2024/05/10 更新

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カワセ タケオ
川瀬 武夫
所属
文学学術院
職名
名誉教授
学位
文学修士 ( 東京大学 )
(BLANK)

経歴

  • 1996年
    -
     

    早稲田大学教授

  • 1991年
    -
    1996年

    早稲田大学助教授

  • 1988年
    -
    1991年

    早稲田大学専任講師

  • 1985年
    -
    1988年

    早稲田大学助手

学歴

  •  
    -
    1985年

    東京大学   人文科学研究科   仏語・仏文学  

  •  
    -
    1975年

    早稲田大学   第一文学部   フランス文学  

所属学協会

  •  
     
     

    日本フランス語フランス文学会

研究キーワード

  • 仏語・仏文学

 

論文

  • 大正期のネクロフィリア−萩原朔太郎とエドガー・ポー

    川瀬武夫

    比較文学年誌/早稲田大学比較文学研究室   ( 44 ) 18 - 38  2008年03月

  • エマニュエル・デ・ゼサールの役割−マラルメ初期詩篇註解(3)

    川瀬武夫

    文学研究科紀要/早稲田大学大学院文学研究科   52 ( 2 ) 71 - 85  2007年02月

  • ルイス/ヴァレリー/ジッド 三声の往復書簡

    川瀬武夫

    現代詩手帖   48 ( 10 ) 66 - 81  2005年10月  [査読有り]

  • 西條八十とアルチュール・ランボー

    川瀬武夫

    西條八十全集 第十五巻月報     3 - 6  2004年12月

  • マラルメという謎

    川瀬武夫

    ちくま/筑摩書房   ( 402 )  2004年10月

  • ボヌフォワと詩人たち

    川瀬武夫

    同時代/黒の会・舷燈社   3 ( 14 ) 60 - 67  2003年06月

  • 墓掘り人夫としての詩人−マラルメ初期詩篇註解(2)

    川瀬武夫

    Etudes francaises 早稲田フランス語フランス文学論集/早稲田大学文学部フランス文学研究室   ( 10 ) 122 - 140  2003年02月

  • 《苦悩》について−マラルメ初期詩篇註解(1)

    川瀬武夫

    文学研究科紀要/早稲田大学大学院文学研究科   47 ( 2 ) 3 - 15  2002年02月

  • 亡霊の調伏—マラルメ《弔いの乾杯》註解のための予備的なノート

    川瀬武夫

    文学研究科紀要/早稲田大学大学院文学研究科   45 ( 2 ) 29 - 44  2000年02月

  • 広場と花火—マラルメと都市の祝祭をめぐる七つの変奏

    川瀬武夫

    現代詩手帖/思潮社   42 ( 6 ) 50 - 57  1999年05月

  • 〈危機〉以前の危機−マラルメ《窓》をめぐって

    川瀬武夫

    文学研究科紀要/早稲田大学大学院文学研究科   41 ( 2 ) 33 - 45  1996年02月

  • 礼節と韜晦−書簡におけるマラルメ

    川瀬武夫

    早稲田文学/早稲田文学会   1995年10月号  1995年10月

  • 祝祭と現在−マラルメの1870年代を読むために

    川瀬武夫

    Etudes francaises 早稲田フランス語フランス文学論集   ( 2 ) 45 - 63  1995年02月

  • マラルメとアナーキズム

    川瀬武夫

    ユリイカ   9月臨時増刊 ( 128 ) 153  1986年09月

  • アドルフ・レッテのマラルメ攻撃−マラルメ同時代批評史の試み(1)

    川瀬武夫

    ヨーロッパ文学研究   ( 33 ) 161 - 131  1985年02月

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書籍等出版物

  • マラルメ年譜

    川瀬武夫

    マラルメ全集Ⅰ—詩・イジチュール/筑摩書房  2010年05月 ISBN: 9784480790019

  • 書簡分担訳

    川瀬武夫

    マラルメ全集Ⅴ—書簡Ⅱ/筑摩書房  2001年04月

  • 隠蔽されたペニュルティエーム—マラルメとブルトン

    川瀬武夫

    シュルレアリスムの射程 言語・無意識・複数性(鈴木雅雄編)/せりか書房  1998年10月

  • 分担訳・解題

    川瀬武夫

    マラルメ全集Ⅲ—言語・書物・最新流行/筑摩書房  1998年03月

  • 黒い瞳のエロス−ベル・エポックの三姉妹(ドミニク・ボナ著、共訳)

    川瀬武夫

    筑摩書房  1993年10月

  • 分担訳

    川瀬武夫

    マラルメ全集Ⅳ—書簡Ⅰ/筑摩書房  1991年05月

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共同研究・競争的資金等の研究課題

  • ステファヌ・マラルメと同時代のジャーナリズムとの関係についての研究

    日本学術振興会  科学研究費助成事業

    研究期間:

    2001年
    -
    2002年
     

    川瀬 武夫

     概要を見る

    1.マラルメと同時代のジャーナリズムとの関係におけるアンケート回答の位置づけ:マラルメのテクストのうちで従来周縁的なものとされてきたアンケート回答の意義を確認したうえで、この種の短いテクストの独特の性格を、一方ではインタヴューとの対比で、他方では詩作品や本格的な論説文との対比で明確に規定した。2.マラルメのアンケート回答のテクスト研究:マラルメのアンケート回答のテクストについては、そのプレオリジナルの蒐集に鋭意つとめてきたが、ゴードン・ミランやベルトラン・マルシャルによる最新の刊本によって、その底本の確定にかんしては、残念ながら、もはや新たな寄与の余地がないことが明らかになった。ただ、アンケート回答というテクストの固有な性格である「間テクスト性」をよりいっそう浮き彫りにするという重要な作業はまだ残されているので、現在、その存在が判明している30余篇のテクストのひとつひとつについて、追加すべき情報や二次的データを補足していった。3.<偶然性>の問題:マラルメのアンケート回答は1880年代後半以降、つまり詩人の<後期>に集中している。この時期の彼の文筆活動の全体をあらためて概観してみると、他に時評の連載、講演、インタヴュー、さらにいわゆる「折りふしの詩句」の制作といった、これまでに見られなかったジャンルにおいて活発な営為があったことが分かる。マラルメは<絶対>をめざして生涯<偶然性>と戦いつづけた詩人とされてきたが、ここには<偶然性>との新たな対処の仕方、すなわち<偶然性>との和解とでも呼ぶべき事態が起きているように推測される

  • マラルメ・テクストデータベースのネットワーク化とその利用のための研究

    日本学術振興会  科学研究費助成事業

    研究期間:

    1997年
    -
    1998年
     

    立仙 順朗, 兼子 正勝, 竹内 信夫, 井原 鉄雄, 松本 雅弘, 川瀬 武夫

     概要を見る

    本研究の目的は、マラルメの主要作品の電子化テクスト(MallarmeText Database, Mal TDB)をW W Wサーヴァに搭載し研究者の利用に供することであった。共用されるのは、電子されたマラルメの著作のうちもっとも重要なDivagations(1年刊)の全テクスト、およびそのプレオリジナルである。同一テクストがMalTDBの原本であるOCP形式のテクストファイル形式とW W Wプラウザーで閲読できるHTML形式の二様式で提供される。サーヴァの設計・設置は、専門業者(高岳製作所)に依頼した。ハードウェアとしてはUNIX-PC(MPU:PentiumPRO 200 MHz)を用い、サーヴァ管理ソフトとしては日本語Solares2.5を用いた。サーヴァの設置は平成10年5月に行われ、直ちにDivagationsのテクストの試験共用を開始し、一ヶ月後には東大アーカイヴとリンクさせた。その結果、国外からのアクセスも含めてアクセス件数は大幅に増大した。アクセスはログ・ファイルとして記録され、管理用のデータとなっている。試験供用と並行して他のテクストファイルの校正作業を行った。当初計画のDivagations関連のプレオリジナルテクストの校正を終え、校正シートに基づき校正の結果をファイルに反映させた

  • テクストデータベースに基づく『マラルメ書簡集』の総合的研究

    日本学術振興会  科学研究費助成事業

    研究期間:

    1993年
    -
    1994年
     

    井原 鉄雄, 松本 雅弘, 川瀬 武夫, 兼子 正勝, 竹内 信夫, 立仙 順朗

     概要を見る

    本研究は、マラルメ(St.Mallarme1842-1898)の「書簡集」テクストデータベースを基本コーパスとして、その中に含まれる情報をテーマ系に従って分析し、整理することを目標とした。その際、研究分担者がそれぞれ、フランス文壇、火曜会、人文科学、家族、同時代芸術、ジャーナリズムというテーマ系を分担する形で作業を進めた。各テーマ系に関する研究成果は、今後、研究論文やデータベースの公開、等によって行われる。また、筑摩書房から刊行中の「マラルメ全集」の翻訳、解題執筆の基礎資料として用いられた。発表された研究成果は「11.研究発表」、に記すが、それ以外の成果として次のようなものがある。ほとんどすべてが、マラルメ・テクストデータベース(MalTDB)、マラルメ情報データベース(MalRDB)に関係する成果である。1)平成5年度中にガリマ-ル書店との「書簡集」TDBの公開に関する契約が整い、使用条件が確定したので、それを既に公開しているMalTDBに統合した。その結果、フロッピ-ディスクなどへのコピーが可能になった。現在マラルメ研究会を通じて研究者に提供されている。2)「書簡集」脚注の入力が、MalTDBを拡充するものとして計画され、平成7年3月の段階で、予定の約1/2の入力が完了している。3)「書簡集」解読の参照軸となるべき年譜がデータベース化された。4)「書簡集」に含まれるマラルメの交友関係をまとめた「火曜会データベース」の一部が完成。5)ジャーナリズムに関するデータがまとめられた。6)「古代の神々」の英語オリジナルとマラルメのフランス語テクストとの比較対照が終了。現在そのデータベース化作業が進行中。7)マラルメ書誌データベース(MalBlB)の更新が行われ、1987年以後のデータが追加された

  • テクスト解析に基づくマラルメ散文作品の形態生成と意味構造に関する総合的研究

    日本学術振興会  科学研究費助成事業

    研究期間:

    1989年
    -
    1990年
     

    松室 三郎, 川瀬 武夫, 兼子 正勝, 竹内 信夫, 井原 鉄雄

     概要を見る

    平成元年度の研究成果に基づき本年度に予定した研究計画を,ほぼ達成し得たと考えられる。すなわち,前年度に完成したマラルメ研究文献の書誌デ-タベ-スを活用して当該分野における今日までの世界の研究の到達水準との有機的関連を保ちつつ,研究者は各自の役割分担に従ってそれぞれの研究対象たる散文作品のテクストをその中心的語彙・文体の特徴・主題の変遷など,あらゆる角度から解析し,幾つかの新しい知見を得,これを以下に述べる内容の「論文集」としてまとめることとした。1)散文詩から「批評詩」への変容とその具体例若干(松室),2)散文詩テクスト表層における時間的変移の具体相(井原),3)「イジチュ-ル」「最新流行」におけるテクストの構造とその思想(竹内),4)マラルメ後期散文における表層構造の差異が示す意味の分析(兼子),5)各種アンケ-トに対するマラルメの回答に見られる文体的特徴とマラルメの社会思想との連関の具体的分析(川瀬)。この記述をおこなうための基礎的資料として,前年度の作業を承けてマラルメ書誌デ-タベ-スの検索システムが本年度完成し,また,マラルメ全書簡の検索システムも完成を見た。これらの基礎資料は単にわれわれの研究の有効な道具であるにとどまらず,1991年4月からひろく研究者に公開提供する所存である(詳しくは裏面に記載した竹内・兼子論文を参照されたい)。なお,マラルメのテクストの意味を更に深く了解するためには,次年度以降に実施さるべき「マラルメのコスモポリティスム」追究が不可欠であろうと考える

  • ステファヌ・マラルメの初期詩篇についての註解研究

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    フランス象徴派の詩人ステファヌ・マラルメ(1842-1898)が1862年から1865年にかけて制作したいわゆる「初期詩篇」にかんして、各詩篇のプレオリジナル(初出形態)、ヴァリアント(異文)、マニュスクリ(手稿)などの文献学的情報を整理・記述し、さらにフランス本国での資料調査に基づき、各種学術雑誌等に発表された最新研究のビブリオグラフィを作成し、それらをデータベース化した。以上の基礎作業を終えたあとで、各詩篇についての予備的な読解作業に着手したところだが、現時点で明らかになったのは、シャルル・ボードレールやテオドール・ド・バンヴィルといった先行する詩人たちの影響下に、「理想」と「現実」という二元論的な枠組みから出発したマラルメの詩作が、すでに1864年春の段階において「書くことの不可能性」というある種の「危機」に逢着していたという点である。一般にマラルメの形而上学的危機は1866年あるいは翌67年あたりから「虚無」との出会いを契機に始まったとされているが、この1864年の「危機」は来るべき本格的な危機を準備した重要な前段階と解釈することができるだろう。マラルメの初期詩篇をそうした詩人の内的ドラマの進展の過程を刻々と表現した相互関連性の高いテクスト群として把握することのメリットは大きいはずだ。このことによってこれらの作品をたんに詩人の若書きとしてでなく、独自の存在価値を有する一連のテクスト総体として読解する可能性が開かれるからである。詩を書くという行為がそのまま人間存在のドラマとして成立しうるという発見が、さらにマラルメをして「エロディアード」および「半獣神」の演劇の試みへと導いていったとする仮説を今後は検証していく予定である

 

特別研究期間制度(学内資金)

  • ステファヌ・マラルメの初期詩篇についての註釈的研究

    2015年04月
    -
    2016年03月

    フランス   フランス国立図書館

  • フランス近代詩研究

    2005年03月
    -
    2006年03月

    フランス   パリ第4大学

特定課題制度(学内資金)

  • ステファヌ・マラルメの初期詩篇についての註解研究

    2005年  

     概要を見る

    2005年度の特定課題研究は、特別研究期間制度適用に伴うフランス(パリ)での在外研究と重ねて実施されることとなったので、地の利を生かす形で、ステファヌ・マラルメの初期詩篇とフランスの首都とのかかわりに焦点をあてることにした。 マラルメはパリ生まれであったが、14歳のとき中級官吏であった父親の任地の関係でサンスのリセに転校したから、そのときから1862-1863年の1年間のロンドン滞在を経て、1871年にパリ・コミューン崩壊後の首都へリセ・コンドルセの英語教師となって舞い戻るにいたるまで、詩人とパリとの関係はしばらく途絶えていたかに見えなくもない。 しかしこのかんマラルメとパリとの紐帯を保ちつづけるものがあったとすれば、それは彼が自分のまわりに張り巡らせた人間関係のネットワークであった。まず、サンスのリセに国語教員として赴任してきた新進の詩人エマニュエル・デ・ゼサールが若きマラルメを地方都市の孤独から救い出す。そして、このデ・ゼサールの紹介によって、アンリ・カザリス、カチュル・マンデス、ヴィリエ・ド・リラダンといったパリに住む気鋭の文学者たちと実り多い交友関係を結んでいくのである。 さらにデ・ゼサールは、マラルメをこれに劣らぬ重要な交遊サークルのなかに導き入れることになる。のちにニナ・ド・ヴィヤールの名で知られるようになる個性的な女性とその取り巻き連中が作り上げていた独特な世界である(デ・ゼサールはニナに求愛して拒絶されている)。マラルメの最初に印刷された詩篇群は、じつはこの交遊圏から直接生まれたものであり、さらに1870年代に入ってからも、マラルメは成長したニナの主宰する文学サロンに出入りすることによって、シャルル・クロやエドゥアール・マネらと知り合いになる(マネはこの時期有名なニナの肖像画を描く)。パリに戻ったマラルメが、独自のジャーナリズム活動を通じてフランスの首都の祝祭的な「現在」に目を開かされたこととニナの現代的なサロンの存在は決して無関係ではなかったはずである。 従来ほとんど注目されてこなかったマラルメとニナ・ド・ヴィヤールのとの関係は、モード雑誌「最新流行」刊行の経緯も含めて、きわめて重要なものであることが判明している。パリでの資料調査の成果も踏まえて、今後もこのテーマを追求していく予定である。 

  • ステファヌ・マラルメの初期詩篇についての註解研究

    2003年  

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     本年度の特定課題研究は同研究課題の科研費申請のための予備的研究として位置づけられた。 最新のテクスト研究の成果に基づき(とくにベルトラン・マルシャル編纂のプレイアッド版全集新版に依拠するところが多かった)、マラルメの初期詩篇にかんする文献学的データの整備につとめるとともに、欧米の学術雑誌を中心としてこの分野での新しい研究論文を蒐集し、その書誌的情報をデータベース化した。 一方で、初期マラルメの詩人的形成に大きな影響を与えたと推測される先行詩人たち、すなわちヴィクトル・ユゴー、シャルル・ボードレール、テオドール・ド・バンヴィルらのテクストにも幅広く目を配り、1860年代前半の時点におけるマラルメの詩的地平の確定に力を注いだ。60年代後半のいわゆる「危機」の時期をはさんで、マラルメが変わった部分と変わらなかった部分を丁寧に腑分けしていく作業は、今後のマラルメ研究にとって重大な意味を持つと考えられる。 科研費が獲得されたあかつきには、本年度の予備的調査・研究を土台にして、本課題についての総合的展開が可能となるはずである。

  • ステファヌ・マラルメの言語思想に関する研究

    2000年  

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     「ステファヌ・マラルメの言語思想に関する研究」と銘打った2000年度の特定課題研究は、主として詩人の1860年代後半の言語学的探求に焦点をあて、いわゆるマラルメの「形而上学的危機」のなかで、彼の言語にまつわる問題意識が、どのような深まりと射程を持つに至ったか、そしてその後の彼の詩的営為にいかなる影響を与えたかを検証してみた。 1860年代にマラルメが逢着した〈危機〉の内実とは、キリスト教の〈神〉の不在の発見と、そこから帰結する人間存在の虚無性の認識であったといっていい。そのような絶望感から脱出するためにマラルメがとりあえず手にしたアリアドネーの糸は、たんなる物質的存在にすぎない人間がそなえている固有の言語能力への着目であった。人間が現実世界を超越しうる唯一の契機としての「虚構fiction」を生み出すちからはまさにこの言語に由来する能力であり、〈神〉概念がそうした人間による最大の「虚構」である以上、言語こそは人間の「神性divinit&#233;」を保証する根拠に他ならないと彼は考えたのである。 この時期マラルメは哲学的自殺をテーマにした難解なコント「イジチュール」を書くかたわら、言語学の学位論文を提出するための本格的な準備作業に入っている。結局、この学位論文はついに完成しなかったものの、現在残されている断片的なメモを読むかぎり、彼の言語思想がヘーゲル哲学の思弁的な枠組みにとどまることなく、当時勃興期にあった印欧比較言語学の実証的な成果に多くを依拠していたことは明らかである。彼が同時代の言語学研究に何を見てとっていたのかを正確に確定するにはさらに粘り強い調査を必要とするが、少なくとも1877年に刊行されたマラルメ唯一の英語学関係の著作『英単語』が1870年代初頭までには着想され、執筆の準備が始められていたことだけはまちがいない。従来、リセの英語教師であったマラルメの小遣い稼ぎの仕事としか見なされてこなかった『英単語』を、以上のような彼の言語学的探求の必然的な帰結と位置づけ、その意義を深く理解することは今後のマラルメ研究の重要な課題となるであろう。 なお、今年度は筆者がその訳出書簡の選定作業から参与していた『マラルメ全集Ⅴ・書簡Ⅱ』(筑摩書房)の最終校正にも忙殺された。本巻は筆者による「凡例」および各年の「扉年譜」を付して、2001年4月にようやく刊行の運びとなった。

  • マラルメ『ディヴァガシオン』の研究

    1999年  

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     「マラルメ『ディヴァガシオン』の研究」と銘打った1999年度の特定課題研究は、詩人の死の1年前に彼の散文作品の集大成として刊行された『ディヴァガシオン』の構成原理をいかにして把握するかという問題に焦点をあてた。「地上世界のオルフェウス的解明」と定義されるマラルメの唯一絶対の〈書物〉の夢想は彼の生涯の文学的営為を根底から規定するものだが、詩人が晩年になって刊行した(あるいは、刊行しようとした)3冊の著作、すなわち散文集『ディヴァガシオン』、没後刊行の韻文集『ポエジー』、および従来のジャンル概念から大幅に逸脱した破天荒な形式の『賽の一振り』(これは結局マラルメの意図通りには刊行されなかった)が、彼の〈書物〉の夢想のなかでどのような位置を占めているのかを問うことは、マラルメ研究におけるきわめて重要な課題であることは論をまたない。 とりわけ、60年代、70年代の散文詩から、80年代の演劇論を経て、90年代の群衆論、絵画論、詩論、書物論までを収めた『ディヴァガシオン』は、何の脈絡もないテクスト群がたまたま1冊の書物として取りまとめられただけにすぎないように見えるが、初出のプレオリジナルのテクストと詳細に照合してみると、マラルメがこれらを収録するにあたって、徹底した書き直しと、ほとんどコラージュと呼んでいいような大幅な削除・組み替えを施していることが判明する。この詩人における明白な構成意識は、『ディヴァガシオン』が反=書物ないしは偽=書物として成立したのではなく、やはりマラルメの〈書物〉の問題圏のなかで生み出された著作であることをあかし立てているとともに、その〈書物〉概念の複雑にして逆説的な様態を十分に窺わせるに足るものだろう。 このように極端にレヴェルも種類も異なるテクストの混在を許している『ディヴァガシオン』という特異な〈容器〉の構成原理がどこにあるのかを突きとめるには、さらに踏み込んだ考察を必要とするだろうが、少なくともこの著作がマラルメの〈書物〉をめぐる深遠な形而上学の具体的なエクリチュール実践のひとつであったことはもはや疑いようもない。

  • フランス象徴主義についての研究

    1998年  

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    「フランス象徴主義についての研究」と銘打った本年度の特定課題研究は、一般に象徴派と呼ばれる、1880年代後半にフランスの詩壇に台頭した詩的世代とステファヌ・マラルメの関係に焦点を絞ってみた。マラルメが自宅のアパルトマンで開いていた「火曜会」という文学サロンには、象徴派世代の多くの詩人たちが常連として押し掛けたし、文壇ジャーナリズムとの対応の場面でも、彼は新しい世代の庇護者としてのポーズを終始くずしていない。また一方で、若い詩人たちもことあるごとにマラルメを象徴派の「総師」として担ぎ出す戦略を意識的にとっていたふしがある。しかし、詩というものの本質をめぐる考察において、マラルメと象徴派グループとのあいだに大きな裂け目があったことも否定できない。象徴派の最も意義深い改革とされる自由詩句の運動に対して、マラルメはあくまでも距離をとりつづけ、その存在をきわめて限定的にしか容認していないのだ。 マラルメは同時代の社会的・文化的な虚無を「空位時代」という表現によって名指したが、自由詩句という詩法上の変革も彼にとってはそうした「空位時代」の不安な徴候にすぎない。というかむしろ、象徴派というエコールの出現がマラルメの文明論的な危機意識をはっきり目覚めさせたと言うべきであるかもしれない。詩が「自由」の名の下にあくまでも個人的な次元での表現にとどまり、文明社会の集団的な価値の形成に参与することを放棄している状態をマラルメはあえて「危機」と呼んだのである。マラルメの晩年の「書物」の構想は、その意味において、すぐれて反象徴主義的な企てであったと考えてよいだろう。「個人」であることを脱却した非人称的なエクリチュールによって、宇宙の総体を一冊の書物のうちに純粋に定着することをめざしたマラルメの途方もない野心は、ついに実を結ぶことなく終わったが、そこへと至るマラルメの思考の営為は、同時期のフランス象徴主義運動の流れとの対比によって、いっそう鮮明に浮き彫りにされるはずである。 なお本研究によって得られた知見の一端は、「現代詩手帖」1999年5月号(特集:マラルメと近代)に掲載された論文「広場と花火-マラルメと都市の祝祭をめぐる七つの変奏」にとりあえず盛り込むことができた。

  • マラルメと同時代の美術についての研究

    1997年  

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    「マラルメと同時代の美術についての研究」と銘打った本年度の特定課題研究は、主として1870年代の詩人の評論活動における、同時代美術に注がれた眼差しの意義を明らかにすることをめざした。1871年のパリ・コミューン崩壊直後に上京したマラルメは、それまでの高踏的な詩人としての孤立した営為の枠を越えて、旺盛なジャーナリスム活動を展開するようになる。そこで彼が直面したテーマは、都市文明のなかでの芸術の可能性にかかわるものだった。ロンドン博覧会を取材したルポルタージュでは、産業革命以降の社会における装飾芸術の将来が展望され、またマネの出品作のサロン落選を契機に書かれたマネ論は、群衆と芸術作品との新しい関係を考察している。従来の「虚無」と「絶対」の詩人といった紋切り型のマラルメ像は、こうした1870年代の彼の活動の再評価によって、大きな修正を余儀なくされるであろう。ちなみに、彼のマネ論は、この画家の試みをフランス印象派との関連のうえではじめて正当に位置づけたものであり、19世紀美術批評史においてもきわめて重要な地位を占めうるものである。かかるマラルメの透徹した同時代美術への洞察があればこそ、1880年代以降の象徴主義絵画をめぐる活発な議論が、まさに詩人の主宰する「火曜会」というサロンを舞台に展開されることになるわけだ。 本研究で得られた知見の一部は、本年3月に筑摩書房より刊行された『マラルメ全集Ⅲ』(「インド説話集」「散文さまざま」の章に収められたテクストの翻訳、解題、註解を担当)の最終校正段階で生かすことができた。また1870年代に発表されたマラルメの散文詩「類推の魔」の読解を中心テーマとした論文「隠蔽されたペニュルティエーム--マラルメとブルトン」が、せりか書房より刊行されたシュルレアリスム論集『シュルレアリスムの射程』(鈴木雅雄編)のなかに収録された。

  • マラルメ書簡の研究-その知的交友圏の形成と展開

    1996年  

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     「マラルメ書簡の研究-その知的交友圏の形成と展開」と銘打った本年度の特定課題研究は、一般に「書かない詩人」とされてきたステファヌ・マラルメ(1842-1898)が思いのほかに大量に残している書簡テクストの存在に注目して、手紙を書くという行為が彼の詩的営為において果たしていた役割を吟味し、同時にこれらの書簡の資料的意義の評価をおこなうことをめざした。本研究の過程で得られた知見を以下に箇条書きで述べてみる。 (1)マラルメ書簡が書かれた1862年から1898年までの年度毎に対信者別リストを作成しながら、各時期の書簡の特徴を把握するように努めた。 (2)その結果、マラルメの詩人としての経歴の前半期(1862-1880)に書かれた書簡はおのれの文学的信条を身近な友人に吐露した長文の「文学書簡」が重要な位置を占めるのに対し、詩壇の名士となった後半期においては、献本に対する簡潔な礼状を中心とする社交儀礼的な色彩が強くなっていくことが判明した。 (3)マラルメがパリの自宅で開いていた有名な文学サロン「火曜会」の実体は、これら晩年の書簡の検討を通じてはじめて明らかになる。この時期のマラルメの知的交友圏のめざましい拡大は、「火曜会」が師を崇拝する一握りの弟子による秘教的な結社ではなく、同時代の前衛的芸術運動の主要な担い手たちを結集した類例のないサロンであったことを示している。この「火曜会」を舞台とした活発な文学・芸術思想の交流こそは、十九世紀末フランス文学研究の最も魅力的なテーマのひとつとなるであろう。 (4)ただこの時期マラルメは対信者の氏名と住所を定型四行詩に織り込んだいわゆる「アドレス詩」の制作に熱中しており、その意味では、社交的な挨拶にしか見えない短い手紙にも、マラルメが書くという行為に託した秘かな意図が見てとれる。「地上世界のオルフェウス的解明」と規定される、マラルメのついに実現されなかった壮大な<書物 Livre>の夢の「陰画」が、じつはこれら晩年のおびただしい量の書簡群であったといえなくもない。 (5)マラルメが同輩や年下の文学者たちから送られてきた献本に対して書いた礼状には、彼の文学的な趣味や立場についての「本音」がしばしば語られており、生前に公刊された著作からは窺いしれない詩人の批評眼を垣間見ることができる。 本研究の成果は、現在鋭意編集・翻訳作業が進行中の『マラルメ全集V・書簡II』(筑摩書房、1998年刊行予定)において有益に活用されることになる。

  • マラルメの〈火曜会〉についての研究

    1995年  

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    「マラルメの〈火曜会〉についての研究」と銘打った本年度の特定課題研究は,〈火曜会〉というフランス19世紀末の特異な文化サロンの形成過程の解明に捧げられた。 マラルメが後に〈火曜会〉と呼ばれることになるサロンをパリ・ローマ街の自宅で開くようになったのは,1877年のことである。はじめ親しい友人同士の内輪のささやかな集まりにすぎなかったこのサロンは,1884年のヴェルレーヌ『呪われた詩人たち』,並びにユイスマンス『さかしま』の刊行を契機とした詩人の文壇的名声の高まりとともに,一躍活況を呈することとなり,1890年代に入ると,新世代の前衛詩人たちを糾合した「純粋詩の殿堂」とも「象徴派の牙城」とも目されるほどになる。 本研究では,そうした〈火曜会〉の成立と発展の過程を,主に『マラルメ書簡集』前十一巻(アンリ・モンドール,ロイド=ジェイムズ・オースティン編,ガリマール書店)の詳細な読解を通じて,できるだけ具体的に検証するように努めた。それと同時に,〈火曜会〉参加メンバーの回想録等の資料を丹念に蒐集することによって,このサロンの実態(何が話題にされ,どのような人間的交流があったか,等)に迫ろうと試みた。 その結果,明らかになったのは- (1) 優に20年間以上も続いたサロンだけに,その参加メンバーにはかなりの異同が見られること。たとえば70年代から84年まで,および85年から90年まで,さらに91年以降といった時間軸に沿って,ある程度,常連出席者の分類が可能になるのではないかという展望が見えてきたこと。 (2) 参加メンバーは必ずしもフランス人だけでなく,ヴィエレ=グリファン,スチュアート・メリルといったアメリカ人,ローデンバックのようなベルギー人が常連として出席していたほか,イギリス人のワイルド,アーサー・シモンズ,ドイツ人のゲオルゲが訪れるなど,当時のパリとしてはきわめてコスモポリットな環境が形成されていたこと。 (3) また参加メンバーは詩人たちだけでなく,小説家(モーパッサン,バレス,シュオッブ),演劇人(アンリ・ベック),批評家(エニック,フェネオン),画家(ホイッスラー,ルドン,ゴーガン),音楽家(ドビュッシー)らが多数出席しており,その意味で〈火曜会〉はマラルメとその弟子たちによる均質なサークルというにはほど遠く,実質的にはさまざまな芸術ジャンルの前衛の担い手たちの出会いと交流の場であったこと。 (4) それゆえ,〈火曜会〉は,マラルメにとっておのれの文学理念を弟子たちに伝授する場であっただけでなく,むしろ反対にマラルメの方が当時の芸術上の新傾向,新思潮を受容するための格好の機会でもあったこと。 (5) しかしながら,詩人の最晩年にいたって,こうした新世代の文学者,芸術家の「師」からの奇妙な離反現象が見られること。それと平行するように,マラルメはパリに住むよりも,郊外のヴァルヴァンの別荘で暮らすことを好むようになり,〈火曜会〉そのものがいわば空洞化していったこと。このマラルメを襲った突然の「孤独」の原因はまだ十分に解明できないでいるが,少なくとも若い詩的世代の側からのマラルメ的美学の乗り越えの動きがこの時期表面化していたことだけは確かである。 以上のようなパースペクティヴにたつならば,マラルメの難解きわまりない文学思想の展開を従来よりもはるかに精緻か実証的に辿っていく可能性が大きく見えてきたことを本研究の成果として報告しておきたい。なお精力的に研究に取り組んだかたわらで,マラルメ研究の第一級の資料たるその書簡についての考察が「礼節と韜晦-書簡におけるマラルメ」(『早稲田文学』,1995年10月号)に,またマラルメにとっての最大の「師」ボードレールとの関係についての考察が「〈危機〉以前の危機-マラルメ《窓》をめぐって-」(『文学研究科紀要』,早稲田大学大学院,第41輯,第2分冊,1996年2月)としてまとめられたことをつけ加えておく。

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