小林 信之 (コバヤシ ノブユキ)

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所属

文学学術院 文化構想学部

職名

教授

ホームページ

http://www.f.waseda.jp/kobayashi/

兼担 【 表示 / 非表示

  • 附属機関・学校   グローバルエデュケーションセンター

学位 【 表示 / 非表示

  • ヴッパタール大学(ドイツ)   哲学博士

経歴 【 表示 / 非表示

  • 2009年
    -
     

    早稲田大学文学学術院 文化構想学部 教授

  • 2008年
    -
    2009年

    早稲田大学文学学術院 文化構想学部 准教授

  • 1996年
    -
    2008年

    京都市立芸術大学美術学部 助教授

  • 1996年
    -
    2008年

    京都市立芸術大学美術学部 助教授

  • 1990年
    -
    1996年

    京都市立芸術大学美術学部 専任講師

所属学協会 【 表示 / 非表示

  •  
     
     

    映像学会

  •  
     
     

    実存思想協会

  •  
     
     

    西田哲学会

  •  
     
     

    京都哲学会

  •  
     
     

    日本哲学会

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研究分野 【 表示 / 非表示

  • 哲学、倫理学

  • 美学、芸術論

研究キーワード 【 表示 / 非表示

  • 哲学(近現代)、美学

論文 【 表示 / 非表示

  • カントにおける目的なき合目的性について

    小林信之

    早稲田大学大学院 文学研究科紀要 第66輯   66   13 - 24  2021年03月  [査読有り]

    担当区分:最終著者, 責任著者

  • 美的なものの概念をめぐって : カントとメルロ=ポンティの思考から

    小林 信之

    現象学年報   36   85 - 93  2020年11月  [査読有り]

    担当区分:最終著者, 責任著者

  • 美的なものの普遍性をめぐって ―両義性と感覚の独我論(補遺)

    小林信之

    哲学世界   ( 42 ) 1 - 13  2020年02月

    担当区分:責任著者

  • エポケーと無関心性

    小林信之

    フィロソフィア   ( 106 ) 1 - 17  2019年02月

  • 感覚の復権 ―レヴィナスにおける表象批判、超越の享受、脱=内存在

    小林信之

    早稲田大学大学院文学研究科紀要   ( 63 ) 1332 - 1317  2018年03月  [査読有り]

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書籍等出版物 【 表示 / 非表示

  • ハイデガー読本

    小林信之

    法政大学出版局、2014  2014年11月 ISBN: 9784588150708

  • 国立新美術館編・野村仁—変化する相

    小林信之

    国立新美術館  2009年05月

  • Der Raum der Stadt –Raumtheorien zwischen Architektur, Soziologie, Kunst und Philosophie in Japan und im Westen.

    Nobuyuki Kobayashi

    Jonas Verlag  2008年05月 ISBN: 9783894453985

  • 京都学派の思想—種々の像と思想のポテンシャル

    小林信之

    人文書院  2004年 ISBN: 4409040634

  • Heidegger und die Kunst -im Zusammenhang mit dem Aesthetikverstaendnis in der japanischen Kultur

    Nobuyuki Kobayashi

    edition chora, Koeln  2003年05月 ISBN: 3934977073

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共同研究・競争的資金等の研究課題 【 表示 / 非表示

  • アイステーシスの経験と公共性―倫理的なものと美学との相関性をめぐる基礎研究

    研究期間:

    2017年04月
    -
    2020年03月
     

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    本年度は、昨年までの研究を継続し、アイステーシスと美的なものの概念にかんする現象学的テーマを展開した。とくに着目したのは、現象学におけるエポケーの概念と美学的な無関心性概念との連関である。フッサールの現象学的エポケーは、古代の懐疑論やデカルトの方法的懐疑とおなじライン上に、だがそれらを包括する批判的・学的観点をふくむものであった。しかしより広い意味において、世界をまえにした驚きにはじまる経験としてエポケーを考えるとすれば、そこには受動的で先意志的な次元にかかわるテーマがひそんでいるといえよう。エポケーとはいわば、「否応なく」おしせまってくる明証なのである。こうした広義のエポケーの延長において、本研究でとくに着目したのは、知覚経験の純化としてのアイステーシスの経験(美的・感性的経験)である。すなわちカントの無関心性の概念、詩的なものの経験、あるいはベルグソンのいうような、有用性と社会性の原理にからめとられた知覚を遮断し距離をおく態度(デタッシュマン)等々をその例としてあげることができる。受動的な不意打ちによって意志の停止がもたらされると同時に、美的な態度とアイステーシスの経験のただなかで、あらたに世界に目がむけられる。驚きとともに、住み慣れた日常の事物への気づきが生じ、だが同時に、人間的意味の被覆をとりさられた無意味性の世界が垣間みえる。そして日々の生活世界が脱文脈化され、世界における物と、世界内で生起する出来事とが、ことさらにわたしたちにおしせまってくるのである。わたしたちが美的なものを注視し、そのものに耳をすませるのも、そのようなエポケーの経験にうながされたからであろう。以上のように、これまであまり関連づけて論じられることのなかったふたつの概念の連関をことさらに主題化することで、美学上の新たな問題領域をうかびあがらせることにもなったと考えられる。その理由としては以下の点があげられる。前年度にエマニュエル・レヴィナスの哲学を研究対象にしたことにつづき、本年度はさらに包括的な視点から、現象学的思考と美学的反省との連関を問うことで、アイステーシスとその倫理性をめぐる主題をいっそう深化させることができた。そのことによって、本研究課題の大きな根幹部分がおおむね達成されたと判断している。具体的研究成果の公表も順調に推移しており、研究経費の有効な使用状況とともに、とくに大きな問題は見いだせない。以上から、完全とは言えないにしても、本研究はほぼ順調に進展していると評価できるであろう。本研究は、一応今年度で完結する予定であり、すでに公表した諸論考をはじめ、部分的に提示された思考を有機的に統合する作業がのこされている。具体的には、本研究に関連する全論考をまとめあげ、ひとまとまりの報告書に研究成果を統合することである。また当該学会において、本研究成果を発表し、公の場において批判的な議論に曝すことも当然必要になる。今年度は、美学会および日本現象学会における研究発表を予定している

  • 近代日本の美学芸術理論の総合研究―間文化性の視点から

    研究期間:

    2014年04月
    -
    2017年03月
     

     概要を見る

    本研究は、近代日本の思想および芸術活動において蓄積された文化哲学的・美学的理論を再検討すると同時に、比較思想および間文化性の観点から、それを他の諸文化圏の美学のなかに位置づけようという試みであった。いいかえるとそれは、アジアの近代化・西欧化という歴史的文脈において日本近代の思想形成を相対化し、同時にその埋もれた可能性に光を当てることでもあった。今回の研究は、西田幾多郎の芸術論など、忘れ去られつつある業績を含め、それらを再評価することで、従来にない切口を探ろうと努めた。主要な個別的研究テーマとして集中的にとりくんだのは、創造作用としてのポイエシス、詩作と歴史、美的なものの時間性等の主題である

  • 平成18-21年度(2006-9年度)科学研究費補助金(基盤研究B)に基づく共同研究 研究課題「アジア的美意識とは何か」(研究代表者 神林恒道・立命館大学教授)

    研究期間:

    2006年
    -
    2009年
     

  • 平成17-19年度(2005-7年度)科学研究費補助金(基盤研究A)に基づく共同研究 研究課題「醜と排除の感性論」(研究代表者 宇佐美文理・京都大学教授)

    研究期間:

    2005年
    -
    2007年
     

  • 日本文化における空間概念をテーマとする芸術企画プロジェクト〈 city_space_transitions 〉(2004年度から2006年度まで、チューリッヒ芸術大学の芸術理論研究所における共同研究。スイス政府より助成)

    研究期間:

    2004年
    -
    2006年
     

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講演・口頭発表等 【 表示 / 非表示

  • 棺一基四顧茫々と—情態性/エポケー/詩

    ハイデガー・フォーラム第八回大会  

    発表年月: 2013年09月

  • 藤なみの影もうつらず —場所/像/死

    第24回日本哲学史フォーラム  

    発表年月: 2012年12月

  • 秋来ぬと風の音にぞ —アイステーシス/生活世界/時間性

    美学会東部会例会  

    発表年月: 2012年07月

  • 「場所」の思想と日本文化における空間造形—庭園芸術を例に

    ベルリン日独センター&チューリッヒ造形芸術大学主催シンポジウム テーマ: 都市の空間—日本と西欧の建築・社会学・芸術・哲学における空間理論から  

    発表年月: 2006年10月

  • さゞ波も奇しき—後期西田哲学におけるポイエシスと歴史

    第255回美学会西部会主催シンポジウム テーマ「芸術の場所」(大阪大学中ノ島センター)  

    発表年月: 2005年10月

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特定課題研究 【 表示 / 非表示

  • アイステーシスの経験と公共性―倫理的なものと美学との相関性をめぐる基礎研究

    2020年  

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    アイステーシス(感覚)と公共性の問題を考察するにあたり、本研究はとくにカントの『判断力批判』の研究に注力した。そのなかでも共通感官(sensus communis, Gemeinsinn)の概念の分析を中心におこなった。というのも共通感覚は、一方で「感情」を意味し、しかもそれは、感情一般ではなく、観照における反省的な快であるとみなされている。つまり美しいものの判断にむすびついた特権的な感覚経験が名ざされているのである。しかし他方で共通感官は、一種の理想的規範として、公共的合意を要求することができる。この点では共通感官は、道徳法則としての定言命令に類比的であり、倫理的な含意を有している。本研究は共通感官に内在するこうした両義性を主題化した。

  • 〈場所〉の現象学的美学に関する基盤研究

    2013年  

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    「場所」概念を現象学的に掘り下げるにあたり、本年度はとりわけ西田幾多郎の哲学とハイデガーの「情態性」に関する議論を中心に考察した。そこからさらに、場所論を美学上の問題として展開する論考も公表した。まとめると、研究成果は下記の項目に集約される。1.アイステーシス(美的・感性的働き)がわたしたちの日常的生活世界という「場所」において、どのように作動し、どのような意味をもちうるか、について。フッサールにはじまるエポケーの概念を再考すると同時に、それをよりラディカルに継承したハイデガーの「不安」概念を検討した。わたしたちの知覚経験は、たとえば風の音という「もの」のたち現れを聴き取る「気づき」の経験である。しかも、ものの現れは単独の孤立した現象ではなく、相互に連関しあったさまざまな意味の網目を構成し、わたしたちの生きる日常世界を指示している。世界は、わたしたちとものの出会いに先立って、意味の地平としてすでに開示されていなければならない。そしてそこからさらに、この世界を世界として可能にしている時間性が、たとえば「秋」という季節のおとづれの内に気づかれる(驚かれる)のである。 本論は、このように現象学的探求のなかで得られた世界概念とその構造への問いを遡及的に問い、そこから場所論へと展開する可能性を探求した。その際導きの糸となったのは、風の音に「驚く」というアイステーシスの経験であり、したがって本研究は広い意味での美学研究に位置づけることができる。研究成果は、早稲田大学総合人文科学研究センター『WASEDA RILAS JOURNAL』 NO. 1に公表した。2.西田幾多郎の場所論の考察。西田の場所概念と、その美学的展開可能性について検討した。その際、西欧において歴史的に形成された美学理論を相対化すると同時に、東アジア的世界に目をむける必然性に留意した。研究成果は、『日本の哲学』第14号に公表した。3.ハイデガーの情態性論を、とくにエポケー概念との連関において考察した。研究成果は、2013年9月におこなわれた学会(ハイデガー・フォーラム、於関西大学)にて公表した。

  • 公共性に対する美学的ないし感性論的諸問題の考究

    2012年  

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    本年度はとくに、感情や気分の問題に焦点を合わせた研究をおこなった。その枠組みのなかで、感情や気分の言語性・公共性と私秘性(つまり言語化不可能性、語りえぬもの)というテーマ、さらに語りえないものの表現としての美的ないし詩的表現の可能性について考察した。その際とくに、現象学におけるエポケー概念やハイデガーの情態性に関する分析を取りあげて解釈を加えた。 感情、情動、気分等々とわたしたちが通常名づけている事柄は、ハイデガーによって存在論的に「情態性」と規定されている。この本質規定の意味をいま一度問い直すことを起点に、それをエポケー概念との連関において検討しようと試みた。そこからさらに、「詩的言語」の問題にも議論を展開させたが、それは、詩的な語りの固有の目標が、情態性のさまざまな「実存論的可能性」を伝達すること(『存在と時間』SZ162)だからである。 一般に日常世界における気分や感情(たとえば「こわい」という感情)は、間主観的な共同世界における出来事として、公共的な言説によって分節化され理由づけられうるものと見なされる(「恐ろしい犬に出くわしたので、こわかった」等々)。つまり気分的・感情的に開示された世界は、すでに共同的・相互主観的世界であり、いわば「理由の空間」を前提している。したがってさまざまな気分や感情は、日常的なレベルでさまざまに名づけられ、共同的・間主観的な自己理解を伴いつつ言語的に分節化されているわけである。 だが、こうした日常的レベルでの気分・感情の分析に対してハイデガーは、「不安」や「退屈」の分析を対置し、それがある種公共的な自己理解を絶した、卓抜な開示性であることを明らかにする。つまりそれは、単独化された自己性の開示であり、公共的言語による分節化ではなく、固有で私秘的な自己存在の顕在化である。そしてそのような開示性から、詩や美的経験の可能性も開かれると考えられたのである。

  • 感性的経験と公共性について―他者性をめぐる美学的・倫理的考察

    2010年  

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     感性的経験、とくに身体感覚と公共性をテーマとするに当たって、本年度は、「痛み」の問題に焦点を合わせて研究をおこなった。 痛みの問題は、哲学の議論においてもっとも私秘的なものの事例として頻繁にあつかわれてきた。たとえばウィトゲンシュタインも、『哲学探究』の私的言語批判の文脈において執拗に痛みの例をとりあげている。そうした議論において主張されるのは、痛みの概念が、言語的公共世界のなかで習得され理解されるようになってはじめてわたしたちは、たとえば歯痛を歯痛として感じることができるようになる、ということである。公共的・言語的に意味づけられ分節化された歯痛はいわば「文化的歯痛」であり、わたしたちの歴史の文脈においてさまざまに語られうるようになる。 しかしながら痛みを、わたしの一回的個別経験として眺めた場合、言語化された意味を越えてずれと差異をおびてたち現れてくる。このときわたしの痛みは、他者にとって、けっして共有されえず、たえず無根拠な暗がりにむけて解釈の錘鉛をたらさねばならないような何かである。いや、他者にとってばかりではなく、すでに一時間前のわたし自身の痛みでさえ、いまここのわたしには疎遠でありうる。いまここで耐えがたく感じられている歯痛は、一回的な経験であるといわざるをえないのである。 このように、痛みという感覚経験の事例において、公共性と私性、倫理社会的観点と美的観点、等を鋭く対比的に考察することができる。さらにまた両者の対照は、いっそう具体化していくと、痛みの感覚実質の共約不可能性と表現可能性、言語に媒介された公共性と言語化しえない感覚の剰余、それら相反する両項の逆説的な関係を問うことへと展開せざるをえない。そうした課題に関して、理論的・哲学的議論にとどまらず、具体的な「痛みのイメージ」をめぐって、いくつかの事例を検討した(グリューネヴァルトのイーゼンハイム祭壇画、ラオコーン像、フリーダ・カーロ、石内都の写真作品等)。 なお研究成果としては、『感性文化研究所紀要』no.6 に論文として掲載する予定である。

  • 近代日本の思想形成と美学―比較思想的視点に基づく相対化の試み

    2009年  

     概要を見る

    本年度は日本文化における美意識や感受性の問題に関して、とりわけ現象学における知覚論を参考に研究をすすめた。 (1) メルロ=ポンティの知覚論・身体論と西田哲学とを批判的に対照し、たとえば「色彩」をめぐる問題について主題化した。 (2) 上記の現象学的研究をふまえつつ、とくに詩的経験をテーマとする論文を執筆した。この論考は、2010年3月に西田幾多郎記念哲学館において開催された日独哲学交流シンポジウム「形象の言葉/形象を見る―東と西West-oestliche(s) Bildsprache/Bildsehen 」で公表され、論文として出版される予定である。(タイトルは「かぎろひの立つ見えて ―〈いまここ〉の知覚風景」)。 目で見ること、耳を澄ますことで、わたしたちの前に直接知覚の風景が立ち現れ、この知覚の働きが、あらゆる認識の源泉として、たえずそこへと立ち返るべきところであると見なされてきた。しかしながら、たとえば空の虹を考えてみると、虹は言語的・文化的に規定されているから(とくに日本語の世界においては)七色に見えるのか、それとも言語的・意味的分節化に先立って、何か一般的な知覚経験が成立しているのか、容易に答えることのできない問いがここで生じてくる。知覚と言葉をめぐるこうした問いに関して、日本語の詩の言葉に注目することで考察は展開された。 詩的経験とは、生活世界における日常性をエポケーへともたらし、それを新たなまなざしのもとに見つめることを可能にするが、そこで露わとなるのは、わたしたちの知覚の働きの(1)非人称性と(2)身体性である。この二点に関して、メルロ=ポンティの『知覚の現象学』、ハイデガーの言語論、西田幾多郎の場所論、三木清の「構想力論」を参照しつつ議論をすすめた。 結論的に総括すれば、わたしという主体の基底には、歴史的・言語的に媒介された非人称的な「身」の次元があり、それは、「あらゆる特殊な定位可能性を一般的な企投のうちにふくみこんだ、匿名の〈諸機能〉のシステム」(『知覚の現象学』)であるということ、このことが明らかとなった。

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現在担当している科目 【 表示 / 非表示

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