2024/12/21 更新

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イノウチ トシオ
井内 敏夫
所属
文学学術院
職名
名誉教授
学位
文学修士 ( 早稲田大学 )

学歴

  •  
    -
    1971年

    早稲田大学   文学部   西洋史  

所属学協会

  •  
     
     

    ロシア史研究会

  •  
     
     

    日本イスラエル文化研究会

  •  
     
     

    早稲田大学史学会

  •  
     
     

    比較都市史研究会

  •  
     
     

    比較法史学会

  •  
     
     

    東欧史研究会

  •  
     
     

    日本西洋史学会

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研究分野

  • ヨーロッパ史、アメリカ史

研究キーワード

  • 西洋史

 

論文

  • 盛期中世における植民法としてのドイツ法とその起源——ベネディクト・ジェンターラの論文紹介を中心として

    井内敏夫

    21世紀COEプログラム「スラブ・ユーラシア学の構築」研究報告書No.24『中世ロシアの法と社会』   24   119 - 138  2008年03月

  • 中近世のポーランドにおけるジェムスキ法の史料

    井内敏夫

    近世ロシアにおける法文典の史料学的ならびに文献学的研究:平成16年度ー平成18年度科学研究費補助金基盤研究B-1研究成果報告書     15 - 51  2007年03月

  • 戴冠祭式書にみる中近世ポーランド王権への神の宿り方—テオクラシー的専制と合意—

    井内敏夫

    西洋史論叢   ( 27 ) 59 - 91  2005年12月

  • ウーリー・オルレブ作、母袋夏生訳『壁のむこうから来た男』他

    井内敏夫

    ユダヤ・イスラエル研究   ( 20 ) 98 - 105  2004年12月

  • ヨーロッパ(中世ー東欧)

    井内敏夫

    史学雑誌   113 ( 5 ) 342 - 345  2004年05月

  • 初期中世ポーランドの国家・社会構造−公の権利体制−の研究

    井内敏夫

    平成11−14年度科学研究費補助金(基盤研究C)研究成果報告書     1 - 153  2003年03月

  • 初期中世ポーランドの運搬と交通奉仕義務:プシェヴドを中心に

    井内敏夫

    早稲田大学大学院文学研究科紀要   47 ( 4 ) 3 - 21  2002年03月

    CiNii

  • 1253年のポズナン市のロカーツィア−その事業過程と空間的構造を中心にしてー

    井内敏夫

    ロシア・東欧の歴史と文化 早稲田大学社会科学研究所研究シリーズ   ( 29 ) 105 - 125  1991年09月

  • ジェチポスポリタ、あるいはポーランドにおける共和主義の伝統について

    井内敏夫

    史観   ( 124 )  1991年

  • 14-15世紀前半のポーランドにおける王と国家と社会

    井内敏夫

    スラヴ研究   37  1990年

  • ポーランドのリベルム・ヴェト考-その法的根拠について-

    井内敏夫

    早稲田大学社会科学研究所 研究シリーズ   21  1986年

  • スタニスワフ・コナルスキの著書にみるリベルム・ヴェト

    井内敏夫

    社会科学研討究   93  1986年

  • ポーランド四年議会と社会の近代化

    井内敏夫

    歴史評論   412  1984年

  • ポーランド「防壁」論の歴史的考察

    井内敏夫

    早稲田大学社会科学研究所 研究シリーズ   15  1983年

  • ポーランド四年議会におけるユダヤ人問題と都市

    井内敏夫

    史観   107  1982年

  • マテウシュ・ブトゥリモーヴィチ『ポーランドのユダヤ人を国にとって有益な公民にする方法』(1789)

    井内敏夫

    ユダヤ・イスラエル研究   ( 8-9 ) 44 - 51  1980年

  • 1846年のポーランドークラクフ蜂起とガリツィア農民運動

    井内敏夫

    東欧史研究   ( 3 )  1980年

  • タデウシュ・コシチューシュコとアメリカ独立革命

    井内敏夫

    史観   100   132 - 147  1979年03月

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書籍等出版物

  • 『ヨーロッパ史のなかのエリート——生成・機能・限界』:シトー会修道院『ヘンリクフの書』にみる一三世紀ポーランド社会の変容

    井内敏夫編, 井内敏夫

    太陽出版  2007年03月 ISBN: 9784884695057

  • 『近世ヨーロッパの東と西——共和政の理念と現実——』: 前近代と近代のレスプブリカ——ポーランドからヨーロッパの国制観念をかいまみる——

    小倉欣一編, 井内敏夫

    山川出版社  2004年11月

  • 『ロシアとヨーロッパ——交差する歴史世界』: 初期中世ポーランドにおける騎士の権利と大土地所有——ルーシへのまなざしをもって——

    鈴木健夫編, 井内敏夫

    早稲田大学出版部  2004年03月

  • 『ヨーロッパ史研究の新地平-ポーランドからのまなざし-』: 初期中世ポーランドの貢租「ナジャズ」について

    編者 中山昭吉, 松川克彦, 井内敏夫

    昭和堂  2000年02月

  • ポーランド・ウクライナ・バルト史(共編著)

    伊東孝之, 井内敏夫, 中井和夫編

    山川出版社  1998年12月

  • 『ポーランド史論集』: ヤギェウォ家時代のポーランドにおける国王選挙とシュラフタ

    阪東宏編, 井内敏夫

    三省堂  1996年12月

  • 『講座スラブの世界3.スラブの歴史』: シュラフタ共和政とポーランドのお国柄

    和田春樹他編, 井内敏夫

    弘文堂  1995年

  • 『概説西洋社会史 有斐閣選書504』: ポーランド封建社会の形成とその展開

    野崎直治編, 井内敏夫

    有斐閣  1994年

  • 『スラヴ世界とその周辺』: 13世紀ポーランドの都市改革と「ドイツ法」-1253年のポズナンの「建設」特許状を中心にして-

    山本俊朗編, 井内敏夫

    ナウカ  1992年11月

  • 『ヨーロッパの反乱と革命』: 中世ポーランドの騎士の連盟-1352年のヴィエルコポルスカの運動-

    野崎直治編, 井内敏夫

    山川出版社  1992年

  • 『ヨーロッパ的自由の歴史』: ポーランド史における三つの自由

    仲手川良雄編, 井内敏夫

    南窓社  1992年

  • 『ポーランド入門』: ポーランドの歴史ーその一ー

    阪東宏編, 井内敏夫

    三省堂  1987年06月

  • ポーランド民族の歴史

    山本俊朗, 井内敏夫

    三省堂  1980年

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共同研究・競争的資金等の研究課題

  • 近世ロシアにおける法文典の史料学的ならびに文献学的研究

    科学研究費助成事業(静岡大学)  科学研究費助成事業(基盤研究(B))

    研究期間:

    2004年
    -
    2006年
     

    栗生澤 猛夫, 松木 栄三, 中村 喜和, 吉田 俊則, 中澤 敦夫, 豊川 浩一, 坂内 徳明, 栗生澤 猛夫, 井内 敏夫, 浅野 明

     概要を見る

    1 本研究グループが続けてきた月例研究会(東京)は2004年4月から2007年3月までに36回開かれ、研究分担者と研究協力者が参加して1649年法典テキストの解読と検討を継続した。その間に第16章全34条までの仮訳を完成させ、3回に分けて刊行した。ロシア語テキストのデジタル化、語彙集の充実、研究会ホームページの更新も行った。
    2 月例研究会のほか、研究分担者並びに研究協力者の参加を得て、金沢、山形及び北海道大学における合宿研究会を開催し、各研究分担者が担当するテーマに関する研究報告会を行い、討議を行った。
    3 そのほか、06年度ロシア史研究会大会(06年10月末、於明治大学)にて、共通論題『中近世ロシア法形成における異文化性』を企画し、研究分担者及び協力者のうち三名が報告を行った。
    4 月例研究会を通じて定期的に行っている法典の仮訳作成ならびに合宿研究会での個別テーマの発表には、12人の分担研究者のみならず、国内の研究協力者である飯田ちひろ、池本今日子、今村栄一、大山知児、小野寺利行、岸慎一郎、草加千鶴、草野佳矢子、濱本真実、丸山由紀子、三浦良子が積極的に参加した。
    5 研究の最終年度に研究分担者及び研究協力者、また2005年に招聘したホロシケーヴィチ博士の二論考を含め、全15本からなる研究報告書(A4版268頁)を作成し、研究成果を発表した。

  • 初期中世ポーランドの国家・社会構造-公の権利体制-の研究

    科学研究費助成事業(早稲田大学)  科学研究費助成事業(基盤研究(C))

    研究期間:

    1999年
    -
    2002年
     

    井内 敏夫

     概要を見る

    初期中世ポーランドの国制・社会制度についての見方は、1960-70年代に開始されるK・ブチェクとK・モゼレフスキの大論争を通じて、大きく塗り替えられた。二人の基本的な視点はよく似ており、論争を通してブチェク=モゼレフスキ理論と呼び得るような史観が形成され、その到達点がモゼレフスキ著、chlopi wmonarchii wczesnopiastowskiej,1987といえる。これに対する批判の代表が、S・ガウラス著、O ksztalt zjednoczonego Krokestwa,1966とJ・マトゥシェフスキ著、Vicinia id est...,1991である。
    モゼレフスキ理論の方法は遡及にある。ポーランドでは13世紀に幾千通のインムニテート文書が現れるが、そこで読み取り得る構図を12世紀の少数の文書と年代記、ならびにゲルマンや周辺スラヴの部族期の史料を参考にしながら、インムニによって崩れていく古い体制の要素と新しく誕生する要素を選り分けていく。彼によれば、前者が公の権利体制、後者が土地領主制ということになる。つまり、公の権利体制とは、君主としての公に象徴される国家に農民と戦士が総服従の状態にある制度であり、わが国の公民制に似ている。この初期国家は、地方行政機構を整え、部族期の一般自由民から分化した農民を様々な義務を持つグループに分けて、食料貢租や役務だけでなく、手工業製品、サーヴィスなどを徴収し、自足体制を築き上げた。しかし、その一方で、国家として機能していくためには、農民に部族時代の一般自由民としての基本的な権利を認め、またオポレと呼ばれる古来からの隣保共同体の協力を必要とした。それゆえ、農民から土地への権利や移動の自由を奪い、土地領主制と農奴制へと転換するにはほぼ200年に及ぶ時間を必要とした。このようなモゼレフスキ理論に対し、ガウラスは、10世紀末から12世紀末まで変化のない体制というのはありえないとし、マトゥシェフスキはモゼレフスキ理論の根幹の一つであるオポレ組織の存在を否定する。私には今後、史料の検討が必要となる。

  • ヨーロッパ史における分化と統合の契機

    科学研究費助成事業(早稲田大学)  科学研究費助成事業(基盤研究(B))

    研究期間:

    1998年
    -
    2001年
     

    前田 徹, 大内 宏一, 小倉 欣一, 野口 洋二, 井内 敏夫, 村井 誠人, 安斎 和雄

     概要を見る

    本課題の研究目的は、現在進行形で推移するヨーロッパの変容を通時的に理解するために、分化と統合という相反する複雑な諸力がいかに作動してきたかを歴史的に再検討するものである。10名の研究分担者が対象としたのは、時代は古代オリエントから現代まで、地域は西欧をはじめ東欧、北欧、アメリカという空間的にも時間的にも広い範囲である。研究成果報告書は印刷される予定であるので、詳細はそれに譲り、研究成果の一側面を示す。
    古典古代にはじまるヒューマニズムの理念、ローマ教会に体現される普遍的教会の理念とローマ帝国理念、さらには、人間理性の覚醒と「文芸共和国」という国境を越えた文化共同体、それらは、普遍的価値に裏打ちされたヨーロッパを求める動きととれる。宗教改革も、近代の国民国家の創成も、ヨーロッパを普遍的なものに基盤を置きたいという動きであって、統合の場を破壊する動きではないと見做しうる。また国民国家・民族国家形成以後の近代・現代の動向、一見分化の動きに見えるものが、より高度な統一の原理を求めるもしくは補強する意図に起因し、そのなかでのヘゲモニー争いと見做しうる事象といえる。
    そこで醸成されたヨーロッパの優位性の意識は、たとえば、イスラム世界と対時したときどのような態度なり、反応になるのであろうか。また、アメリカでは、黒人やアジア系など歴史的に異なった人々との複合的な価値観を共有できる国家へと変貌することが統合に不可欠であろうが、その道は厳しいものとなっている。
    ヨーロッパは、過去に築かれた伝統的な価値観や政治・社会の遺産の上に成り立っており、その歴史性を脱却してはいないであろう。しかし、歴史は変容を迫るものであり、その新しい事態を見極めることは至難である。そうであっても、この研究で示したような通時的な問題整理、すなわち歴史的考察が不可欠であることは間違いない。

  • バルト海地域交流に関する総合的地域研究

    科学研究費助成事業(早稲田大学)  科学研究費助成事業(国際学術研究)

    研究期間:

    1993年
    -
    1995年
     

    井内 敏夫, WEVER Ole, VIRSIS Marti, GAWLIKOWSKI クシュストフ, LUND Niels, 志摩 園子, 吉武 信彦, 松村 一登, 塩屋 保, 百瀬 宏, 大島 美穂, 本間 晴樹, 村井 誠人, GAWLIKOWSKI クリストフ, WAEVER Ole, KAHK Juhan, GAWLIKOWSKI, HORBY Kai

     概要を見る

    当研究では、まず、「バルト海地域」と呼ぶべき地域設定が重要である。単なるバルト海沿岸地方では歴史的生態系の概念からもその陸地における範囲が不明瞭であり、バルト海に注ぐ河川の流域ではそれはあまりに広大であり、不適当である。バルト海を中心に人間の営みにおける歴史的生態系を見いだし確定するには、そこが表面積415,000Km^2である"内海"であり、周辺民族にとっては活動の舞台、"通路"で、沿岸地方を結びつける役割に注目していくことにより、その活動によって限定される地域として他地域と区別しうる歴史的景観が、地形学(geoformology)が示唆する一地域と合致することに行き当たる。
    すなわち、バルト海の北部、ボスニア湾がアイソスタシ-現象によって地殻が陥没していて、現在も"刻々"と隆起していることから、最終氷期における氷床の中心をなした場所であることがわかり、このときの氷床の最大拡大範囲がここで問題としている「バルト海地域」であるくことが特定されうる。氷床の拡大に際して、中央部から周縁に向かって表土の侵触作用が行われ、その外側の外縁部では氷床の拡大期にもたらされた中央部周縁の表土が、氷床の後退期に残留・堆積したために、標高2〜300mのモレーン丘陵を形成した。バルト海の西・南・東岸沿岸にこれが分布し、デンマークの島嶼部及びユトランド半島からエルベ右岸の北ドイツ地方・ポーランドの沿バルト海の丘陵地帯・旧東プロイセンのマズ-リ-地方・バルト三国、そしてロシアのサンクトペテルブルクの東方まで連続する。例えば、この丘陵地帯の存在によって、平原の民たるポーランド人のバルト海沿岸への進出が永いこと阻まれてきたし、この沿岸地域に居住したスラブ系のヴェント人やバルト系のプロシャ人・ラトヴィア人、フィン・ウゴール系のエストニア人らが国家を形成する段階に到達する以前に、北欧人や北ドイツ人の活動の場となり、ヴァイキング活動、ハンザ・騎士団領の創設といった排他的空間が提供されたりした。また、バルト帝国を築いたスウェーデンが、国家発展の重点を本土の南北に拡大するのではなく、ストックホルムから真東へと向け、海を越え、対岸のフィンランド湾沿岸諸都市に求めていったことは注目に値する。その記憶がエストニア、ラトヴイィアに「バルト・スカンディア」概念を創起させ、両国の東方に対する拒絶感によって「冷戦期」にあってもこの概念が抱かれ続けてきた。
    大北方戦争以降、ロシアの勢力範囲がバルト海沿岸に達し、北欧勢力がオ-デル河口を例外としてバルト海南岸から撤退すると、ポーランドがロシア・プロイセン(のちにドイツ帝国)に分割され、いわゆる"列強"による勢力分割の舞台としてバルト海南岸は位置づけられ、それが結局・冷戦終結期まで続くことになる。そして、実際、バルト海が「分断」の海として"完全に"機能したのが、第二次世界大戦の冷戦機の状況のみであり、1989年の「東欧革命」と1991年のバルト三国のロシアからの独立に至るまでの時期であったが、あまりにもその期間の印象が強烈であったために、東独以東のポーランド北岸・バルト三国沿岸が"封鎖された海"のイメージを形成していたのである。
    この分断状態が打ち破られていく契機となったのが、バルト海の環境問題に対するゴルバチョフの提案(1989)であり、北欧会議的手法にならった議員レベルの地域協力が、最もそれに反発を抱くはずのロシアから謳われたことが重要である。この提案が、「バルト海地域」の真の有機的協力関係設立のゴ-サインであった。ドイツのシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州が"地域"として積極的に「バルト海地域」に関わっていこうとし、また、地理的には沿バルト海に属しているとは言えないノルウェーとアイスランドが、それぞれ1994年、1995年に環バルト海協力への積極的参加を具体的に表明した。それは、オ-レ・ヴェーヴァが「ノルディズムからバルティズムへ」と表明する「ノルディズム(北欧協力)」の拡大によって「バルティズム(バルト海協力)」に至る方向性が現実のものとなることを示唆している。今後、具体的に進行していくこの「バルト海領域」の"下位地域協力"がEUの拡大に先行する-また、EU的組織の手が届かない地道な地域協力を築いていく-注目すべきモデルを提供している。

  • ヨーロッパにおける差別と迫害

    科学研究費助成事業(早稲田大学)  科学研究費助成事業(一般研究(A))

    研究期間:

    1992年
    -
    1995年
     

    小林 雅夫, 井内 敏夫, 大内 宏一, 野口 洋二, 安斎 和雄, 栄田 卓弘, 野崎 直治

     概要を見る

    「差別と迫害」としっても、差別なり迫害なりの定義が大きな問題であるそして、歴史上に差別なり迫害なりの具体的事例を探すことは比較的容易であるように思われるが、その実態や背景や歴史的意味なりを検討することはそれ程容易でない。
    差別や迫害には、民族的差別、宗教的差別、経済的差別、法的・社会的差別あるいは性差別などさまざまな差別から発したものがあり、その背後にはその社会が抱える民族的対立、階層間格差、宗教的対立、社会的習慣の違い、文化的格差、地域的格差(地域経済的、社会資本的格差)などさまざまな複雑で深刻な問題があるのが普通であろう。また、差別や迫害には、精神的・経済的・物質的なものばかりでなく、戦争や死といった悲惨な結果を引き起こした危険な差別や迫害も数多くあった。さらに現代でも、地球上のあちことで生命を脅かす差別と迫害は続いており、多数の犠牲者、死者を発生させている。
    「差別」と「迫害」の定義にもよるが、何らかの差別のなかった社会はなかったろう。しかし、差別はあっても、過激な迫害が認識されない社会は存在したかもしれない。もっともこれも、加害者側と被害者側では認識が大きくことなる場合もあるだろう。そして、差別と迫害は、加害者側にも被害者側にも大きな傷を残す。
    本研究の参加者たちは、各人の専門分野の中での「差別と迫害」の事例に注目し、検討した。既に本年度途中にも、各人は研究成果を論文等で発表しているが、年度末には、全員の研究成果を報告書の形で公表した。

  • 中近世ロシア諸法典の歴史的展開に関する研究

    科学研究費助成事業(明治大学)  科学研究費助成事業(基盤研究(B))

  • ポ-ランド初期身分制議会とcorona regni概念-1333〜1454年-

    科学研究費助成事業(早稲田大学)  科学研究費助成事業(一般研究(C))

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特別研究期間制度(学内資金)

  • ポーランド中世国家の研究-オポレを中心として-

    2008年04月
    -
    2009年03月

    ポーランド   ワルシャワ大学歴史学部

特定課題制度(学内資金)

  • 西洋史における社会的エリートの機能と国家・政治システムの動態的研究

    2006年  

     概要を見る

    本研究グループは、総合研究機構のプロジェクト研究所の一つであるヨーロッパ文明史研究所と同一の研究テーマを設定して共同研究を行っているが、そのヨーロッパ文明史研究所が本2006年度に締め括りの年を迎えるにあたり、『ヨーロッパ史のなかのエリート――生成・機能・限界――』(太陽出版、2007年3月)と題する16篇の論文集を共同で刊行した。 本論文集は、エリートがヨーロッパにおいて政治的あるいは社会経済的に果たしてきた複雑な機能とその実態を歴史的に検討しようとするものである。その際、われわれは、ヨーロッパの国家・社会は小規模で多様な社会的中間団体の存在をその構造的特質とするという理解に基づき、エリートを大小様々な社会集団の内部における最も活動的な社会層ないしは個人と捉えることから出発した。そのため、かならずしも国家を直接的な視野に置かず、あるエリート集団の形成過程やその性格に的を絞った研究も少なからず含むこととなった。各論文の主題は次のとおりである。「民主政期アテナイの富裕者と政治」「テキストとしての『ゲルマニア』」「カール大帝期の宮廷とエリート」「中世初期領主制と鉄工業者」「シトー会修道院『ヘンリクフの書』にみる13世紀ポーランド社会の変容」「大シスマ(1378-1417)と学識者」「14~16世紀初めのドルドレヒト市行政職就任規定と執政門閥」「近世スイスの都市門閥」「合意政治のコスト」「近世ドイツにおける神学者の権力と《言説・メディアの力》」「近世ポーランドにおけるヘトマン(軍司令官)職」「19世紀前半期のドイツにおける「コルポラツィオン」と「アソチアツィオン」」「19世紀バルト海沿岸諸県の啓蒙・教育活動とロシア帝国」「ヨーロッパ・ロシア西部、辺境諸県の統治問題 1896-1903年」「サルバドール・ムニョス・ペレスとアンダルシアの反革命」「政治への歴史家のかかわりに関する一考察」。至らぬ所はあるにせよ、こうして東西ヨーロッパの社会集団やその指導層に古代から現代にわたって直接的あるいは間接的に光をあてることにより、ヨーロッパの国家と社会が歩んできた道筋をまた別の角度から浮かび上がらせることができたように思う。

  • 社会的エリート・公権力・国家--専制と合意の拮抗過程--

    2005年  

     概要を見る

    本研究グループのメンバーは個々人が個別の研究を推し進めると同時に、プロジェクト研究所の一つであるヨーロッパ文明史研究所とタイアップして共同研究を行っているが、2005年度は以下のような例会活動を実施した。・6月7日(火)午後6時~8時半。文学部西洋史第二専修室。皆川卓氏、自著『等族制国家から国家連合へ――近世ドイツ国家の設計図「シュヴァーベン同盟」』(創文社、2005年)を語る。評者、甚野尚志氏。・2006年1月21日(土)午後3時30分~5時30分。文学部第7会議室。白木太一氏、自著『近世ポーランド「共和国」の再建―四年議会と5月3日憲法への道―』(彩流社、2005年)を語る。評者、皆川卓氏。 外国の政治家や研究者を招いた会としては次のものがある。・リトアニアのヴィタウタス・ランズベルギス(Vytautas Landsbergis)氏の講演会。8月26日(金)1時-3時。文学部第一会議室。講演題目 ”Lithuania-the crossroad of Europe.”・ドイツ・ハーゲン大学フェリチタス・シュミーダー(Felicitas Schmieder)歴史学教授の公開講演会。10月27日(木)14時40分-16時10分。36号館682教室。題目「古きヨーロッパの現在とEUの東方拡大」。 個々の研究成果については「研究成果発表」の欄に別記する。  なお、同一の研究テーマで活動しているヨーロッパ文明史研究所は2006年度に締め括りの年を迎えるが、その総括論文集への執筆希望者は現在で20名に達している。

  • ヨーロッパ史における社会的エリートと国家

    2004年  

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    科学研究費を獲得するための準備研究としての本計画は、古代オリエントを含む欧米地域の個々の歴史的社会を研究の対象とし、そこにおける社会的エリートを特定して、その集団的志向を抉り出し、それらと国家のあり方、国家の動き方との相互関係を個別に問うことを目的とするものである。この二年間の活動において特筆すべきは、2003年12月に「近世ヨーロッパの東と西――共和政の理念と現実をめぐって」と題するシンポジウムを開催し、その一年後の04年11月に小倉欣一編『近世ヨーロッパの東と西――共和政の理念と現実』と題して山川出版社から刊行できたことである。これは、従来の日本における西洋史学とは違って、近世中東欧の共和政的な国制、政治文化の分析と理解を軸にして近世ヨーロッパ各国のレスプブリカ性を検証し、引いては古典古代から中世・近世・近代へといたるレスプブリカ概念の歴史を跡付けるものである。また、本研究計画は、プロジェクト研究所のひとつであるヨーロッパ文明史研究所の研究課題でもあり、それゆえ、研究員の成果の共有という目的で、研究員が出版する著作の読書会を平行して行ってきた。これまでに取り上げたのは、前田徹『メソポタミアの王・神・世界観』(山川出版社、2003)、踊共二『改宗と亡命の社会史―近世スイスにおける国家・共同体・個人―』(創文社、2003年)、丹下栄『中世初期の所領経済と市場』(創文社、2002年)、五十嵐修『地上の夢キリスト教帝国――カール大帝の<ヨーロッパ>』(講談社選書メチエ、2001年)の4点である。2005年度の科研費申請にあたっては、「社会的エリート・公権力・国家――専制と合意の拮抗過程」と少々テーマを具体的にしてみた。我々は、ヨーロッパの政治システムの成長過程を単に民主主義の発展として理解するのではなく、専制と合意の政治のダイナミックな競合・拮抗過程と見るからであるが、この変更も二年間の準備研究の成果の一つである。

  • 初期中世ポーランドの国家・社会構造――公の権利体制――の研究

    2002年  

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    初期中世ポーランドの国制・社会制度についての見方は、1960‐70年代に開始されるK・ブチェクとK・モゼレフスキの大論争を通じて、大きく塗り替えられた。二人の基本的な視点は良く似ており、論争を通してブチェク=モゼレフスキ理論と呼び得るような史観が形成され、その到達点がモゼレフスキ著、Chlopi w monarchii wczesnopiastowskiej, 1987といえる。これに対する批判の代表が、S・ガヴラス著、O ksztalt zjednoczonego Krolestwa, 1996 とJ・マトゥシェフスキ著、Vicinia id est ... , 1991 である。  モゼレフスキ理論の方法は遡及にある。ポーランドでは13世紀に数千通のインムニテート文書が現れるが、そこで読み取り得る構図を12世紀の少数の文書と年代記、ならびにゲルマンや周辺スラヴの部族期の史料を参考にしながら、インムニによって崩れて行く古い体制の要素と新しく誕生する要素を選り分けていく。彼によれば、前者が公の権利体制、後者が土地領主制ということになる。つまり、公の権利体制とは、君主としての公に象徴される国家に農民と戦士が総服従の状態にある制度であり、わが国の公民制に似ている。この初期国家は、地方行政機構を整え、部族期の一般自由民から分化した農民を様々な義務を持つグループに分けて、食料貢租や役務だけでなく、手工業製品、サーヴィスなどを徴収し、自足体制を築き上げた。しかし、その一方で、国家として機能して行くためには、農民に部族時代の一般自由民としての基本的な権利を認め、またオポレと呼ばれる古来からの隣保共同体の協力を必要とした。それゆえ、農民から土地への権利や移動の自由を奪い、土地領主制と農奴制へと転換するにはほぼ200年に及ぶ時間を必要とした。このようなモゼレフスキ理論に対し、ガヴラスは、10世紀末から12世紀末まで変化のない体制というのはありえないとし、マトゥシェフスキはモゼレフスキ理論の根幹の一つであるオポレ組織の存在を否定する。私には今後、史料の検討が必要となる。

  • 初期中世ポーランドの国家・社会構造-公の権利体制-の研究

    2001年  

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    初期中世のポーランドの住民は、法的な観点からみれば、まず二つのグループに大別できる。公的な国家権力に服する住民と、奴隷に代表され、主人の私的な財産とみなされる住民である。公権力に服する住民は、さらに、農民的住民と軍事奉仕を主たる義務とする戦士・騎士的住民とに分かたれ、その内の農民的住民は純然たる農民的地位にある一般農民と特殊な役割(officium)を課された民とに分類できる。本研究では、これまで、この一般農民に課された諸貢租や奉仕義務(いわゆる「公の権利の諸負担」)の内容を国家の財政という観点から分析してきた。今年度は公権力に服する農民的住民の内で特殊な役割を課された民について主として研究を行なった。 この種の民は、史料でミニステリアーレスと総称されるが、同時に受け持ちの役割から発する名称をもっており、そこから彼らの職種が分かる。それによれば、彼ら「公の奉公人」は一般の農民が供出できない手工業製品(鍛治工、弓矢作り、盾作り、橇工、舟大工、大工、靴工、金細工、桶作り等)や種々のサーヴィス(台所番、パン焼き番、洗濯番、醸造番、給仕番、馬番等)、狩猟関係のサーヴィス(射手、ビーバー番、犬飼、鷹番)、特殊な食品(蜂蜜番、ぶどう栽培人、漁夫)を提供する義務を負っていたが、畜産に従事する者(馬の交配係、牛飼い、豚飼い、羊飼い)もいた。彼ら奉公人の職務は世襲であり、その負担は一般農民に比べてかなり軽かった。この奉公人の集団は共通する独自の権利をもっていたと考えられ、比較的軽い世襲的な義務の外に、生計の糧となる自分の土地に対する強い保有権と相続権がその根幹を成す。その特殊な義務ゆえに、君主や国家に対する彼らの従属度は強かった。すでに11世紀には修道院に寄進される例が見られ、また13世紀には寄進されてその負担の内容を通常の農業的な品目に変更されたり、父祖の相続地から別の土地に移されることもあったが、代替義務は一般農民の義務よりも軽く、また父祖の土地への帰還を求めて訴訟を起こし、その訴訟に勝つことさえあった。職種に由来する集落名が今日でも400ほど残っているように、公の奉公人は同一の義務を持つ者だけで村を形成する場合もあれば、一般農民に混じって居住する場合もあった。住民に占めるその人口はかなり大きかったと考えざるを得ない。 

  • 初期中世ポーランドの国家・社会構造-公の権利体制-の研究

    2001年  

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     本年度は貢租に関する研究史の整理を目標とした。 13世紀のインムニ文書には「公の権利の諸負担」という概念が登場する。この範疇の負担のすべてを負っていたのが「村人」と呼ばれる一般農民であったが、個々の貢租や労役に関する詳細な情報を含む文書はわずかであり、しかも相互に矛盾する内容が多々みられる。それゆえ、この分野の本格的な研究は19世紀末に始まったが、ほぼ共通の理解が得られるような段階に達したのはようやく70-80年代の、K.ブチェクとK.モゼレフスキの研究によってであった。「公の権利の諸負担」は定期の貢租と臨時の義務とに分けることができる。定期の貢租には、各世帯が負うものとして、穀物貢租に転化したストルジャ(城砦の見張り番役)、地方や年代によって賦課単位が雄牛の頭数(ポヴォウォヴェ)・犂の数(ポラドルネ)・家屋(ポディムネ)、と異なる穀物貢租、蜂蜜や穀物・干草が要求される接待義務(スタン)があり、その外に、集落に豚(ナジャズ)や雌牛・羊(ポドゥヴォロヴェ)の供出が課された。ヴィエルコポルスカと東ポモージェではオポレに牛の提供義務(オポレ)があった。臨時の義務としては、城砦・橋・道路・逆茂木の建設と補修、地域防衛への参加、役人関係の送迎(ポヴズ)、物資や犯罪人の輸送(プシェヴド)、運送用の馬・牛・荷車の貸し出し(ポドヴォダ)が課され、このうえに臨時のポラドルネとスタンがあった。ナジャズは森のレガリアと関係する。このテーゼの問題点は13世紀の史料で割り出したこのような制度の始期をほぼそのまま10-11世紀の国家形成期にまで遡らせることにある。私見によれば、ナジャズを初めとする以上のような整備された貢租制度は12世紀半ば以降に完成を見た可能性を排除できない。

  • 初期中世ポーランドの国家・社会構造―公の権利体制―の研究

    2000年  

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     本年度は農民に課される「公の権利」の諸負担のうち、輸送・通信義務(プシェヴド、騎士のプシェヴド、ポヴス、ポドヴォダ)についてその研究史を中心に調べを行なった。ピエコシンスキは、公の荷物をリレー方式で運ぶ運送システムを支える奉仕義務としてプシェヴドを捉え、荷車や馬、ならびに護衛人と案内人を提供する義務と定義した。一方バルゼルは、荷物の輸送のみに限定し、その上で、公だけでなく公の役人や公の奉公人の荷も対象とした。これに対し、ルソツキは概ねピエコシンスキに戻り、二つの形態を抽出した。巡回する公の一行の案内と公やその荷駄の運送が原初的な形態であり、公の必要とする「一定の」品目をリレー方式で輸送する義務をより一般的な第二の形態と考えた。他方、ブチェクはリレー方式による公の物品の運送システムを認めた上で、荷車を引く牽引力(雄牛か馬)の提供をプシェヴドとする。荷車は公のものであり、そうでなければ、輸送ルート上のもっとも近い村で牽引動物の交代だけでなく、荷の積み替えまでも行う必要が生じるからである。ブチェクによれば、公の天幕係とビーヴァー捕獲人もプシェヴドを利用する権利を確実に持っていた。以下は、ブチェクの見解のみを記す。騎士のプシェヴドは、上記のいわば「農民のプシェヴド」が軽減された形態であり、騎士やその騎士の村の農民たちが負い、高価な物品や囚人となった騎士などの特定の品目が輸送される際に利用された。12世紀末までにはこの騎士のプシェヴドは形成されており、13世紀になると、教会や修道院領の村にも適用されるようになる。ポヴスは、ルソツキがプシェヴドの原初形態としたものにほぼ相当し、巡回する公の一行の荷駄隊に対し、荷車と牽引動物を提供する義務であり、時に護衛人も要求される。他方、ポドヴォダは公の使節や急使、あるいは敵軍の侵入を知らせる者たちに鞍付きの馬を貸与する義務であった。

  • 初期中世ポーランドの国家・社会構造の研究

    1998年  

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     当年度は国家の財政・経済制度に的を絞って研究した。ポーランドでは13世紀に社会・経済の構造が急速に変化し始める。その表れが住民からの多様な貢租や労役の徴収権を君主が教会機関や貴族・騎士などの特権層に移譲するいわゆるインムニテート文書の大量発給である。それ以前の時代にはポーランド国家の仕組みを知りうる同時代の真正の史料はほとんど皆無であり、したがって統一国家の出現する10世紀後半以後の初期中世国家の形はインムニテート文書を読み解くことによって得られる情報を基礎にして再構成されることになる。しかし、貢租や労役に関する詳細な情報を含む文書はわずかであり、しかも相互に矛盾する内容が多々みられる。それゆえ、この分野の本格的な研究は19世紀末に始まったが、ポーランドの史学界においてほぼ共通の理解が得られるような段階に達したのはようやく70-80年代のことであった。以下簡単にその内容を記す。 住民は国家=君主に対してさまざまな義務をもつ集団に組織された。インムニテート文書には「公の権利に基づく諸負担」ということばが登場する。この範疇の負担のすべてを負っていたのが「村人」と呼ばれる一般農民であった。その負担は、不明の部分が多いが、定期の貢租と臨時の義務とに分けることができる。定期の貢租には、各世帯が負うものとして、穀物貢租に転化したストルジャ(城砦の見張り番役)、地方によって課税単位が雄牛の頭数(ポヴォウォヴェ)・犁の数(ポラドルネ)・家屋(ポディムネ)、と異なる穀物貢租、蜂蜜や穀物・干草が要求される接待義務(スタン)があり、その外に、集落に豚(ナジャズ)や雌牛・羊(ポドゥヴォロヴェ)の供出が課された。ヴィエルコポルスカと東ポモージェではオポレに牛の提供義務(オポレ)があった。臨時の義務としては、城砦・橋・道路・防御施設の逆茂木の建設と補修、地域防衛への参加、役人関係の送迎(ポドヴォダ)が課され、このうえに臨時のポラドルネとスタンがあった。臨時のスタンは、宿営したり、通過する公や役人の一行を村人が実際に接待する義務であり、一種の略奪であった。 特定の手工業製品や家畜、サービスの調達にあたっては君主は「公の奉公人」と呼ばれる特殊技術者集団を組織し、彼らに対しては一般の義務のほとんどを免除した。君主は、この外、奴隷や流民を使って私家領を組織した。農民として定住させられた奴隷が君主に負う義務は「村人」と同様のものであった。 このテーゼの主要な問題点は13世紀の史料で割り出したこのような制度の始期をほぼそのまま10-11世紀の国家形成期にまで遡らせることにある。

  • 12ー13世紀のポーランドの社会経済構造の研究-KSIEGA Henrykowskaの研究

    1996年  

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     Ksiega Henrykowskaとは、シロンスクのヘンリクフに創設されたシトー派の修道院の年代記である。正式の名称は、Liber fundationis claustri Sancte Marie Virginis in Heinrichow.二部の構成からなり、第1部は、1268年から1273年の間に当時の修道院長ピョートルによって作成されたものと考えられ、第2部は1310年以降に書かれた。内容は、修道院の創設やその所領である個々の村落の獲得の経緯が主となっており、村の入手の際に得た公文書も含まれている。所領の形成に関する経緯が記述されるのは、かつての持ち主たちの家族による土地の返還要求に修道士たちが備えるためであったろう。その結果、当時のポーランドにおける相続と買い戻し権のあり方や、交換・買収・追い立てなどの手段を通じてまとまった形の大所領が形成されていく過程がよく分かる。また、12ー13世紀のポーランド農村の経済・社会史、とくにドイツ法に基づく農村の構造、植民や集落のあり方に関する豊富な情報が含まれている。さらに詳細な分析が必要である。文献としては以下のものを利用した。Ksiuga Henrykowska,wyd.i przekoad R.Grodecki,Poznac 1949.

  • 1573年のELEKCJAVIRITIMとヘンリク条項の成立について

    1995年  

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    本年度は,ヘンリク条項の前史について調査した。国王選挙の機会を利用して,王権に「手綱」を掛けるという前例は,明確な形では,1501年10月にリトヴァ大公アレクサンデルをポーランド王に選出したときに成立したミェルニクの特権に見られる。これは,先王のヤン・オルブラフトの元老院を無視した統治に手を焼いた大貴族たちが,リトヴァの窮状に付け込んで獲得した特権であり,形式的には,中・下級貴族の同意を取り付けてはいるが,元老院の優位を固定化しようとするものであり,その点で,大貴族とシュラフタの妥協の産物であったヘンリク条項と異なっている。以下,ミェルニクの特権の内容を記す。 1) セナトルに対する裁判は,王ではなく,議会開催時に元老院が行う。その名誉,財産,生命に関する問題では,3分の2の多数決による。2) 王への忠誠拒否権。王がセナトルの人身や財産に不当に危害を加えた場合,王老院の採決で,全王国は王への誓約と忠誠から開放される。他の君主のもとに逃亡し,王に対して不正を晴らすこともできる。3)(貴族の)臣民はあらゆる司法問題で,郡裁判所から議会法廷に上訴できる。4) 位階の上昇においては,飛び越えは許されない。顕職の任命は元老院の助言を得て2ケ月以内に王が行う。5) クラクフ王領地はクラクフ城代または知事のみが領有できる。6) 代官は王と国家に誓約を行う。7) 国宝の鍵は4人のセナトルが管理する。8) 臣民は自由に王に対する訴訟を起こすことができる。9) 王は貨幣の鋳造で臣民に害を与えてはならない。10) 代官はその職務の遂行にあたって,その地の司教や知事や城代の意見を考慮すること。11) 王領地と私領地の境界に関する訴訟ではそのための委員会が設置されるべきこと。

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