2024/11/22 更新

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ツルミ タロウ
鶴見 太郎
所属
文学学術院 文学部
職名
教授
学位
博士(文学) ( 京都大学 )

所属学協会

  •  
     
     

    柳田国男の会

  •  
     
     

    史学会

  •  
     
     

    日本史研究会

研究分野

  • 日本史

研究キーワード

  • 民俗学、郷土、柳田国男

 

論文

  • 思想環境としての郷土研究

    鶴見 太郎

    史林   92 ( 1 ) 161 - 194  2009年01月

  • 昭和戦前期における郷土研究の組織化—橋浦泰雄の人脈構成に見る—

    鶴見 太郎

    早稲田大学大学院文学研究科紀要   50   3 - 16  2005年02月

    CiNii

  • 戦時下の「モヤヒ」—「柳田国男先生古希記念事業」に見る—

    人文学報(京都大学人文科学研究所)   ( 91 ) 39 - 60  2004年12月

  • “その場所”に託す—東筑摩郡と柳田国男—

    季刊 東北学   第二期 ( 1 ) 102 - 111  2004年10月

  • 2003年の歴史学界−回顧と展望−(日本史近現代・思想/文化)

    史学会    2004年05月

  • 民俗学の熱き日々

    中公新書    2004年02月

  • 旧無産芸術運動家による戦時下絵画頒布会

    早稲田大学大学院文学研究科紀要   49   3 - 16  2004年02月

  • 岩倉使節団の比較文化史的研究

    思文閣出版   pp.90-111  2003年07月

  • 京都フィールドワークのススメ

    昭和堂   pp.73-80  2003年04月

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書籍等出版物

  • 柳田国男入門

    鶴見太郎

    角川書店  2008年09月

  • 男性像を記録したひとびと阿部恒久・大日方純夫・天野正子編(『男性史Ⅰ 男たちの近代』 所収)

    鶴見太郎

    日本経済評論社  2006年12月

  • 柳田民俗学の東アジア的展開(『岩波講座 「帝国」日本の学知』第6巻 所収)

    鶴見太郎

    岩波書店  2006年04月

  • 「家」はいかにして戦争に対峙するか—渋沢敬三とその周辺—(『岩波講座 アジア・太平洋戦争』第3巻)

    岩波書店  2006年01月

共同研究・競争的資金等の研究課題

  • 戦後における柳田民俗学の組織的変容に関する基礎的研究ー1950年代前半を中心にー

    日本学術振興会  科学研究費助成事業

    研究期間:

    2020年04月
    -
    2023年03月
     

    鶴見 太郎

     概要を見る

    1950年代前半の柳田国男の民俗学の組織化について、基礎資料の分析からその実像に迫りたい。“在野の学問”として戦前戦中と独自の領分を築いてきた柳田民俗学が、ここに到って学会として再編されたことは、それまで各地の郷土史家を担い手としてきたという経緯から、「アマチュア」と「学者」というふたつの異なる範疇が生まれたことで、組織内に或る葛藤を内包せざるを得なかった。本研究はその実態を明らかにしたい

  • 鶴見和子の内発的発展論を「受苦と共生の社会運動論」として現代に再考する実践的研究

    研究期間:

    2018年04月
    -
    2021年03月
     

     概要を見る

    本年度の研究実績では以下の3項目が特筆される。① 京都文教大学鶴見和子文庫所蔵資料のデータベース化の進展:鶴見和子のフィールドノートや資料の劣化による破損が懸念されるガリ版刷りの共同研究会記録および水俣病公害闘争に関する資料のデータベース化をさらに進めた。また個人の蔵書や資料を所蔵している各地の資料館のデータベースの公開規約や閲覧申込書を参照して、来年度予定しているデータベースの一部公開に向けて、閲覧システムを具体的に検討した。② 水俣現地調査の実施:共同研究会のメンバーがそれぞれの研究テーマに基づいて水俣で現地調査を進めるとともに、2019年8月31日―9月1日に合同で水俣病問題関連地域を視察した後、合宿形式で共同研究会を実施した。共同研究会のメンバーが鶴見和子の内発的発展論の原点に立つ経験を共有できたことは、学際的研究を一つの方向性の下にまとめてゆく上で大きな意義があったと考える。③ 本研究の社会還元を目的として、2020年2月6日キャンパスプラザ京都において公開研究会「水俣のポリティクスとポエティクス―鶴見和子/内発的発展論の原点に立つ」を実施:ユージン・スミス氏とともに写真を通して水俣病問題の悲惨さを世界に伝えたアイリーン・美緒子・スミスさんの基調講演に続いて、共同研究メンバーの黒宮一太が「社会問題と学術研究はどう交わるべきか」をテーマに報告した。その後、フロアを交えて熱心な討議が行われ、本研究の社会的意義を再確認することができた。その他、鶴見の内発的発展論を社会運動論として捉えた実践的研究として、昨年度に引き続き、京都市南部向島ニュータウンにおける中国帰国者や外国人市民、障がい者の実態調査と彼らの地域参画の支援をした。また、新型コロナウィルスの流行により3月に予定していた共同研究会は実施できなかったが、研究成果の出版に向けた打ち合わせも進んだ。① 鶴見和子文庫のデータベース化や文庫の公開に向けたシステムと規約作りは、予定通り進んでいる。資料の劣化による破損が懸念されるガリ版刷りの共同研究会記録や水俣病公害闘争に関する資料のデータベース化はほぼ終わり、同様に破損が懸念される生活綴り方関連の資料のデータベース化もほぼ終わった。来年度のデータベース公開に向け、学内の手続き等を進める段階である。② 2019年度は、共同研究会での研究会メンバーの情報交換と、水俣での共同調査、水俣病問題に焦点を当てた公開研究会を実施し、共同研究はほぼ計画どおりに進んだ。ただし、新型コロナウィルスの流行によって、2月末以降の共同研究は停滞を余儀なくされている。③ 新型コロナウィルスの流行により、研究成果の社会還元のための公開研究会は規模を縮小して実施したが、内容は充実していた。④ 鶴見和子の内発的発展論を社会運動論として捉え再考する実践的な取り組みとしての、京都市南部向島ニュータウンにおけるまちづくり事業への共同研究メンバーの参画は継続的に実施され、地域の多文化多世代共生に寄与できている。2020年度は、以下の3項目を軸に共同研究を推進する。① データベース構築作業の継続とデータベース資料の一部公開:今年度に引き続き鶴見和子文庫の収蔵資料のデータベース化を進めるとともに、来年度は、鶴見が長年関わってきた生活綴り方運動や水俣病公害問題に関する所蔵資料のデータベースを一部公開する予定である。② 本科研研究の成果に基づいて、シンポジウム「鶴見和子の『受苦と共生』の内発的発展論から、新型コロナウィルス禍後のグローバル社会を考える」(仮題)を実施する予定:新型コロナウィルスの流行は、近代化のもとで破壊された自然と人間の関係、グローバル化と国家統合の軋み、経済至上主義の下での社会的格差と貧困層の拡大という現代社会の諸問題を顕在化させた。これらはいずれも鶴見和子がすでに近代化批判のなかで指摘してきたことであった。本シンポジウムでは、水俣病という公害問題を原点として、「受苦の共感」と地域を基盤とした「創造的な共生(ともいき)社会」の構築を論じる鶴見の内発的発展論を、新型コロナウィルス禍後の社会の再構築の方向性を提示する社会運動論として学際的に論ずることにより、研究成果の社会還元を目指す。③ 共同研究の成果出版に向けた補足調査と共同研究会の実施:共同研究メンバーはそれぞれ必要な補足調査を実施する。また、共同研究会を開催してメンバーの研究報告と情報交換をするとともに、編集コアメンバーが集まり成果出版に向けた編集作業を進める

  • 戦後における柳田民俗学の組織的再編に関する基礎的研究 1945~1949

    日本学術振興会  科学研究費助成事業

    研究期間:

    2017年04月
    -
    2020年03月
     

    鶴見 太郎

     概要を見る

    組織として見た時、戦後の柳田民俗学は、早い段階で再開している、一九四五年九月九日には、中断していた談話会「木曜会」の例会が復活し、弟子たちと民俗談義が交わされている。さらに一九四七年には六人社より、『日本民俗学のために』(全一〇巻)が刊行され、以後四年をかけて全巻が完成する。この論文集は柳田の古稀を祝う目的で一九四三年の段階で執筆陣の選定が行われており、各人から発表題目、枚数の概算など、細かな計画がなされていたものだったが、はからずも思想環境として柳田の民俗学の不易性を裏付けることになった。戦後の数年間とは、民俗学がひとつの学問領域として周知された時期でもある。一九四九年四月、「民間伝承の会」が日本民俗学会へと発展解消したことは、民俗学が専門的な学者集団の組織となったことを意味した。柳田は初代会長に就任したが、名称を変えるにあたって、それまで「民間伝承の会」が多く各地の郷土史家によって支えられてきた経緯を重視し、学会となることによって、そうしたかつての支持層を失うかもしれないとして、これに躊躇したことが紹介されている。1930年代、『木綿以前の事』に収められた論考の中で柳田は、民俗学の視点から俳諧の持つ教授機能を高く評価した。この主張には、民俗学もまたそこで生活する側の感覚を大切にすることを強調する側面があった。この文脈に沿うならば、民俗資料の扱いとは、本来、採集だけに止まらず、分析もまた各地で感覚を共有する郷土研究会に比重が置かれることを当然とした。戦後、「民間伝承の会」の学会化は、これら既存の郷土研究会の活動の自在性を減じさせるとともに、柳田民俗学そのものを縛ることとなった

  • 『民族』時代における柳田民俗学の組織化に関する基礎的研究

    日本学術振興会  科学研究費助成事業

    研究期間:

    2011年04月
    -
    2014年03月
     

    鶴見 太郎

     概要を見る

    創刊当初より、雑誌『民族』には二つの編集方針が併存していた。前者は地道に各地の郷土研究者から採集報告を募る柳田国男、後者は欧米の文化人類学の成果を紹介する岡正雄ら若手研究者によって代表された。柳田にとって危惧されたのは、細かな郷土研究の成果が文化人類学と同一視され、民俗学の分野が侵食される可能性があることだった。この大正時代末に胚胎された問題は、戦後、民俗学は文化人類学の一部となることで活性化するという石田英一郎の提案で再燃する

  • 『民族』時代における柳田民俗学の組織化に関する基礎的研究

    科学研究費助成事業(早稲田大学)  科学研究費助成事業(基盤研究(C))

    研究期間:

    2011年
    -
    2013年
     

    鶴見 太郎

     概要を見る

    創刊当初より、雑誌『民族』には二つの編集方針が併存していた。前者は地道に各地の郷土研究者から採集報告を募る柳田国男、後者は欧米の文化人類学の成果を紹介する岡正雄ら若手研究者によって代表された。柳田にとって危惧されたのは、細かな郷土研究の成果が文化人類学と同一視され、民俗学の分野が侵食される可能性があることだった。この大正時代末に胚胎された問題は、戦後、民俗学は文化人類学の一部となることで活性化するという石田英一郎の提案で再燃する。

  • 備中国新見荘における総合的復原研究

    科学研究費助成事業(早稲田大学)  科学研究費助成事業(基盤研究(B))

    研究期間:

    2010年
    -
    2013年
     

     概要を見る

    備中国新見荘は岡山県新見市の高梁川上流域に存在した東寺領の荘園で、東寺百合文書等、豊富な中世史料が残存するため、中世荘園を研究する宝庫である。
    今回、広大な荘域全体にわたって、共同研究による総合的な復原研究を実現することができた。その過程で、荘園調査全般に役立つGISソフト「多層荘園記録システム」の開発を進め、これを基盤にして、『中世荘園の環境・構造と地域社会』(勉誠出版、2014年)などにその成果をまとめることができた。

  • 『郷土研究』時代における柳田国男の地方研究者の組織化

    日本学術振興会  科学研究費助成事業

    研究期間:

    2008年
    -
    2010年
     

    鶴見 太郎

     概要を見る

    組織面から見た時、柳田国男の民俗学はしばしば、地方の郷土史家を従属的に扱い、そこから民俗資料を吸収して、独占的にそれらを分析する構造を持っていたと指摘を受けることが多い。しかしながら、同時代の資料、特に『郷土研究』並びに「橋浦泰雄関係文書」などを子細に、かつ長期的な視野のもとで検証すれば、柳田の研究体制とは、その土地々々に自生する郷土研究会の特質を尊重し、全国組織という体裁をとったとしても、それは在来の研究者・研究会を横から繋ぐ、という様式を旨とするものであり、必ずしもトップダウン型の組織運営が目指されたとは言えない。また、大正中期に『郷土研究』に投稿し、柳田と接触を持った郷土史家は、その後、継続的に柳田の主催する郷土・民俗学に関わる雑誌に投稿しており、すすんで長期にわたって柳田と交流を保とうとしたことが分かる。『郷土研究』とほぼ並行して運営された民俗談話会「郷土会」のメンバーが共通して国家主導のもとで郷土を捉えようとする地方改良運動に強い批判を抱いていたことを確認すれば、実証と経験的思考を徹底する柳田民俗学は、その特色を組織の域にまで拡大して援用し、その効果を挙げたといえよう

  • 「普通の人の哲学」と「知識人の思想」の葛藤をめぐる戦後思想史-鶴見和子文庫を開く

    日本学術振興会  科学研究費助成事業

    研究期間:

    2008年
    -
    2010年
     

    鵜飼 正樹, 杉本 星子, 高石 浩一, 松田 凡, 佐藤 知久, 鶴見 太郎, 松居 竜五, 遠藤 保子, 中谷 いずみ, 西川 祐子, 溝口 佳代, 猿山 隆子, 奈倉 京子, アダム ブロンソン

     概要を見る

    本研究では、比較社会学者・鶴見和子(1918~2006)の多方面にわたる業績を、「普通の人の哲学」と「知識人の思想」の葛藤と交流という枠組みから読解することによって、戦後思想史の中に位置づけ、さらに日本の戦後思想史をポスト占領状況という視界から再考した。各研究者は、京都文教大学図書館に「鶴見和子文庫」として所蔵されている鶴見和子の旧蔵書、草稿・フィールドノート・研究メモ・書簡などの未公開資料を渉猟し、鶴見の業績の現代的意義について考察を深めた。また、「鶴見和子文庫」の未公開資料を整理・分類・データベース化を進め、将来的な公開に向けての準備を整えた

  • 戦間期郷土研究の地方的展開

    日本学術振興会  科学研究費助成事業

    研究期間:

    2006年
    -
    2007年
     

    鶴見 太郎

     概要を見る

    1920年代から30年代初頭を中心に、柳田国男とその民俗学が構成した人脈を地方レベルで主として同時代の書簡を中心にその動態を考察した。その際、柳田の高弟にあたる民俗学者・橋浦泰雄が残した手紙類、書簡に依拠しながら、特に柳田が組織化を重点的に行った地域に着目して柳田民俗学におけるネットワーク形成の特色を抽出することをこころがけた。その結果、それらの地域の特色として、柳田・橋浦の双方から見て、信頼するに足る郷土史家が当該地において自主的な郷土研究の人脈を作っているか否かが判断基準となっていることが分った。ここで使う「信頼」とは、その郷土史家が同時代の政治から離れてあくまで学問として民俗学を捉えているかどうか、に大きな比重がある。橋浦自身は当該期、社会主義運動に関わっており、枢要の郷土史家はそのことを知りつつ、橋浦をあくまで民俗学者として遇しており、そのことは長期にわたる両者の交流からも判明する。柳田民俗学がこうした誠実かつ、同時代の政治に左右されない人材を擁していたことは、戦時下における経験を基礎とした稀有の思想環境に民俗学が位置づけられる礎石となった。以上の組織化に関する人的構成は、これまでの研究史で言われてきた「一将功成万骨枯」という柳田を頂点としたトップダウン型の研究体制とは一線を画し、それぞれの郷土研究が自律的に活動していたことを示す証左となるため、これまでの考えられてきた柳田民俗学の像を大幅に変える可能性を秘めている

  • 昭和十年代における郷土研究の体制化

    日本学術振興会  科学研究費助成事業

    研究期間:

    2004年
    -
    2005年
     

    鶴見 太郎

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    従来の研究においては看過され勝ちだった戦時下における郷土史家相互の連絡の導体的分析を踏まえた柳田民俗学の組織化をめぐって、以下の成果を得た。(1)柳田民俗学おける物証主義、経験主義は、戦時下にあってもそのまま組織方針として維持され、具体的にはその方針に叶う信頼できる人材がその土地にいるか否かが尺度となった。そしてひとたび関係が生じると、1930年代から戦中戦後にかけて極めて長い期間にわたる交流が続いた。(2)さらに信州松本など、重点的に組織化が進んだ幾つかの地域は、柳田と交流のある郷土史家を核とすることでその周辺地域に向けて第二次的ともいうべき組織化を行い、漸新的に柳田民俗学の浸透をはかった。(3)互いに遠隔地において核となった郷土史家は橋浦泰雄が編集長をつとめる『民間伝承』誌上でお互いに連絡しあったほか、柳田とは独立して互いに書簡による交流をはかり、情報交換を行った。以上の環境を柳田民俗学が整えたことは、戦時下において郷土研究が、経験的な思考を自由に駆使することのできる稀有の場所を提供することとなる。そのことを端的に示したのが、1943年から足掛け三年間企画された「柳田国男先生古稀記念事業」である。この事業に参画した人士を見ると、それぞれの思想を超えて、時局にかかわりなく自らの学風を維持した柳田民俗学への賛同という側面があったことが判明する。柳田民俗学が地方研究者を従属的立場に追いやり、「一将攻成万骨枯」という状況をもたらしたことについては、過去に多くの指摘があるが、同時代の資料から仔細に検討すれば、その様相は以上のような修正を要する可能性を含んでいるのである

  • 戦時下日本社会に於ける柳田民俗学の組織化に関する基礎的研究

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    「橋浦泰雄関係文書」(以下、「文書」と略す)を周到に分類、調査した上で、それ以外の同時代資料と照合させることで、戦時下日本社会の民俗学組織化の概要を再構成した。特に、「文書」を旧蔵していた橋浦が柳田国男の高弟として特に地方する民俗学の組織化に腐心したことから、その形成過程を跡づけることを中心にした。その結果、(1)昭和初年、画家としてプロレタリア芸術運動の指導者だった橋浦が弾圧によって次第に民俗学へ傾斜していく中で、彼の生活を援助する目的で有志が行った頻繁に行われた絵画頒布会が成功をおさめ、次第に地方でも彼の民俗・郷土をテーマとする画会が開催されるようになり、在地の郷土史家が挙ってその運営に参加することが、戦時下における柳田民俗学の組織化の重要な一端を担っていたことが判った(拙稿「柳田民俗学の組織化-橋浦泰雄の絵画頒布会に見る-」『人間学研究』第二号2000年)。(2)前項から見て、戦時下に整えられた柳田民俗学の体制とは、在地の民俗学者の積極的な支持が一部にあったことが判る。戦後、柳田民俗学は地方研究者から資料を吸収して、成果を独占したという批判がなされるが、本研究は、その嚆矢となった岡正雄による柳田批判の成立背景が昭和10年『民間伝承』編集方針への不満にあったことを「文書」から割り出し、その意味で体制としての柳田批判が、特定の時代条件に拘束されたものであることを示した(拙稿「柳田国男と『民間伝承の会』」『東北学』第二号2000年)。(3)以上の項目とは別個に、「文書」に収録されていた橋浦の日記、肉筆原稿、書簡類など、多くの未公刊資料をもとに、彼の評伝をまとめた(拙著『橋浦泰雄伝-柳田学の大いなる伴走者-』晶文社2000年)。執筆にあたっては地方研究者と橋浦の交流を重視し、組織家としての橋浦の力量を高く評価する方針をとった

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現在担当している科目

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特別研究期間制度(学内資金)

  • 大正期郷土研究の形成過程に関する研究

    2013年04月
    -
    2014年04月

    イギリス  

他学部・他研究科等兼任情報

  • 文学学術院   大学院文学研究科

  • 附属機関・学校   グローバルエデュケーションセンター

特定課題制度(学内資金)

  • 1950年代後半における柳田民俗学の組織化ー「橋浦泰雄関係文書」を中心にー

    2023年  

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     柳田国男の民俗学がどのようにして組織的な基盤を整えるに到ったか、戦後の動向について1950年代後半を射程に資料収集・分析を行った。その際、戦前から柳田民俗学の地方に対する影響力を持った民俗学者・橋浦泰雄の残した資料を参照点のひとつにした。同資料に含まれている、地方の郷土史家からの来信は、依然として柳田国男の民俗学が広範囲にわたる地方に対し、「民間伝承の会」設立時と変わらない一定の影響力を保持していたことを伝えている。 一方、当該の時代とは、1)すでにこれに先行して「民間伝承の会」が日本民俗学会として発展的解消を行い、1950年の八学連合会、翌年の九学連合会に参画するなど、ひとつの学術領域として学界から認知されており、その意味で従来のアマチュア的な要素が次第に薄らいでいた時期であり、2)民俗学(特に柳田によって唱導された民俗学)が示す調査の在り方、研究方法上の問題点について、社会学・文化人類学の側から批判が行われた時期に符合しており、その意味では学界を中心に民俗学内部でも調査地における聞き取りを重視する民俗採集に疑問が生じていた。この場合、2)については、柳田民俗学そのものへの方法上の批判が含まれている点で、戦前・戦中と比較すると、明らかにそれまで顕著ではなかった現象といえる。以上から当該期の民俗学は、学会化されたことにより、民俗事象を把握する上でより洗練された方法を模索する学界と、地方を中心に従来の柳田の民俗学が影を落としている状況が互いに意図せざる形で併存している様相が浮かび上がる。 また、橋浦泰雄と柳田国男の緊密は関係性を示す事例のひとつとして、『明治大正史世相篇』を執筆していた当時、柳田が急遽、橋浦に連絡して彼に労働に関する一章を分担してもらった経緯について考証を加え、同書の叙述と橋浦が担当した部分の視点形成、関心の置き方に若干の異同があることについてまとめ、発表した(「研究成果発表実績」の欄を参照)。

  • 良質な座談の形成に関する基礎的研究―1920,30年代の大衆誌を中心に―

    2018年  

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     近代日本で「座談」が果たした役割について、特に大正から昭和初期の総合雑誌を中心に分析をすすめた。形式として雑誌に「座談」を持ち込んだ人物が菊池寛の『文藝春秋』が主たる検討対象となった。その際、菊池が持ち込んだ判断基準として、「この人物が加われば、座談が面白くなる、深みがでる」という事項を重視した。「座談」の企画を組んだ段階からすでにその目算が菊池の中にあり、細やかな意見の相違を含みながら、それが流れを構成していることに気を配った形跡がある。また、敢えて結論を出さず、それに近い着地点を示唆するに止めて座談会を終えるという事例も散見され、意識的に菊池が取り入れた「座談」の技法であると推測される。

  • 柳田民俗学の組織化に関する通史的研究

    2016年  

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    柳田国男が津田左右吉の歴史学をどのように捉えたのか、大正期を中心に文献上の検証を行った。成城大学にある柳田旧蔵の津田の著作をすべて当たり、傍線の引き方、余白への書入れなどを記録し、そこに見られる傾向を考察した。結果、古代中国における神仙思想について、柳田は並々ならぬ関心を持っており、役小角の事跡を重ね合わせながら、同種の思想が日本に伝来して民間に根付いた過程を検証する際、津田の業績を援用しようと跡があることが分かった。以上の点は今年(2016年)1月の国際シンポジウムで発表を行った。 これ以外に、戦後の日本語の在り方について、柳田は政策面から有識者として積極的に関わり、生活の理法に従った論理的な日本語を標榜した点を著作から抽出し、同時代の思潮と対応させた。戦中における時局用語の氾濫は、日本人の言語生活から論理的な思考を奪ったと考える柳田にとって、これは戦後における切実な課題であること検証した。 

  • 柳田民俗学の組織化に関する通史的研究

    2015年  

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    柳田国男の民俗学が、「民俗」「郷土」を鍵言葉とし、戦時下急速に組織化されていった背景には、徹底した物証・経験主義に基づく柳田の方法意識に対する賛同が地方の郷土史家たちの間にあったことが大きい。その動向は、柳田によって1930年代に著されたいくつかの「国語」論に明快に表されている。柳田はこの中で、日本語を考える上で、漢字の多用がもたらした意思疎通をめぐる混乱を指摘し、明晰さと旨とする言葉遣いを標榜した。時局用語という形で漢字が氾濫する中にあって、こうした柳田の姿勢に賛同する傾向が、広く地方の郷土史家にあったことが、柳田の民俗学を背後から支えた。

  • 柳田民俗学の組織化に関する通史的研究

    2014年  

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     大正期、自身の民俗学の組織化に乗り出した柳田国男の仕事は、各地の郷土史家と連絡を取り合い、民俗事象・語彙の収集、登録に重点が置かれるようになる。その基盤が整うにつれて、柳田の関心は、それらの背後にある論理、それも生活の中から紡ぎ出される論理に比重が置かれ始める。この思想は、戦時下に氾濫した時局用語によって思考の統一をはかろうとする動静とは明確に異なるものであり、組織化の際にも重要な了解事項のひとつとなった。戦時中の柳田民俗学が組織と研究の両面にわたって、堅実な手法を維持できた理由として、その両者が緊密に結び付いていたことが挙げられる。During the Taisho period, the work of Kunio Yanagida who had embarked on his organization of folklore, kept in touch with the local historians of various regions, collected folk events and vocabulary, the process which led him to place his emphasis on the register. As the foundation was being completed, Yanagida's interest led him to place the relative importance on the logic behind the folklore he had collected, the logic that had been spun by life itself. Being clearly different from the movements that had tried to unify the thinking by the terms of the current affairs that inundated the war years, this idea became one of the important items of understanding for organizing folklore. During the war years, Yanagida folklore maintained its solid techniques for both organization and research. It is the intimate bond between his organization and research that has been cited as the reason why such techniques came to be maintained.

  • 日本民俗学の組織化に関する基礎的研究―「橋浦泰雄関係文書」を中心に―

    2003年  

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     一九三〇年代中葉にはじまり、敗戦直後まで続く柳田国男の民俗学の組織化は、後の時代からしばしば、「一将功成万骨枯」(岡正雄)と評されてきた。 しかしこの言葉が一人歩きした結果、当該時期における丹念な資料考証がなされることなく、この位置付けが定着した観がある。本研究は、戦時下の「民間伝承の会」事務局を担った橋浦泰雄(1888~1979)が遺した資料を仔細に検討することによって、こうした位置付けに対して下記に列挙した修正を迫るものである。 (1)一九三五年八月の「民間伝承の会」設立時にあって、その組織方針については各郷土に既に自生していた郷土研究会を尊重し、それらを横から緩やかに繋ぐという案が採用された。そして一部に合った地方支部を設置して、中央からの強い指導下に置こういう案は排された。戦時下における各地の郷土研究者から「民間伝承の会」に宛てられた採集報告を含む夥しい書簡は、そうした信頼関係に基づくものである。 (2)この方法に基づく組織は、戦時下の言論・思想統制下にあって事実と経験を基調とする柳田民俗学の学風を守る、という点で政治的な立場を超えた稀有のネットワークを保つこととなる。一九四四年に計画された柳田の「古希記念事業」は、そこに集った人員の多彩さにおいて、その集大成ともいうべき位置を占める。 (3)しかしながら、こうした人的ネットワークは敗戦にともなう思想統制の消失という事態によって、単に柳田の学風と方法を守るという部分のみが突出していくこととなった結果、半ば個人崇拝ともいうべき現象が生まれる。したがって先行研究が強調する柳田民俗学の「悪しき」体制化は、むしろ戦後にある。

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