2024/04/26 更新

写真a

キクチ テツオ
菊池 徹夫
所属
文学学術院
職名
名誉教授
学位
文学博士

所属学協会

  •  
     
     

    早大考古学会

  •  
     
     

    早大史学会

  •  
     
     

    日本民族学会

  •  
     
     

    日本考古学協会

研究キーワード

  • 考古学(含先史学)

  • Archaeology(incl.Prehistory)

 

Works(作品等)

  • 北米中南部ミシシッピ文化およびカリフォルニアインディアン文化調査

    2005年
    -
     

  • 紋別市流「氷の民シンポジウム」参加、網走市モヨロ貝塚発掘調査参加

    2005年
    -
     

  • 福島県下埋蔵文化財視察調査(文化庁)

    2005年
    -
     

  • 蝦夷研究会(青森市)参加、十三湊福島城調査

    2005年
    -
     

共同研究・競争的資金等の研究課題

  • アイヌ民族史

  • 日本文化の形成

  • 北方考古学

  • 日本考古学

  • 比較考古学

Misc

  • 上田正昭監修 古代日本と渤海

    月刊考古学ジャーナル 536   35  2005年

  • 日本の遺跡

       2005年

  • 社会考古学の試み

      255  2005年

  • 考古学からみた社会の複雑化

    研究報告集   259  2004年

  • バリ島のトーテム・ポール

       2004年

  • 文字の考古学Ⅱ

    世界の考古学    2004年

  • カムチャツカ小紀行

    北方博物館交流 16   18~21  2004年

  • 洞窟のセミオロジーーー聖域としてのフゴッペ・手宮ーー

    国指定史跡フゴッペ洞窟保存調査事業報告書   71~78  2004年

  • 異文化へのまなざし

    史観 第150冊   142~144  2004年

  • 北米北西海岸の比較考古・民族学的研究ーー縄文文化社会の複雑化過程解明のためにーー

    史観 第150冊   73~94  2004年

  • フゴッペ・手宮の岩面刻画の性格について

    フゴッペ洞窟・岩面刻画の総合的研究   251~255  2003年

  • 1970年夏の記憶

    想い北に馳せてーー木村尚俊さん追悼記念文集ーー   123~124  2003年

  • 日本人の信仰と宗教ーー比較考古学の視点からーー

    2003年佐倉市国際文化大学講義録   88~94  2003年

  • 文字の考古学Ⅰ

    世界の考古学    2003年

  • 北日本から「隣り」を見るーー比較考古学の視点からーー

    史観 第148冊   153~155  2003年

  • 縄文文化研究の新しい地平がここから始まる

    東奥日報    2002年

  • 洞窟遺跡に見る続縄文以降の諸文化ーーアイヌ文化形成論の視点からーー

    第55回特別展 洞窟遺跡を残した続縄文の人びと   16~17  2002年

  • よみがえる北の中・近世ーー掘り出されたアイヌ文化ーー

    普及啓発講演会報告集 平成13年度   14~28  2002年

  • シンポジウム講評

    第9回環オホーツク海文化のつどい報告書   59~65  2002年

  • フゴッペ洞窟・岩面刻画の総合的研究

    フゴッペ・手宮の岩面刻画の意味するものーーシベリア沿海州スクパイとの比較からーー   102~103  2002年

  • 弥生の「ムラ」から古墳の「クニ」へ

      237ページ  2002年

  • 「チャシ学」のすすめ

    「知られざる中世の北海道」関連シンポジウム「チャシと館の時代」関連講演    2001年

  • よみがえる北の中・近世ーー見え始めたアイヌ文化の形成過程ーー

    よみがえる北の中・近世ーー掘り出されたアイヌ文化ーー   12~17  2001年

  • ツタンカーメン王墓の発見は日本にどう伝えられたか

    早稲田大学エジプト学会第50回研究会    2001年

  • アイヌ民族:歴史と現在ーー未来を共に生きるためにーー

       2001年

  • 外国人の見た日本

    2000年佐倉市国際文化大学講義録   129~138  2001年

  • アイヌ史(1)~(3)

    平成11年度普及啓発セミナー報告集/(財)アイヌ文化振興・研究推進機構    2000年

  • 東北アジアの中の北海道考古学

    北海道埋蔵文化財センター開館記念講演/北海道埋蔵文化財センター年報   1 pp.6-12  2000年

  • 北から見る日本史

    佐倉市国際文化大学講義録/(財)佐倉国際交流基金   pp.91-95  2000年

  • <日本人の起源>論の現在

    デジタル月刊百科/日立デジタル平凡社    2000年

  • 岩手県大船渡市長谷堂貝塚の研究(Ⅱ)

    早稲田大学大学院文学研究科紀要(第4分冊)   45 pp.81-100  2000年

  • アイヌ民族に関する指導資料

    (財)アイヌ文化振興・研究推進機構   pp.24-29  2000年

  • 「魚の丘」遺跡発見の頃

    エジプトを掘るーーそれをめぐる様々な学問分野ーー    2000年

  • モネロン島のどぶろく

    教員リレーエッセイ15 とっておきの話/早稲田ウィークリー   881  1999年

  • 「縄文人の暮らしと環境」展について

    縄文人の暮らしと環境ー早稲田大学による貝塚研究の歩みー/早稲田大学会津八一記念博物館   p.2  1999年

  • 阿部義平著「蝦夷(えみし)と倭人」

    歴博   95 p.26  1999年

  • 札幌の一夜

    岡本勇先生追悼文集 岡本勇その人と学問 /東京堂   pp.306-307  1999年

  • 石倉墓葬遺構の特色とその意義

    石倉貝塚 /函館市教育委員会   pp.476-478  1999年

  • 北日本の考古学ー教科書にない日本史ー

    発掘された古代日本/放送大学教育振興会   pp.190-209  1999年

  • 早大安部球場跡地埋蔵文化財調査報告書『下戸塚遺跡の調査第4部 中近世編』/早稲田大学    1997年

  • 青森県虚空蔵遺跡出土土器の共同研究

    文学研究科紀要   第42輯第4分冊  1997年

  • 拝啓水野祐先生

    水野祐著作集月報7/早稲田大学出版部    1997年

  • 館石野Ⅰ遺跡発堀調査報告書――縄文時代列石遺構の調査――序文

    早稲田大学文学部考古学研究室岩手県下閉伊郡田野畑村   ?-?pp  1997年

  • 三内丸山遺跡から是川遺跡へ

    八戸市    1997年

  • 『源氏物語』のころの北海道

    札幌市    1997年

  • オホーツク文化・擦文文化とアイヌ文化

    紋別市    1997年

  • 岩壁彫刻から土器紋様へ――渡島蝦夷の紋章――

    手宮洞窟シンポジウム 汲濤を越えた交流――手宮洞窟と北東アジア――記録集   82-89pp,119-140pp(小樽市教育委員会)  1997年

  • 坂誥秀一著『太平洋戦争と考古学』

    季刊考古学/雄山閣   60 97p  1997年

  • 中村五郎他『画龍点睛』

    古代/早大考古学会   103 200-201pp  1997年

  • サハリン初めての旅から

    北方博物館交流――特集モネロン島の考古学――   第10号4-5pp  1997年

  • 世界の考古学

    同成社   全10巻  1997年

  • 世界の考古学

       1997年

  • 下戸塚遺跡の調査第2部弥生時代から古墳時代前期/早稲田大学    1996年

  • 下戸塚遺跡の調査第1部旧石器時代から縄文時代/早稲田大学    1996年

  • 早稲田大学東伏見総合グラウンド遺跡B地区調査報告書/早稲田大学    1996年

  • はじめに

    大久保山IV早大本庄校地文化財調査報告4/早稲田大学    1996年

  • 日本の伝統文化史

    平成6年度佐倉市国際文化大学講義録/(財)佐倉国際交流基金    1996年

  • 「擦文以後」をめぐって

    博物館フォーラム アイヌ文化の成立を考える/北海道立北方民族博物館    1996年

  • 菊池俊彦著『北東アジア古代文化の研究』

    考古学雑誌/日本考古学会   81;1  1996年

  • 考古学の立場から見たアイヌ文化の形成と発展の諸問題

    アイヌ文化の形成と変容(小谷凱宣編)/名古屋大学    1996年

  • 早稲田大学博物館の実現へむけて

    早稲田学報   1067  1996年

  • 早稲田の考古学

    早稲田大学(文学部考古学研究室)    1996年

  • 考古学から見る邪馬台国

    雄山閣出版    1996年

  • オホーツク文化に魅せられた人びと

    アサヒグラフ別冊(戦後50年古代史発掘総まくり)/朝日新聞社    1996年

  • 序-『古代』第100号を祝す

    古代/早稲田大学考古学会   100  1995年

  • 服部四郎先生の思い出

    北方博物館交流/北海道北方博物館交流協会   8  1995年

  • 西村正衛先生の御霊に

    早大文化財調査室報/早大埋文調査室   3  1995年

  • 岩壁彫刻から土器紋様へ-渡嶋蝦夷の紋章

    小樽市30周年記念手宮洞窟シンポジウム波涛を越えた交流-手宮洞窟と北東アジア 資料集/小樽市    1995年

  • クマを祭るオホーツク人-アイヌ文化の源流

    歴史と地理/山川出版社   481  1995年

  • 遺跡に見る中世蝦夷地の風景

    中世の風景を読む-1-蝦夷の世界と北方交易(網野善彦・石井進編)/新人物往来社    1995年

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特定課題制度(学内資金)

  • 東日本先史時代における社会複雑化過程の比較研究

    2009年  

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    幸いに採択していただけたので、与えられた研究費を有効に活用させていただき、研究課題に沿ってフルに調査研究を行うことができた。私にとって専任教員最後の年度であり、そのため何かと多忙で時間的制約も多かったが、夏休みを中心に北海道、東北地方を中心に東日本各地の遺跡や資料の調査にあたり、またシンポジウム、研究会などで情報・意見交換を行うことができた。特に3月11日から18日にかけて、高橋龍三郎教授とともにかねて計画していたオーストラリアの調査旅行が実現できたのは幸いであった。詳細は出張報告に記したとおりであるが、シドニーおよびキャンベラの大学、博物館等で綿密な調査を行い、またシンポジウム等で意見交換を行った。この結果、ことにオーストラリアの先住民アボリジニの文化との比較によって、研究課題である東日本先史社会の複雑化過程の解明上じつによい手がかりがいくつも得られた。なお、1月24日には、有楽町朝日ホールを会場として、世界遺産登録を目指す「北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群」をめぐるシンポジウムにコーディネーターとして参加したことも課題に関する活動として付記する。研究成果発表: 菊池徹夫編『比較考古学の新地平』(同成社 2010年2月6日 1122頁)は、これまでの私の科学研究費あるいは特定課題研究の共同研究者・研究分担者のほとんどを含む、じつに103名の執筆者による論文集であり、もとより本特定研究の成果のひとつでもある。最後に、改めて、かかる研究成果を可能ならしめた早稲田大学に心から感謝申し上げる。

  • 社会の複雑化に関する比較考古学的研究 ―環太平洋地域を中心に―

    2007年   寺崎 秀一郎

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     本年度は、残念ながら科学研究費補助金は得られなかったが、ありがたいことに大学の特定課題研究助成費が与えられたので、研究代表者の菊池はカナダ、ドイツおよび日本国内において、短期間ながら関連する調査研究を行った。また、分担者の寺崎秀一郎は、中米マヤ地域でのフィールドワーク等を行い、いずれも大きな成果を得ることが出来た。以下に成果の詳細を報告する。 菊池は、新学部発足や文化庁(文化財、世界遺産等)各種審議会をはじめ学内外の用務に忙殺されたほか、菊池、寺崎がともに加わって文科省の企画プログラムとして採択された「考古調査士養成プログラム」を立ち上げたこともあって、長期のフィールドワークは叶わなかったが、夏休みにはカナダ(モントリオール マギル大学、ケベックシティー等)、アメリカ(シカゴ・フィールドミュージアム等)、年末年始にはドイツ(デュッセルドルフのネアンデルタール遺跡、ベルリンの各博物館等)を訪れ、所蔵されている主としてアメリカ大陸先住民、アイヌ、東南アジア、オセアニア地域など、アジア・環太平洋各地採集の考古学・民族学資料を中心に本研究課題に沿って比較考古学的調査研究を行い、また多くの研究者と情報交換を行った。国内でも、校務・公務の間を縫って北海道、宮城、群馬、長野、名古屋、および熊本において短期の資料調査を行い、大いに知見を広めることが出来た。 一方、寺崎は、アメリカ大陸、先スペイン期における都市文明の一つである古代マヤを中心に調査研究をおこなった。主な研究対象地域は、ホンジュラス共和国西部に位置するコパン遺跡9L-22,23(El Grupo Residencial Norte)である。本研究は、2007年7月に文学学術院とホンジュラス国立人類学研究所との間で締結された共同調査保存プロジェクトの一端も担っている。また、2008年2月にホンジュラス北部コルテス県セリート・リンド遺跡で発見された埋葬についても、ホンジュラス国立人類学研究所からの要請により、検討を始めた。現在、発掘調査時の所見、出土土器の予備分析の結果、同埋葬は先古典期前期のものと目されているが、当該時期の埋葬については、マヤ地域のみならず、メソアメリカでも類例が極めて少ない。先古典期については、近年のマヤ低地における調査研究から、すでに都市が誕生し、社会の複雑化が相当程度進行していたことをうかがわせる事例が発見されているが、先古典期前期とはその前段階にあたり、社会の複雑化のプロセスを把握する上でも重要な資料と思われる。本研究課題の一環として取り組むべきものであり、埋葬人骨の詳細な分析が必要となる。本年度については、人骨そのものからの直接的な年代測定のためのサンプル採取をホンジュラス国立人類学研究所の協力のもとおこなった。右大腿骨の一部、ならびに人骨周囲で検出した炭化物を年代測定用に採取した。採取人骨については、レプリカ作成の後、加速器による年代測定をおこなう予定である。なお、レプリカ作成については、新潟県立看護大学藤田尚准教授の協力を仰ぐべく、調整を進めている。 なお、寺崎が中心となって、ホンジュラス国立考古学研究所と早稲田大学文学学術院との間の協力協定が締結され、これに基づきマヤ考古学者の中村誠一氏が菊池の主宰する早稲田大学比較考古学研究所の客員教授に採用され、さらに11月には同研究所長エウラケ氏が本学を訪問して理事等と意見交換したうえ記念講演をされたことなども、本課題研究に関わる成果として特記しておく。

  • 環太平洋地域における社会の複雑化に関する比較考古学的研究

    2006年   高橋 龍三郎

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     本年度は、残念ながら科学研究費補助金は得られなかったが、前年度より継続する「環太平洋地域文化研究会」を年数回にわたり開催し、研究組織に属する研究者間で情報交換に努めるとともに、まことに幸いに、特定課題研究助成費を与えられたので、今後の科研による研究に向けた着実な調査を実施することができた。 菊池は役職上、また新学部準備の作業に忙殺されたが、韓国および日本国内において、本研究課題に即した予備的、補足的な調査研究を行った。まず、網走市で行われたシンポジウム「アイヌ文化の前史としてのオホーツク文化とその周辺」に参加し、道立北方民族博物館に於いて、調査研究を行い、また多くの研究者と活発に情報交換を行った。11月には、札幌市および余市町において主として環北太平洋地域の特徴的文化の一つである岩画の問題について研究を行った。2月には紋別市で行われた「第13回氷海の民シンポジウム――ヒグマと人間の関わり――」に学術顧問として参加し、環北太平洋各地に棲息し、古くから人類と関わってきた森林動物の代表たるヒグマをめぐって大いに知見を広め、さらには人間による自然破壊や地球温暖化の問題まで議論を深めた。さらに札幌を訪れ、開拓記念館を中心に資料調査と意見交換を行った。そして3月に韓国のソウル特別区に赴き、3年前にオープンした広大な韓国国立中央博物館に於いて調査研究を行い、漢江南岸の夢窓洞遺跡、風納土城などを時間の許す限り探訪し、大いに知見を広めることが出来た。 一方、高橋は、環太平洋地域をめぐる文化・社会の複雑化過程を探り、民族誌の採集と「社会階層化過程」の理論的解明を目指して2週間(8月5日~8月19日)にわたり、パプア・ニューギニアのミルンベイ地方において民族誌調査を実施した。そこでは地域社会の親族構造や血縁組織、出自システムなどをまず押さえ、引き続いて農耕や漁労などの生業関係を調査した。同地域のヤバム島やイースト・ケープでは、主に伝統産業である土器生産と、生業の実態、親族組織、出自システムとの関連についての調査を行った。特に母系制社会における土器製作技術の継承と配布関係について、良好な事例を調査することができた。調査には、私のほかに本学非常勤講師1名と考古学専攻の大学院生2名、学部学生1名、東京大学大学院博士課程1名が参加した。イースト・ケープとヤバム島の2箇所に分住して、それぞれの区域で、GPS装置で正確な位置を計測しながら、村の家屋配置や親族組織、土器製作者の血縁的な系譜関係、土器製作における技術的継承関係などについて調査し、母系制社会における複雑な血縁の系譜関係や、土器製作者の伝統的技術の系譜と親子関係、交友関係など、土器製作に関与する技術的要因を知ることによって、型式が成立する社会的背景を把握することがでた。なお、その研究成果は10月7、8日の「縄文社会をめぐるシンポジウム Ⅳ」において一部を発表した。また昨年度の研究活動成果を『史観』第156冊で発表した。

  • 古代社会の発展と都市化の比較考古学的研究

    2003年  

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     昨年度におけるフィールド調査の成果に基づき,それぞれのフィールドにおける調査・研究をさらに深め,比較考古学的方法論をさぐるための資料収集に努めた. 研究代表者の菊池徹夫と研究分担者の高橋龍三郎は,夏季に北米大陸北西海岸部を巡検し,特にハイダやトリンギットといった北西海岸に住むアメリカインディアン諸部族について、新たに比較考古学的検討の基軸となるような(特に日本列島の縄文文化をはじめ,世界各地の先史社会を比較検討するうえで重要な)成果を得ることができた.この成果報告の一部は、『史観』第150冊に掲載される。 研究分担者の寺崎秀一郎は,昨年度より比較考古学的検討の軸の一つとしてあげられているメソアメリカ地域・ホンジュラスのエル・プエンテ遺跡における発掘調査を継続し,遺存状態が良好で修復可能な石造建造物の発見など大きな成果をあげ,新聞(国内最大発行部数のLa Prensa紙では2・3面見開き)やテレビといった地元メディアに大きく採りあげられた. また,この他,菊池徹夫はカムチャッカ半島南部において,研究分担者の岡内三眞は中国新疆ウイグル自治区および韓国において,高橋龍三郎はパプア・ニューギニアおよび日本において,近藤二郎はエジプトにおいて,谷川章雄は日本国内において,小髙敬寛はシリアおよび日本において,各自の野外調査を精力的に行ない,個別の事例にかんする資料収集を行ない、研究全体のいわば基礎固めを行った. これら活動の成果報告は、これから順次様々な形で行うつもりである。  以上のような本年度の諸活動に、菊池を代表者とする文部科学省科学研究補助費(基盤研究B2)とともに、本特定課題研究助成費を有効適切に使用した。 記して感謝の意を表する。

  • 千島列島におけるアイヌ文化の形成・拡散・変容過程に関する考古学的研究

    2001年  

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     本研究課題は、当初、採択額は2000および2001年の2年間で計270万円であったが、2001年度については国際共同調査・研究のパートナーである米・露両国のそれぞれに複雑な都合により、ついに現地調査が不可能な事態となり、ために科研費の申請も見合わせざるを得ないこととなった。このため、残念ながら特定課題研究助成費も実質2001年分131万円は減額され、2年間で2000年度分139万円のみの交付となった。このことはまことに残念ではあったが、しかし、2000年度分139万円を「千島列島におけるアイヌ文化の形成・拡散・変容過程に関する考古学的研究」という申請課題の趣旨に沿う方向で有効に使用させていただいた。 まず、第1に研究代表者の菊池はイギリスに赴き、ケンブリッジ大学等において課題に関する資料調査、情報交換を行い、一方、国内各地、主として北海道においてアイヌ文化の形成についての研究を行った。その成果の一部は、すでに論文、講演記録等として公表している。また、早稲田大学博物館所蔵のアイヌ文化資料たる「土佐林コレクション」をデータベース化し、ホームページ上で公開しえたことも、本課題に関連する成果として特質してよいであろう。 第2に、研究分担者の北海道開拓記念館学芸員、手塚薫は、研究分担予定者の1人であったワシントン大学Ben Fitzhugh氏の配慮もあって、幸いウラジオストック科学アカデミーの調査船「オケアン」に便乗する機会を得、北部千島列島のシュムシュ島、パラムシル島から、中部千島列島のウルップ島までを移動しつつ、先史・人類学的調査を行うことが出来た。マツワ島で縄文土器を、ウルップ島ではオホーツク式貼付文土器を発見した他、オンネコタン島では環状の周堤群からなる特殊な遺構を確認するなど、考古学的には未踏の地域において、アイヌ文化の形成という本課題の研究にとって注目すべき、重要な成果を挙げることが出来た。改めて本課題に対し研究助成費が与えられたことに感謝したい。

  • アイヌ民族史の研究(5)

    1999年  

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     私は、95年度の特定課題「アイヌ民族の研究(1)」で提示した基本戦略に基づきつつ研究を継続し、96年度の研究(2)では主としてオホーツク文化について、97年度の研究(3)では擦文文化に関して問題点の整理を行った。さらに98年度(4)においては、これら先行する土器文化と後の近世アイヌ文化との比較を行い、これら両土器文化と、いよいよそののち列島北部に立ち現れる、いわゆる近世アイヌ文化との系統関係についての検討にとりくんだ。 基本的には、考古学的データに拠りつつ旧石器時代以降、続縄文期を経てオホーツク文化・擦文文化を中心に近世アイヌ文化期まで時代を下り、いっぽう、文献に拠りつつ、逆に近世から中世を経て古代蝦夷世界へと遡行してみた。もちろん、言語、民族、地理、人類学など関連諸学の成果も吟味した。 そして99年度(5)では、その結果について再吟味しつつ、なお詳細な検討を続けるいっぽう、放送大学99年度テキストその他下記文献、あるいは各種学会・シンポジウム・講演等を通じて、こうした研究成果をなるべく広く公開し、それ自体の点検・評価に努めた。ここでは詳述を避けるが、いずれにせよ、最後の土器文化たる擦文文化が終焉を迎える13世紀から、確かな文献資料の現れる15世紀までの間、即ち、14世紀を中心とする時代こそが、この北日本の地域では重要な鍵となる時期であること、そして、最近ようやく懸命の調査・研究の進展によって、たとえば千歳市美々8遺跡を初めとして、こうしたヒアタスを埋め、中世北日本の姿を垣間見せるような考古資料が明らかにされ始めていること、それによって、ようやくアイヌ民族の形成や、いわゆる近世アイヌ文化の成立の問題について、かなりの程度説得性をもつ仮説が提出できる段階になった。 折しも、97年の「アイヌ新法」の成立を機に、札幌に「財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構」(理事長:佐々木高明)が設立されたが、その中に今年度新たに発足した「アイヌに関する研究体制検討委員会」に私も委員として参加することとなった。この特定課題によって進めてきた一連のアイヌ史の研究成果を、法律、言語、民俗、および行政などの専門家との論議を通じ、また、全国の小・中学校教師用指導資料の執筆・制作によって、アイヌ民族の伝統文化の正しい理解、保存・進行の方途を探り、現実のアイヌの人々に関する知識の普及を計って、国民全体、特に生徒・児童のいわれのない差別の払拭のために生かすことができるのは、うれしいことである。かかる研究を可能ならしめた本助成費の交付に対し、改めて深甚の謝意を表する。

  • アイヌ民族史の研究(4)

    1998年  

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     98年度は、95年度の特定課題「アイヌ民族史の研究(1)」で提示した基本戦略に基づきつつ、96年度の研究(2)でのオホーツク文化、97年度の研究(3)における擦文文化に関する研究を踏まえ、これら両土器文化と、いよいよそののち列島北部に立ち現れる、いわゆるアイヌ文化との系統関係についての研究にとりくんだ。 基本的には、考古学的データに拠りつつ旧石器時代以降、続縄文期を経てオホーツク文化・擦文文化を中心に近世アイヌ文化期まで時代を下り、いっぽう、文献に拠りつつ、逆に近世から中世を経て古代蝦夷世界へと遡行してみた。もちろん、言語、民族、地理、人類学など、関連諸学の成果も吟味した。 その結果については下記文献のほか、別の機会にゆずり(放送大学99年度テキストその他)、ここでは詳述を避けるが、いずれにせよ、最後の土器文化たる擦文文化が終焉を迎える13世紀から、確かな文献資料の現れる15世紀までの間、即ち、14世紀を中心とする時代こそがこの北日本の地域では、史料的にいわば暗黒の時代であること、しかし、にもかかわらず最近ようやく懸命の調査・研究の進展によって、こうしたヒアタスを埋め、中世北日本の姿を垣間見せてくれるような考古資料が明らかにされ始めていることは確実である。それによって、ようやくアイヌ民族の形成や、いわゆる近世アイヌ文化の成立の問題について、ある程度説得性をもつ仮説を提出できる段階になったといっていよい。 かかる研究を可能ならしめた本助成費の交付に対し、深甚の謝意を表する。

  • アイヌ民族史の研究(3)

    1997年  

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    97年度は、95年度の特定課題「アイヌ民族史の研究(1)」に示した基本的戦略に基づきつつ、昨年度の研究(2)におけるオホーツク文化に次いで、主として擦紋文化に関し、まず、以下のような問題設定を試み、いくつかの点について研究を進めた。1 日本史のなかの擦紋文化       6 擦紋人とは誰か2 教科書でどう教えられてるか     6―1 平安貴族の和歌に見る蝦夷3 擦紋文化とはどんな文化か      6―2 平泉奥州藤原氏と蝦夷3―1 続縄文文化から擦紋文化へ    6―3 土器の紋様は渡島蝦夷の旗じるし?3―2 研究の手がかりとしての擦紋土器 7 オホーツク文化との関係3―3 擦紋人をとりまく自然環境    7―1 擦紋人も熊送りをやったか?3―4 住まいと村(竪穴集落)     8 アイヌ民族文化の源流の一つとしての擦紋文化3―5 墓――死者の住まい――     9 残されたいくつかの課題3―6 生業              9―1 擦紋人の信仰や祭祀はどんなものだったか3―6―1 採集・狩猟・漁労      9―2 擦紋人の種族的系統3―6―2 農耕            9―3 古代北方防御性環濠集落の語るもの3―6―3 鍛冶(鉄器の生産)     9―4 日本海沿岸の泊と船の水中考古学3―6―4 交易活動          9―5 中世蝦夷考古学の成果4 擦紋文化の広がり          9―6 アイヌ民族の成り立ちと地域系統5 擦紋時代の終末 この結果、すべてに明快な解答が得られたわけでは、もちろんないが、一般に言われているように、中・近世のアイヌ文化が、単純に擦紋文化からのみ形成されたのではなく、地域ごとの系譜を引きつつ、以外に複雑な成り立ちをしているであろうことが、ほぼ明らかとなった。本助成費の交付に改めて、重ねて感謝申し上げる。研究成果の発表'97.5月 小樽市教育委員会『手宮洞窟シンポジウム 波濤を越えた交流―手宮洞窟と北東アジア―記録集』「岩壁彫刻から土器紋様へ―渡嶋蝦夷の紋章―」'98.3月 北海道開拓記念館『北海道開拓記念館だより』27-6、「北の古代史をさぐる 擦紋文化」関連講演会「『源氏物語』のころの北海道」

  • アイヌ民族史の研究(2)

    1996年  

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     アジア太平洋戦争が終ってすでに半世紀以上にもなるというのに、日本は単一民族の国家だ、というふうな話をまだ時々耳にする。それがまったくの誤りであること、いまさら言うまでもない。 最近の考古学、歴史学、人類学、言語学など諸科学の研究成果は、日本列島に生きる日本人とその伝統文化、そして日本という国家じたいも、南方、北方それに西方からの、何波にもおよぶ人と文化の渡来によって、はじめてかたちづくられたものであることを教えてくれている。なかでも原史・古代以来、現代にいたるまでいく度となく渡来した朝鮮半島からの人々については、一応、教科書などにも書かれている。彼らは、さまざまの新文化をもたらしただけではなく、かなりの部分は列島に住み着き、また各地に移住もし、そこで先住の人々としだいに混血しつつ日本人とその文化の形成に大きな役割を果たし、日本の国家の成立じたに大きく寄与した。 これにくらべて北辺の隣人、アイヌの人々については、彼らが少なくとも東日本の先住民の一つであり、やはり日本とその文化の形成に大きく関わったことは明らかなのに、なぜかほとんど書かれることがない。ごく最近ようやく国会において彼らの「先住性」が確認されたことは、当然のことながら喜ばしい限りである。 現代の日本列島に生き、周辺アジアの人々と共生すべき私たちは、まず自分じしん、つまり日本人や日本文化についてよりよく知ること、そのためにはアイヌをはじめ北の隣人たち、すなわち北方少数民族について、もっと学ばなければならない。 ところで、列島北辺、道東・北部にオホーツク文化を遺した流氷の海の漁猟・交易民、つまりオホーツク人こそは、じつはアイヌあるいはニヴヒ(ギリヤーク)の祖先ともいわれ、しかも中国や朝鮮半島とも密接な関係があり、まさにその点で興味深く重要である。 ともかく、かつてこの列島に存在した地域文化のなかで、これほどいわばエキゾチックで特異な文化は、おそらく他に例はないであろう。共同生活のための亀甲型の大型竪穴住居、その内部にしつらえられた熊の頭骨を積み上げた祭壇、刻み目をつけたり粘土紐を貼りつける独特のオホーツク式土器、石や骨で作ったすぐれた漁具や狩猟具の数々、巧みな熊や海獣の彫刻品、神秘的な雰囲気さえたたえた牙製の女性像、奈良時代の東北地方から伝えられたと思われる蕨手刀、各種の大陸製金属製品、被葬者の頭に土器を被せ屈葬にした墓、そしてその特徴ある頭骨と、さまざまなその人種系統説・・・ オホーツク人とは?オホーツク文化とは? この文化はアイヌをはじめとするその後の日本列島の住民の歴史にどんな意味を持つのか。いずれ総括的な報告を予定しているが、今回はこれら諸問題の解明に主力を注ぎ一定の成果を得た。 このようなテーマでの研究は遠隔地での野外調査を必須とするので、本助成費の交付がなければ不可能であった。深く感謝する。

  • アイヌ民族史の研究(1)

    1995年  

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    アイヌ民族とは何か。アイヌ文化はいつ頃,どこで,どのように成立したのか。その起源と系統はどのようなものか。こうした問いが問われてすでに久しく,言語,人類,民族あるいは歴史学の立場から追究が試みられてきたが,なお未解決の問題は多い。ところが近年,北日本における考古学的な発掘調査がさかんになって,この方面からアイヌ文化の形成と展開および変容にかんして重要な手掛かりがつかめてきた。 近世アイヌ文化を古く遡っていくと,15世紀のコシャマインの戦いの頃まではほぼ辿れるが,14世紀以前になると,彼らに関する確かな資料がほとんどなくなり,その姿はしだいにおぼろげなものとなってしまう。 いっぽう,これとは逆に,縄文時代から考古学的に時代を下ってくると,本州の弥生文化・古墳文化にほぼ並行する続縄文文化を経て,9から12~3世紀の擦文文化となる。この一時期,道北・道東部にはオホーツク文化が併存する。要するに,15世紀のアイヌ文化に最も時期的に近いのは,13世紀ごろまでに終末を迎えた擦文文化ということになるが,両者の間,つまり14世紀こそは,文献史的にも考古学的にも,確実な資料に乏しい,文字どおり謎の世紀,暗黒の時代なのである。 しかし,その間に民族移動・民族交替でも認められないかぎり,両文化はスムーズに連続するというのが大方の見方,いやむしろ学界の輿論といってよい。ただ,両者をつなぐ考古学的証拠が極めて少ないのも事実であり,かえってアイヌ文化の中核ともみなされるイオマンテ(クマ送り儀礼)はオホーツク文化の中に辿れそうである。 したがって,アイヌ文化の形成の問題解決には,いまや,擦文文化,オホーツク文化,さらにその母体たる続縄文文化といった諸文化の徹底的解明こそが鍵となるものと思われる。ことにそうした北海道系の土器文化が間欠的に東北地方にまで南下分布する現象についての分析は,東北地方におけるアイヌ語地名の分布の問題と併せて重要であろう。 他方,このところ,例えば日高二風谷遺跡群,上ノ国勝山館遺跡,あるいは余市大川遺跡その他,14~17世紀ごろ,すなわち中世ないし近世初頭の遺跡が調査され,その性格が明らかにされつつある。これまた,擦文土器文化以降,近世アイヌ文化がどのように形成されたかについて知りうるまたとない資料である。 ところで現在の私には,残念ながら関連遺跡を新たに発掘調査するだけの余裕がないこともあり,むしろ,これまで多くの調査研究の結果明らかにされている,おびただしい考古学,文献史学,民族学などの資料・情報を改めて総合的に再検討してみることから始めることとした。 ことに,本テーマに直接関係する北日本地域に限っても,報告・未報告の相当量の出土資料・記録が蓄積されており,そのほとんどが未だ詳細な分析も比較研究もなされていないからである。考古学的研究にあって,本来,確かな目的をもった発掘調査が必須のものであることは言うを待たない。しかし今やそれ以上に既出土資料の詳細な観察や再分析,比較研究が必要な時期に至っているというべきである。 この特定課題研究では,そこで北日本各地で既出土,既報告の縄文文期以降,中・近世に至る各時期のデータを改めて観察・比較検討し,古代的土器文化と近世アイヌ文化との間の懸隔に何とか架橋を試みようと努めた。 とくに今回は,主として擦文文化以降,本州の中世にあたる時期の諸遺跡の内容を再吟味し,そこにアイヌ文化の文化要素がどのように認められてくるかを検討し,かなりの成果を得ることが出来たことを報告し,これを可能ならしめた助成費の交付に感謝する。

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