003

  • John W. Chaffee; 〈I〉Branches of Heaven: A History of the Imperial Clan of Sung China〈/I〉

    近藤一成

    東洋史研究   61-1  2002.06

  • 文人官僚蘇軾の対高麗政策

    近藤一成

    史滴   23  2001

  • 南宋の端宗と帝

    近藤一成

    月刊しにか   10-8  1999.07

  • The Political Features of Scholar-officials in Sung China

    Iwanami's The World History   9  1999

  • 宋代士大夫政治の特色

    岩波講座世界歴史   9  1999.01

  • 宋代士大夫政治の特色

    近藤一成

    岩波講座世界歴史   9  1999

  • 蘇東坡と王安石

    月刊しにか   9;11  1998.11

  • On the Elegant Gathering in Western Garden, 1,2

    SHIKAN   /139・141,48-60,16-29  1998

  • 西園雅集考-宋代文人伝説の誕生-正,続

    近藤一成

    史観   /139・141,48-60,16-29  1998

  • 王安石撰墓誌銘を読む—地域・人脈・党争

    中国史学/中国史学会   7;pp.171-191  1997.12

  • 東坡の犯罪—烏臺詩案の基礎的考察

    東方学会創立50周年記念 東方学論集/東方学会   pp.627-643  1997.05

  • On the Inscription Stones by Wang An-shi

    Studies in Chinese History   7/,171-191  1997

  • 王安石撰墓誌を読む

    近藤一成

    中国史学   7/,171-191  1997

  • 宋元時代史の基本問題

    汲古書院    1996.07

  • 宋代の士大夫と社会

    中国史学の基本問題3宋元時代史の基本問題    1996.07

  • 宋史選挙志学校試

    宋史選挙志訳註(二)/東洋文庫    1996.03

  • ピーター・ボル著 唐宋変遷の再考

    史滴/早稲田大学東洋史懇話会   17  1995.12

  • 信頼できる司馬光の伝記

    東方/東方書店   170  1995.05

  • A Study of Cai Jing's Educational Policy and Civil Service Examinations

    The Journal of Oriental Researches   53/1,24-44  1994

  • 蔡京の科挙学校政策

    近藤一成

    東洋史研究   53/1,24-44  1994

  • On the epitaph of S(]J1166[) X(]J1166[)n by Zh(]J1107[)ng F(]J1107[)ng-p(]J1131[)ng

    Bulletin of the Graduate Division of Literature of Waseda Univ.   39,137-150  1993

  • 張方平「文安先生墓表」と弁姦論

    近藤一成

    文学研究科紀要   39,137-150  1993

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Books and Other Publications

  • 宋代中国科挙社会の研究

    近藤一成

    汲古書院  2009.05 ISBN: 9784762925825

  • アジア地域文化学の構築—総論

    近藤一成

    雄山閣『アジア地域文化学の構築—21世紀COEプログラム研究集成』早稲田大学アジア地域文化エンハンシング研究センター  2006.03

  • 黒水城出土文書宋代軍政文書の研究

    近藤一成

    平成15年・16年度科学研究費補助金基盤C(2)研究成果報告書  2005.04

  • 南宋・金という時代

    近藤一成

    『世界美術大全集東洋編六南宋・金』小学館  2000

  • 宋史選挙志訳註(三)補蔭

    近藤一成

    宋史選挙志訳註(三) (財)東洋文庫  2000

  • 東坡の犯罪-『鳥臺詩案』の基礎的考察-

    近藤一成

    東方学会創立五十周年記念東方学論集  1997

  • 宋代の士大夫と社会-黄(]G3261[)における礼の世界と法の世界-

    近藤一成

    宋元時代史の基本問題:中国史学の基本問題3  1996

  • 宋史選挙志訳註(二)学校試

    近藤一成

    宋史選挙志訳註(二)( 財)東洋文庫  1996

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Research Projects

  • Formation and Development of the Elite Society in Ningbo from the Perspective of Civil Service Examination System in China

  • The Intemational Relations and Cultural Interchanges of East Asian History

  • 宋代士大夫の精神世界と地域社会

    科学研究費助成事業(早稲田大学)  科学研究費助成事業(一般研究(C))

  • NEW APPROACHES TO THE STUDY OF CHINESE INTELLECTUAL HISTORY

  • The historical feature of Chinese studies in Europe, America and China

  • 国際学会「中国史学の現状と展望」に関する企画調査

    科学研究費助成事業(早稲田大学)  科学研究費助成事業(基盤研究(C))

  • A Synthetic Research on The Policies of Economy and of Matters Relevant to It During the Sung Dynasty (960-1279)

  • Study on the Heishuicheng(黒水城) Documents on Military Affairs at the Northwest Frontier

  • A Synthetic Research on Chaoye-Leiyao

  • marintime cross-cultural exchange in east asia and the formation of japanese traditional culture :interdisciplinary approach focusing on ningbo

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Internal Special Research Projects

  • 新出土武義徐謂禮文書の基礎的研究

    2013  

     View Summary

     2005年6月、浙江省金華市武義県郊外の一基の南宋墓が盗掘され、事件を調査した公安は、盗掘品がほとんど売り捌れたなかで、一連の官文書のみが残っていることを確認した。2011年3月に写真を入手した武義県博物館は、早速その真偽の認定や盗掘人の供述に基づく現地の発掘調査を始め、もと浙江大学、現人民大学教授包偉民氏を中心とする研究会を立ち上げた。早くも2012年11月には全文の写真と移録文を掲載した報告書の刊行報告会が現地で開催された。その報告書『武義南宋徐謂禮文書』によると、官文書とは、南宋後半の官僚であった徐謂禮の「錄白告身」「録白敕黄」「録白印紙」の三種類であった。2013年3月にはこの文書を課題とする最初の学会が北京の人民大学で開催され、海外からは唯一、私のゼミ出身で宋代官文書を研究対象の一つとする小林隆道PD(東洋文庫 当時)が出席、報告した。そのときの報告論文17本と報告書に掲載された包教授の概括論文を併せると、文書の解題的な基礎論考は出揃ったと思われる。そこで、この文書の「南宋官僚制度とその運用についての従来の研究に及ぼす影響」が次の段階の基礎的研究として浮かび上がってくる。本特定課題は、では、そのために今後どのような課題を設定し、それをどのような角度から分析すれば本文書の歴史的意義が明らかになるのかについて基礎的考察をおこなった。 出土した三種の文書は、当時の官僚が常時携帯した公文書で、本人の官僚としての正式な身分を証明する皇帝・政府発行の辞令(告身)、実際に従事する職務〈差遣〉への任命状(敕黄)と、官僚としての経歴を記した履歴書(印紙)である。錄白とは、それらの写しを意味するが、役所に保存される原本とは別に公印も捺され本人に渡される副本で原本と同じ正式な公文書扱いである。これらのことは文献史料から知られていたことであるが、実物や形式の記載内容が残る告身と敕黄に対し、史料に用語として頻出する印紙(印紙暦子)は、それがどのような内容をもったものかは分からなかった。今回の出土文書は、徐謂禮が生前保持していた録白をさらにコピーして墓に入れたもので、写しとはいえ何が書かれているかを示す具体的な史料が初めて出てきたのである。本研究は、その印紙について考察した。 印紙全80項目を一読すると、以下のことが分かる。印紙は官僚が最初の差遣を受けたときに吏部が発給する。その印紙原本は役所が保存し、各自はその写しである錄白印紙(白紙に移録の意か)を副本として携帯する。中央を含めた赴任先で着任や離任、職務遂行、勤務評価のための書類提出など官僚としての仕事はすべてもれなく書き込み、それを所属官庁に定期的に提出し、原本印紙に書き込む、と同時に錄白にも記載内容が事実であることの証明を受ける。これを批書といい、外任のときは所属の州が批書した。印紙は印紙暦子といい、年月ごとに記事が記され、記載事項が増加すれば新しい紙を粘添して、官僚生活が終わるまで書き続けた。 実例に則して検討すると、例えば朱熹について次のような事情が明らかとなる。朱熹は、殿試の合格順位が低かったために3年間の自宅待機の後、紹興21年に左迪功郎の官位を受け福建路泉州同安県主簿に任命された。しかし泉州同安県に主簿として実際に赴任したのは23年の秋であった。やがてそこでの任期が終わった紹興26年の秋、『朱子年譜』は『語類』を引き、所属の泉州に赴き「候批書(批書をまつ)」と記す。この意味がよく分からなかったが、徐謂禮文書を参照すれば、主簿としての履歴を書いた錄白印紙を泉州官庁に提出し、その記載が誤りではないことを州から証明してもらい(批書)、同時に記録を原本に転載する作業を待っていたことだと理解できる。『語類』は、その待機期間に「客邸」で館人から『孟子』一冊を借りて読み、熟読することで『孟子』理解の手掛かりを初めて得たと記す。これは朱熹自身の言葉であるから、やがて『孟子集註』に結実する朱子学の『孟子』解釈の第一歩が紹興27年秋7月27歳の時に泉州であったことが明らかとなる。これ以外にも、『朱子年譜』の官僚としての朱熹に関係する記載事項を徐謂禮文書と対照することで、かれの取った行動や当時の具体的状況が明らかになる点が多々あると予想される。一つだけ追加すると、『朱子文集』巻22「申建寧府状一」「同二」「謝改官宮觀奏状」は、45歳になった淳熙元年、朱熹自ら望んだからであるが、27年に及ぶ長い官僚見習い的な地位である選人身分から、辞退しきれずに京官の宣教郎に改官されたときの建寧府と中央政府に宛てた申状と謝表である。その中に「望闕遥謝祗受訖」という文言があり、この具体的情況が今一つ分かりにくかった。ところが徐謂禮の録白印紙三「寶慶元年(1225)二月 日、進寶赦恩轉承事郎」は、武義県に居住する徐が、このとき赦恩によって承事郎の官位(録白告身二に収録)を得、その通知を受けて婺州(当時の金華)に赴き提出して批書を受けた印紙の録白であるが、その5行目から6行目に「望闕遥謝祗受訖」と書かれており、地方で告身を授与される官僚が、受領するときに遥か都の御所を拝して謝する動作を示すことと理解できる。外任の地方官が、どこで新しい告身を受領し、その際の一連の手続きがどのように行われたのかが、「徐謂禮文書」によって明らかになる。些細なことであるが、宋代官僚政治制度の具体的なイメージを喚起する上で貴重な史料となるのである。 この他、伝記資料として重要な墓誌とともに、納められた墓から出土する、同じく伝記資料である壙記が墓誌とどのように区別されるかが曖昧であった。内容上、官歴に特化した壙記が印紙に基づき制作されたことなどを明らかにした。

  • 中国科挙制度からみた呉興士人社会の形成と展開

    2005  

     View Summary

     中国「近世」史の前半に位置する宋代と元代は、政権を担当した王朝政府の在り方からみると対照的といえる。唐末五代の政治的分裂期を終息させ、再び天下を統一した宋朝は、しかし歴代の他の統一王朝に比べその版図は最小ともいえる範囲にとどまった。反対に元朝はモンゴル帝国の一部として広大なユーラシア大陸とのつながりのなかでモンゴルを中核とする多民族複合国家(杉山正明氏の表現)として展開した。これを中華文明という枠で考えると、宋は「近世」中国社会の担い手として新たに士人と呼ばれる読書人層が生まれた時代であり、かれらは科挙の合格者、受験者とその予備軍からなり士人層を構成した。これは中華文明の粋を具現する士人社会が、国家制度である科挙とのかかわりの中から出現したことを意味する。元代は、その士人層が拠る科挙が廃止、ないし実質的に廃され、その結果、士人層は、国家と繋がる路が著しく制限される中で活動せねばならなくなり、その統治階層としての立場は変質を余儀なくされた。 呉興と称される湖州は、北宋南宋を通じての科挙合格者の動向が南宋期になると時代を追うごとに逓減するという傾向を示す。実は、経済の先進地帯・文化の淵藪といわれる中国東南部にあって浙西の諸州は軒並み同様の傾向を示し、逆に増加傾向を示す浙東諸州と好対照なのである。かといって経済・文化の面で前者が後者に遅れをとるようになったわけではない。何故こうした現象が起るのか検討が必要になる。 南宋から元にかけて活動した呉興の趙孟頫は、宋の宗室でありながら元朝の五代の皇帝に仕え、元を代表とする文人官僚として一生を送った。一方、南宋の都杭州臨安府の賑わいを活写した武林旧事をはじめ膨大な著作を著わした周密は、代々の官僚の家に生まれ、恩蔭によって官を得たが、南宋滅亡後は元に仕えず遺民として過ごした。その生き方が対蹠的な二人に、趙孟頫がその代表作である鵲華秋色図を周密の為に画き上げ贈ったように、親密な交流があったことは、士大夫とよばれるかれらの生き方が単純ではないことを示唆する。しかし乾隆帝愛蔵のこの図巻は甚だ疑問の多い作品である。この真偽の定かでない鵲華秋色図を手がかりに両人の関係、ひいては呉興士人社会の実像に迫ってみた。

  • 中国文人伝説の誕生-西園雅集考-

    1999  

     View Summary

     北宋の元祐年間、都の開封において蘇軾以下16名の当代を代表する文人が集った雅会は、西園雅集として名高く、李公麟画とされる雅集図と米■筆とされる記は、とくに明清時代に繰り返し臨模され、中国文人文化の精華として人々に認識されていた。しかし、西園雅集は南宋以降の想像上の産物であり歴史事実ではないとの見解を明代の一部文人が唱え、近年の研究によって虚構説はほぼ定着するにいたった。今回の考察においても虚構説は妥当との判断に落ち着いたが、その論拠の幾つかについては疑問があり、むしろ当時の歴史状況の理解を大いに誤らせることになりかねないことを指摘した。その一つは、元祐二、三年に米■は南方旅行中で開封の雅会参加は不可能という点である。これは考証の不徹底による誤解で、同じ史料はむしろ米■が開封にいたことを証明する。第二は、北宋の徽宗朝は新法党による旧法党の弾圧が激しかった時期であり、雅集図が描かれたり流布する状況にはなかったとの見方である。確かに時代の流れとしてはその通りであるが、史料批判を重ねると崇寧元年から宣和七年までの24年間中、蘇軾の書や文章が厳しく禁止された時期は、徽宗朝の初めと終わりの8年間に過ぎず、その間の16年間は、建前上の元祐学術の禁にもかかわらず、東坡愛好熱が朝廷にも及んでいた事実が浮かび上がってくる。これは虚構説が、二百年後に突然現れたとして考察の対象とはしなかった元の黄■撰「述古堂記」の再考を促す。というのは、この記は、通説とは異なる徽宗期朝廷の東坡熱を前提にして始めて解釈可能な記述を含み、雅会参会者間の微妙な人間関係を背景に成立しているからである。こうして記を利用可能な史料とすると、雅集伝説の成立は、一気に軾の没後間もない徽宗朝前半にまで遡る可能性が出てくる。文人伝説は、蘇軾の死とともに誕生したといえよう。