2024/10/10 更新

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ミサキ ヨシアキ
三崎 良章
所属
附属機関・学校 本庄高等学院
職名
教諭

経歴

  • 2021年04月
    -
    継続中

    早稲田大学   教育・総合科学学術院   客員教授

  • 1983年04月
    -
    継続中

    早稲田大学   本庄高等学院   教諭

学歴

  •  
    -
    1980年

    早稲田大学   文学研究科   史学(東洋史)  

  •  
    -
    1977年

    早稲田大学   文学部   史学科  

所属学協会

  •  
     
     

    唐代史研究会

  •  
     
     

    魏晋南北朝史研究会

  •  
     
     

    朝鮮学会

  •  
     
     

    早稲田大学史学会

  •  
     
     

    早稲田大学東洋史懇話会

  •  
     
     

    東方学会

  •  
     
     

    史学会

  •  
     
     

    東洋史研究会

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研究分野

  • アジア史、アフリカ史

研究キーワード

  • 東アジア史

 

論文

  • 酒泉「小土山墓」とその魏晋十六国時代の河西における位置

    三﨑良章

    早稲田大学本庄高等学院研究紀要   ( 42 ) 59 - 72  2024年03月

  • 甘粛高台出土画像磚に見る十六国時代河西社会の変動

    三﨑良章

    早稲田大学本庄高等学院研究紀要   ( 41 ) 43 - 55  2023年03月

  • 遼陽壁画墓一覧

    三﨑良章

    早稲田大学本庄高等学院研究紀要   40   51 - 102  2022年03月

    担当区分:筆頭著者

  • 墳墓壁画に見られる魏晋時代酒泉地域の漢人と非漢人

    三﨑良章

    早稲田大学本庄高等学院研究紀要   38   17 - 34  2020年03月

  • 3~5世紀の河西墳墓画像に見られる「塢」について

    三﨑良章

    史滴   38   218 - 199  2016年12月  [査読有り]

  • 北魏墳墓画像一覧(稿)

    三﨑良章

    早稲田大学本庄高等学院研究紀要   34   73 - 88  2016年03月

  • 魏晋・十六国時代における甘粛高台地域の民族状況

    三﨑良章

    早稲田大学本庄高等学院研究紀要   33   43 - 52  2015年03月

  • 融合する「胡」と「漢」−五胡十六国と北魏

    三﨑良章

    墨/芸術新聞社   231   42 - 47  2014年12月

  • 絲綢之路古城邦国際学術研討会参加記

    三﨑良章

    西北出土文献研究/西北出土文献研究会   11   93 - 97  2013年12月

  • 賈小軍著『魏晋十六国河西社会生活史』

    三﨑良章

    東洋学報/東洋文庫   95 ( 2 ) 51 - 57  2013年09月

  • 三燕と烏桓

    三﨑良章

    早稲田大学本庄高等学院研究紀要/早稲田大学   30   1 - 8  2012年03月

  • 高台2001GLM1の記号的図像と補助文様について

    三﨑良章

    西北出土文献研究/西北出土文献研究会   2010年度特刊   47 - 52  2011年04月

  • 遼東公孫氏政権と非漢民族

    三﨑良章

    早稲田大学本庄高等学院研究紀要/早稲田大学   28   75 - 85  2010年03月

  • 甘粛画像磚墓に見られる補助紋様−特に「X」紋を中心として−

    三﨑良章

    西北出土文献研究/西北出土文献研究会   2009年度特刊   33 - 39  2010年02月

  • 甘粛出土魏晋時代画像磚墓、壁画墓等に見える記号的図像について

    三﨑良章

    西北出土文献研究/西北出土文献研究会   2008年度特刊   35 - 52  2009年03月

  • 遼陽壁画墓に見られる遼東社会の一面

    三﨑良章

    早稲田大学本庄高等学院研究紀要/早稲田大学   26   59 - 67  2008年03月

  • 堀敏一著『東アジア世界の形成−中国と周辺国家』

    三﨑良章

    法制史研究/法制史学会   57   325 - 330  2008年03月

  • 遼寧省における魏晋時代の壁画墓−遼陽と朝陽、そして酒泉−

    三﨑良章

    西北出土文献研究/西北出土文献研究会   5   121 - 132  2007年03月

  • 壁画墓を通して見た三燕の民族

    三﨑良章

    史滴/早稲田大学東洋史懇話会   27   47 - 62  2005年12月

  • 十六国夏の年号について

    三﨑良章

    史観/早稲田大学史学会   152   36 - 51  2005年03月

  • 北燕の「鮮卑化」について

    三﨑良章

    早稲田大学本庄高等学院研究紀要/早稲田大学   21   1 - 9  2003年03月

  • 分裂時代の「中原」の都−洛陽の物語

    三﨑良章

    月刊しにか/大修館書店   13 ( 8 )  2002年07月

  • 「長沙三国呉簡曁百年来簡帛発現与研究国際学術研討会」参加報告

    三﨑良章

    唐代史研究/唐代史研究会   5  2002年06月

  • 「大夏紀年墓誌銘」に見える「大夏二年」の意味

    三﨑良章

    早稲田大学本庄高等学院研究紀要/早稲田大学   20   19 - 25  2002年03月

  • 「長沙三国呉簡曁百年来簡帛発現与研究国際学術研討会」に参加して−魏晋南北朝史研究者の立場から

    三﨑良章

    東方/東方書店   252   8 - 11  2002年02月

  • 川本芳昭著『魏晋南北朝時代の民族問題』

    三﨑良章

    唐代史研究/唐代史研究会   3   86 - 91  2000年06月

  • 魏書研究会(代表・西嶋定生)編『魏書語彙索引』

    三﨑良章

    史学雑誌/史学会   109 ( 3 )  2000年03月

  • 「五胡」と「十六国」の名称について

    三﨑良章

    早稲田大学本庄高等学院研究紀要/早稲田大学   18   45 - 56  2000年03月

  • 金翰奎著「古代東亜細亜幕府体制研究」

    三﨑良章

    東洋学報/東洋文庫   80 ( 3 ) 75 - 82  1998年12月

  • 1997年の歴史学界回顧と展望(中国−魏晋南北朝)

    三﨑良章

    史学雑誌/史学会   107 ( 5 )  1998年05月

  • 五胡十六国時代における遼東・遼西の民族構成の変化について

    三﨑良章

    早稲田大学本庄高等学院研究紀要/早稲田大学   16  1998年03月

  • ドイツにおける朝鮮研究の現状と展望

    三﨑良章

    朝鮮史研究会会報/朝鮮史研究会   129  1997年09月

  • ドイツ人中国学者の半生「リヒアルト・ヴィルヘルム伝」

    三﨑良章

    東方/東方書店   176  1995年11月

  • ドイツにおける東アジア研究の現状−中国・朝鮮研究を中心として

    三﨑良章

    社会科学討究/社会科学研究所   119  1995年08月

  • 異民族統御官にあらわれた五胡諸国の民族観

    三﨑良章

    東洋史研究/東洋史研究会   54 ( 1 )  1995年06月

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書籍等出版物

  • 磚画・壁画からみた魏晋時代の河西

    関尾, 史郎, 町田, 隆吉( 担当: 分担執筆,  担当範囲: 魏晋時代河西の壁画墓と壁画の一面ー遼陽との比較を通してー)

    汲古書院  2019年09月 ISBN: 9784762966354

  • 五胡十六国 : 中国史上的民族大迁徙

    三崎, 良章, 刘, 可维( 担当: 単著)

    2019年01月 ISBN: 9787100161862

  • 魏晋南北朝史のいま

    窪添, 慶文, 田中, 靖彦, 小池, 直子, 徐, 冲, 岡部, 毅史, 松下, 憲一, 会田, 大輔, 堀内, 淳一, 古勝, 隆一, 戸川, 貴行, 倉本, 尚徳, 北村, 一仁, 魏, 斌, 永田, 拓治, 澤田, 雅弘, 佐川, 英治, 小尾, 孝夫, 内田, 昌功, 岡田, 和一郎, 角山, 典幸, 市来, 弘志, 新津, 健一郎, 陳, 力, 安部, 聡一郎( 担当: 分担執筆,  担当範囲: 魏晋時代の壁画)

    勉誠出版  2017年08月 ISBN: 9784585226796

  • 魏晋南北朝史的新探索 : 中国魏晋南北朝史学会第十一届年会曁国际学术研讨会论文集

    楼, 劲( 担当: 分担執筆,  担当範囲: 北魏政権下的烏桓)

    2015年09月 ISBN: 9787516167915

  • 五胡十六国−中国史上の民族大移動【新訂版】

    三﨑良章

    東方書店  2012年10月

  • “十六国”与烏桓−特別以烏桓与三燕的関係為中心

    三﨑良章

    中国魏晋南北朝史学会第十届年会曁国際学術研討会論文集/北岳文芸出版社  2012年08月

  • 従画像磚看高台魏晋墓的特性

    三﨑良章

    高台魏晋墓与河西歴史文化研究/甘粛教育出版社  2012年04月

  • 遼東的漢魏交替

    三﨑良章

    魏晋南北朝史研究:回顧与探索−中国魏晋南北朝史学会第九届年会論文集/湖北教育出版社  2009年08月

  • 従朝陽出土的4〜5世紀壁画墓墓室画像人物頭部分析看漢与非漢

    三﨑良章

    “1〜6世紀中国北方辺疆・民族・社会国際学術検討会”論文集/科学出版社  2008年12月

  • 福井重雅先生古稀・退職記念論集古代東アジアの社會と文化

    記念論集刊行會, 福井, 重雅( 担当: 分担執筆,  担当範囲: 慕容廆の遼西支配)

    汲古書院  2007年03月 ISBN: 9784762928109

  • 五胡十六国の基礎的研究

    三﨑良章

    汲古書院  2006年11月

  • 看馮翊護軍論前秦的民族意識

    三﨑良章

    魏晋南北朝史論文集/巴蜀書社  2006年04月

  • 大夏紀年墓誌銘中“大夏二年”的意義

    三﨑良章

    北朝史研究−中国魏晋南北朝史国際学術研究討会論文集/商務印書館  2004年07月

  • 大夏年号考

    三﨑良章

    統万城遺址綜合研究/三秦出版社  2004年07月

  • 五胡十六国−中国史上の民族大移動

    三﨑良章

    東方書店  2002年02月

  • 東夷校尉考

    三﨑良章

    東アジア史の展開と日本/山川出版社  2000年03月 ISBN: 4634672901

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講演・口頭発表等

  • 五胡十六国-三燕と前秦を中心に-

    三﨑良章  [招待有り]

    国際日本文化研究センター日本古代史研究プロジェクト  

    発表年月: 2021年09月

  • 墳墓画像を用いた魏晋十六国研究の現状と課題

    三﨑良章  [招待有り]

    第20回魏晋南北朝史研究会大会  

    発表年月: 2020年12月

    開催年月:
    2020年12月
     
     
  • 北魏政権下的諸民族−以烏桓為中心

    魏晋南北朝史的新探索国際学術研討会曁中国魏晋南北朝史学会第十一届年会曁国際学術研討会  

    発表年月: 2014年10月

  • 魏晋高台民族状況

    絲綢之路古城邦国際学術研討会  

    発表年月: 2013年08月

  • “十六国”与烏桓−特別以与三燕的関係為中心−

    中国魏晋南北朝史学会第十届年会曁国際学術研討会  

    発表年月: 2011年10月

  • 甘粛の磚画と遼寧の壁画−墓主像の比較を中心として

    国際ワークショップ「磚画・壁画の環東アジア」  

    発表年月: 2011年03月

  • 従画像磚看高台魏晋墓的特性

    高台魏晋墓与河西歴史文化国際学術研討会  

    発表年月: 2010年08月

  • 遼東的漢魏交替−従遼陽壁画墓的角度

    魏晋南北朝史国際学術研討会曁中国魏晋南北朝史学会第九届年会  

    発表年月: 2007年10月

  • 従朝陽出土的4〜5世紀壁画墓墓室画像人物頭部分析看漢与非漢

    1−6世紀中国北方社会・民族・辺疆国際学術研討会  

    発表年月: 2006年08月

  • 十六国時期的異民族

    中国魏晋南北朝史学会第八届年会曁紀念繆鉞先生百年誕辰国際学術研討会  

    発表年月: 2004年07月

  • 十六国時期民族状況

    中国魏晋南北朝史学会第五届年会  

    発表年月: 1995年09月

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共同研究・競争的資金等の研究課題

  • 墳墓画像による五胡十六国時代の再検討

    日本学術振興会  科学研究費助成事業

    研究期間:

    2022年04月
    -
    2023年03月
     

    三崎 良章

  • 3~5世紀の朝陽をめぐる諸民族交渉の研究

    日本学術振興会  科学研究費助成事業

    研究期間:

    2010年
     
     
     

    三崎 良章

     概要を見る

    本研究は、本研究代表者のこれまでの研究成果の上に立って、3~5世紀の朝陽およびそれに関連する地域の諸墳墓やその他の遺跡の構造や立地状況、墳墓等から出土した文物等を総合的に検討し、当該時代の朝陽をめぐる地域における鮮卑慕容部を中心とする諸民族の共生、交渉の実態を明らかにすることを目的とした。
    研究ではまず、遼寧省の朝陽、錦州、内蒙古自治区の呼倫貝爾、興安、通遼、赤峰等における2~5世紀の墳墓、出土文物等のデータベースを構築した。その上で、8月から9月にかけて現地調査を行なった。本年度の現地調査は、経費と日程の関係から鮮卑拓践部の初期の遺跡に限定し、具体的には内蒙古自治区呼倫貝爾市鄂倫春自治旗の〓仙洞遺趾と満洲里市扎賚諾爾墓群の調査を行なった。また海拉爾区の呼倫貝爾民族博物館で札賚諾爾墓群、拉布大林墓群葬、孟根楚魯墓群等出土の鮮卑拓跋部関係遺物を調査し、さらに黒龍江省博物館、〓順博物館で他の鮮卑族およびその周辺諸民族に関する遺物を調査した。
    本研究によって、まず鮮卑拓跋部の故地とされる〓仙洞を中心とする大興安嶺山地の森林地帯と、拓跋部の移動後の活動の中心である扎賚諾爾等の呼倫湖周辺のステップ地帯との環境の相違を明らかにすることができた.これによって拓跋部の居住環境と慕容部の居住した朝陽周辺の環境との比較検討の場を得ることができるようになった。そしてその比較の結果、朝陽をめぐる諸民族のうち、牧畜経済を基盤とする拓跋部と半農半牧の慕容部との交渉あるいは競合が、3~5世紀の朝陽の社会変動の根底をなし、さらに遼東、朝鮮半島に至る地域の変革につながるという見通しを得るに至った。

  • 遼陽壁画墓と2~4世紀の遼東社会

    日本学術振興会  科学研究費助成事業

    研究期間:

    2008年
     
     
     

    三崎 良章

     概要を見る

    本研究では中国遼寧省の壁画墓の墓室画像を遼東社会、さらには魏晋社会研究の資料として活用する際の基盤を形成するための一段階として、遼陽壁画墓の全体像を明らかにし、さらにその墓室画像を用いて、2~4世紀の遼陽を中心とする遼東社会の一面を解明することを目的とした。
    遼陽壁画墓の全体像を明らかにするための作業として、平成20年8月に、遼寧省遼陽市を訪問し、遼陽市文物保護中心主任全暁紅氏の協力を得て、遼陽壁画墓の実見調査を行なった。実見した墳墓は次の通りである。
    南林子墓、玉皇廟2号墓・3号墓・4号墓、南郊街東漢壁画墓、南環街墓、南雪梅墓、峨眉墓、鵝房墓、東門里墓、棒台子2号墓、道西庄墓、北園1号墓・2号墓・3号墓・4号墓、南台子墓、満洲綿花会社墓
    遼陽市及びその周辺で知られている壁画墓は34基であり、今回の実見でそれらは現在の遼陽市街、すなわち遼陽城の北郊外と南郊外に位置していることが確認できた。また同時代の甘粛省や大連市の画像が画かれた墳墓が磚室墓であるのに対し、遼陽壁画墓は石室墓で、遼陽では石室墓が多く築造された中の一部の墳墓に画像が画かれたことが明らかになり、そこに遼東社会の特徴の一つを認めた。
    墓室画像の内容の点では、「宴飲図」を中心に分析を試みた。その結果、公孫氏政権を構成する人々の生活の一面が明らかになるとともに、後漢から魏晋に至る時期の遼東は、公孫氏の支配によって、社会の継続性が保たれていたことが明らかになってきた。2~4世紀の遼東社会の変動は、中原とは大きく異なる形で展開したことを明らかにしたことに大きな意義があると認識している。

 

現在担当している科目

 

特別研究期間制度(学内資金)

  • 魏晋南北朝時代の墳墓画像研究

    2019年04月
    -
    2020年03月

    中国   北京大学

他学部・他研究科等兼任情報

  • 教育・総合科学学術院   大学院教育学研究科

特定課題制度(学内資金)

  • 甘粛酒泉出土墳墓画像の研究

    2023年  

     概要を見る

      中国甘粛省で出土した2~5世紀の墳墓画像の研究、それをもとにした当該時代の河西地域社会の研究は、2000年代初めから着実に進展してきた。本研究代表者も近年、高台県の苦水口1号墓や地埂坡4号墓等の画像を中心に、墳墓画像の研究を進めてきた。  そうしたなかで高台県の西隣の酒泉市粛州区で2001年に発掘された「小土山墓」については、公表されている資料が限定的であることもあり、西涼主李暠の墳墓と理解されることが多いものの、それに対する疑問も呈され、当該時代研究に充分には活用されない状態が続いている。そこで本研究では、現在公開されている断片的な情報を収集・整理して同墓利用の基盤をつくるとともに、同墓の魏晋十六国時代の河西における位置を検討した。  まず「小土山墓」では、照壁に力士の小型正方形の彫像磚が4種8点あり、また小型正方形画像磚は8点であるが、その内5点の内容は青龍・白虎・朱雀・玄武・白鹿であること、墓内には大型画像磚が10点あったがそのうち画像が確認できるのは5点で、いずれも人物像であることが明らかになった。そうした画像の内容は、照壁は4世紀中期以前の酒泉・嘉峪関・高台の壁画墓と共通するが、墓内の画像はそれらとの相違が大きく、磚の形態としては敦煌祁家湾墓群のそれとの共通性が指摘できた。また墓主は西涼政権の相当の地位にあった人物と推定できること、築造時期は405~420年の間の可能性が高いことも明らかになった。  そうしたことを総合すると、酒泉・嘉峪関・高台では4世紀後半に非漢人政権である前秦の勢力拡大により壁画墓は衰退したが、5世紀初に漢人政権である西涼が敦煌から酒泉に遷都したことにより、敦煌で継続していた墳墓画像文化が酒泉に移植され、それが壁画墓である「小土山墓」の築造につながったという見通しを得ることができた。

  • 遼陽壁画墓による2~4世紀の遼東社会の研究

    2023年  

     概要を見る

      遼寧省遼陽市で発掘された後漢魏晋時代の壁画墓について、近年、『漢魏晋遼陽壁画墓』(遼寧人民出版社)、『遼陽壁画墓』(遼海出版社)が相継いで出版され、これまで知られていなかった墳墓の存在を知ることができるようになり、また従来公表されていなかった壁画の画像がカラー写真や模写で見ることができるようにもなり、研究環境が整備されていた。そこで本研究では、上記の資料によって壁画の内容、墳墓内での描かれる場所等を分析するとともに、遼陽市の遼陽市博物館、瀋陽市の遼寧省博物館において画像(含模写)を実見して、遼陽壁画墓の全体像を把握したうえで、河西の墳墓画像と比較して当該時代の遼東社会の実態を検討した。  本研究においては、画像のうち「天象図」に焦点を当てた。遼陽の壁画墓は現在39基存在が確認でき、そのうち画像についての報告がある墳墓は35基である。そのなかで「天象図」が描かれているのは棒台子1号墓・棒台子2号墓・北園2号墓・車騎墓・三道壕2号墓・東門里墓・南林子墓・南郊街東漢壁画1号墓・南環街墓・鵝房1号墓の10基である。その中心は日月であるが、一部には太陽の中に三足烏、月の中に蟾蜍が描かれ、遼陽においても中国の伝統的な天体観が継承されていることが分かる。ただそれらはあくまでも現実の世界の一部として描かれるように見える。  遼陽で壁画墓が造営された時期より若干遅れる3~5世紀には、甘粛省西部の河西地域でも画像を伴う墳墓が造営された。その河西の墳墓画像では現実に存在する事物以外に西王母、東王公、伏羲、女媧や四神、神獣等が多く描かれ、死後の昇天や昇仙が強く意識されている。これに対して遼陽では、三道壕3号墓と東門外墓に四神様の画像が描かれていると報告されている以外は、ほとんど現実の事物のみが描かれる。したがって「天象図」の日月も、伝説上の蟾蜍や三足烏を描くというよりは伝統的な日月の表現法に従っていると理解でき、そこに遼東社会の性格の一端を伺うことができた。

  • 墳墓画像による五胡十六国時代の再検討

    2022年  

     概要を見る

      甘粛省高台県で発掘された「許三湾五道梁墓群、1999年4月発掘墓」出土の画像磚を分析し、五胡十六国時代中期4世紀後半の河西社会の変動を検討した。魏晋十六時代の河西では、漢人豪族社会の進展を反映して多色を用いた壁画墓が造営されたが、同墓の画像磚は、この時代としては異質な黒色のみを用い、稚拙なものであった。同墓は378年築造で、高台の壁画墓としては最末期のものだが、当時は前秦が前涼を滅ぼした直後で、文献史料によれば氐族国家前秦の支配と激しい人間の移動により、漢人豪族社会が大きく変動していた。こうした時期に造営された同墓は、高台の壁画墓文化の終幕を告げるものであり、河西漢人豪族社会の衰退を示している。

  • 遼陽出土墳墓画像の研究

    2021年  

     概要を見る

     中国遼陽市周辺で出土した後漢から晋時代の壁画墓の発掘報告書、論文、図録等を精査して、墳墓の画像の内容、墳墓内の描かれた位置等を整理、検討した。その結果、以下のことが明らかとなった。遼陽壁画墓は1918年の迎水寺に始まり、2014年の苗圃2・7号墓まで39基確認されているが、そのうち4基は画像の内容が報告されていない。確認できる画像から、遼陽の墳墓画像の多くは宴飲、庖厨、議事、車馬行列等の墓主の生前の生活に関するものや日、月などの天象図であり、昇天図や伏羲、女媧等の想像上の事物はほとんど描かれないことが確認でき、そこに漢代の中原や、魏晋時代の河西と異なる、遼陽墳墓画像の特色を指摘することができる。

  • 酒泉出土魏晋時代墳墓画像の研究

    2020年  

     概要を見る

     本研究では、魏晋時代の墳墓である酒泉市果園郷の西溝4・5号墓及び酒泉市の東の張掖市高台県の苦水口1・2号墓の画像磚の画像を検討した。その結果、西溝4・5号墓は、2室墓と3室墓と構造は異なるが、その画像の内容、墓室内での画像の位置が共通し、画像の描き方もよく似ている。一方、苦水口1・2号墓も3室墓と2室墓であるが、画像の内容、位置、描き方は酷似している。こうした近接して築造された墳墓の画像の共通性は果園郷の北西の嘉峪関市の新城墓群でも指摘されている。すなわち本研究によって、魏晋時代の酒泉を中心とした地域では、近接する墳墓に共通する画像を描くことが地域の特性の一つとなっていることが指摘できる。

  • 魏晋南北朝時代中国北部の木版画の研究

    2019年  

     概要を見る

     嘉峪関新城墓群と高台駱駝城墓群・許三湾墓群で出土した木板画について検討し、以下のことが明らかになった。新城墓群では棺板画に伏羲女媧等の想像上の事物や天体が描かれるのに対し、その他の木板画には画像磚と同様な宴飲等の現実生活の場面が描かれる。一方駱駝城墓群・許三湾墓群の場合は、棺板画にも現実生活の場面が描かれるとともに、画像磚にも想像上の事物が描かれる。地域ごとに描く場所と画像の内容の関係に相違があることを知ることができる。また新城墓群の棺板画には画像磚に描かれる事物のうち糸束や反物、布といった絹製品は描かれる。絹製品は現実の物であるとともに想像上の世界にも存在するという特別な物と捉えられていたわけで、絹製品の特殊性も指摘できる。

  • 西魏・北周墳墓画像による北朝後期社会の研究

    2018年  

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     本研究では、西魏・北周の社会・文化はどのように展開し、北魏時代との継続性はどの程度存在するのか等を、寧夏回族自治区固原市で発掘された北周時代の李賢夫婦墓・宇文猛墓・田弘墓の壁画を用いて検討した。 その結果、北周墳墓の壁画には農耕や牧畜などの生産の場面や宴飲などの墓主の生活の場面の画像は見られず、墓道等に描かれた武士や門楼、墓室に描かれた侍女の画像が中心であること等が明らかになった。これらの特徴は隋唐代の史射勿墓や梁元珍墓壁画に近似することから、北周の墳墓画像は北魏前期との連続性よりも、隋唐につながる性格をもち、北魏後期から西魏の時期に中国北部の社会は大きく変動したことが想定されるのである。

  • 墳墓画像による3~5世紀における中国西部地域の民族状況の研究

    2017年  

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     本研究ではまず中国西部地域に位置する甘粛省高台の墳墓画像に見られる建造物に着目し、3~4世紀の高台には堅固な土壁で構築された「塢」と称すべき住居が存在したが、それは漢族と非漢族が共存し、戦乱が多発した同時代の中国西部地域の政治的・社会的不安定さに対応したものと推測した。さらに中国西部地域の中でも3~5世紀の出土した墳墓画像の数が最も多い河西の墳墓画像の性格を検討し、河西の墳墓画像は横30~43㎝×縦15~21㎝×厚さ5~6㎝程度の大きさの磚に完結する画像を描くことが中心であることを確認した。その上で、墓主の画像は権威性が小さく、生活性が高いという特徴を持つことを明らかにし、それが西部地域の諸民族の人物画像につながるという見通しを得た。

  • 墳墓画像による3~5世紀における中国西部地域の民族状況の研究

    2017年  

     概要を見る

     本研究ではまず中国西部地域に位置する甘粛省高台の墳墓画像に見られる建造物に着目し、3~4世紀の高台には堅固な土壁で構築された「塢」と称すべき住居が存在したが、それは漢族と非漢族が共存し、戦乱が多発した同時代の中国西部地域の政治的・社会的不安定さに対応したものと推測した。さらに中国西部地域の中でも3~5世紀の出土した墳墓画像の数が最も多い河西の墳墓画像の性格を検討し、河西の墳墓画像は横30~43㎝×縦15~21㎝×厚さ5~6㎝程度の大きさの磚に完結する画像を描くことが中心であることを確認した。その上で、墓主の画像は権威性が小さく、生活性が高いという特徴を持つことを明らかにし、それが西部地域の諸民族の人物画像につながるという見通しを得た。

  • 墳墓画像による五胡十六国・北魏時代の中国西部社会の研究

    2016年  

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      本研究は画像磚等の墳墓画像を主要な資料として、五胡十六国・北魏時代の中国西部地域の社会の実態を明らかにすることを目的とした。 甘粛省高台県博物館所蔵の苦水口1号墓・2号墓にから出土した画像磚に描かれた「塢」の画像を手がかりに、他の地域の同様な画像加えた33件を整理・分析した結果、「塢」についての一定の見通しを得ることができた。すなわち、3~4世紀の嘉峪関・酒泉・高台においては、「塢」は漢族有力者の防御機能を有する住居であり、それは非漢族と共存し、戦乱が多発した当該地域の社会状況を反映している。そうした「塢」は、従来指摘されてきた中原の「塢」とは異なるものである。

  • 墳墓画像による五胡十六国・北魏時代の中国西部社会の研究

    2016年  

     概要を見る

      本研究は画像磚等の墳墓画像を主要な資料として、五胡十六国・北魏時代の中国西部地域の社会の実態を明らかにすることを目的とした。 甘粛省高台県博物館所蔵の苦水口1号墓・2号墓にから出土した画像磚に描かれた「塢」の画像を手がかりに、他の地域の同様な画像加えた33件を整理・分析した結果、「塢」についての一定の見通しを得ることができた。すなわち、3~4世紀の嘉峪関・酒泉・高台においては、「塢」は漢族有力者の防御機能を有する住居であり、それは非漢族と共存し、戦乱が多発した当該地域の社会状況を反映している。そうした「塢」は、従来指摘されてきた中原の「塢」とは異なるものである。

  • 北魏墓室画像による北魏社会の研究

    2015年  

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     本研究は、中国山西省大同市から出土した北魏時代の墳墓の墓室壁面や棺の表面、あるいは木板に描かれた画像の内容を分析し、北魏時代の社会の実態、鮮卑と漢族やその他の少数民族との交渉の状況、さらに江南や西域等の地域との関係等を明らかにすることを目的とした。  大同市で発掘された画像をともなう北魏時代の墳墓は概ね5世紀に築造されたものであるが、そうした画像から当該時期の北魏社会における狩猟の意味、農耕技術、雑伎・音楽の状況、宴飲・包厨や車馬出行などの墓主を中心とする人びとの日常生活、絵画技術における南朝文化の影響、垂裙黒帽などの服装やかぶり物における鮮卑族の伝統の強さ、仏教文化や西方の文物の影響等を指摘することができた。

  • 北魏墓室画像による北魏社会の研究

    2015年  

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     本研究は、中国山西省大同市から出土した北魏時代の墳墓の墓室壁面や棺の表面、あるいは木板に描かれた画像の内容を分析し、北魏時代の社会の実態、鮮卑と漢族やその他の少数民族との交渉の状況、さらに江南や西域等の地域との関係等を明らかにすることを目的とした。  大同市で発掘された画像をともなう北魏時代の墳墓は概ね5世紀に築造されたものであるが、そうした画像から当該時期の北魏社会における狩猟の意味、農耕技術、雑伎・音楽の状況、宴飲・包厨や車馬出行などの墓主を中心とする人びとの日常生活、絵画技術における南朝文化の影響、垂裙黒帽などの服装やかぶり物における鮮卑族の伝統の強さ、仏教文化や西方の文物の影響等を指摘することができた。

  • 出土画像資料・文字資料による初期北魏社会の研究

    2014年  

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     本研究は、内蒙古自治区や山西省大同市周辺で出土した4~5世紀の壁画・木板画等や墓誌等を収集し分析することにより、初期北魏社会の状況を明らかにすることを目的としたが、特に北魏社会における烏桓の動向を検討した。その結果、次のような見通しを得た。 烏桓は北魏に支配されると拓跋部や漢族との融合が進展したが、王建や王冏、桓貸等、烏桓系と推定される人物が北魏社会に一定の影響力を持っていたことも確実である。また代郡桑乾の朱氏のように、烏桓からのつながりを意識した一族は存在していた。すなわち北魏時代には烏桓の拓跋や漢族への融合は進展するが、その痕跡は完全には消滅しなかったと見ることができる。

  • 3~4世紀における高台社会の研究

    2013年  

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     甘粛省高台県では、近年、駱駝城東南墓群、駱駝城西南墓群、許三湾墓群、地埂坡墓群等から3~4世紀の中国社会を研究するのに当たって注目すべき画像磚や壁画などの墓室画像や、随葬衣物疏、鎮墓文、棺板題記等の文字資料遺物が、続々と出土している。本研究ではそれらの全容を明らかにし、さらに詳細に分析・検討することを通して、当該時代の高台の社会状況の一面を明らかにすることを企図した。 具体的には高台県で高台県博物館の寇克紅館長から高台地域の最近の発掘状況の説明を受け、さらに趙万鈞副館長から地埂坡4号墓壁画、高台県博物館蔵画像磚等の画像データを提供された。それらのなかで、特に地埂坡4号墓壁画の画像データによって、現在の高台県の北部である3~4世紀の酒泉郡会水県はソグド人などの非漢人が主体性をもつ社会が形成されていたことが明らかになった。それに対して高台県南部にあたる酒泉郡表是県は漢人豪族が中心の社会であり、非漢人は漢人豪族に使役される存在であったことを確認することができた。すなわち酒泉郡という限られた地域のなかに、性格の異なる社会が併存していたのが3~4世紀の中国社会の一面であるという見通しを得ることができた。 また3~4世紀における高台の文字資料としては、発掘簡報や高台県博物館の展示から「趙阿茲衣物疏」、「周振・妻孫阿恵墓券」、「建興二十四年牘」など25点の存在が知られていたが、研究遂行の過程で北京の古陶文明博物館に高台県で出土したと思われる随葬衣物疏が収蔵されているとの情報を得た。そこで同博物館に赴き、董瑞館長の説明を受けた上で「夏侯妙々衣物疏」を詳細に調査することができた。当該文字資料は、「晋故酒泉表是都郷仁業里大女夏侯妙々衣物疏」という記述や形態・字体等から3~4世紀の高台で作られたものと考えられ、26点目の文字資料である可能性が高いことを確認した。文字資料を用いての高台社会の研究は緒に就いたばかりであるが、今後、画像資料と連動させて、高台社会の検討を進める予定である。 研究成果の一部はすでに口頭で報告したが、2014年度に論文としてまとめる予定である。

  • 墓室画像による鮮卑社会の研究

    2013年  

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     本研究は、発掘・調査された鮮卑族に関連する画像を網羅的に収集し、それを分析することによって、3世紀末~6世紀前半における鮮卑社会、特に鮮卑拓跋部と他の鮮卑部族、漢族、その他の民族との関係を明らかにすることを目的とした。従来、当該時代の前半は五胡十六国時代、後半は南北朝時代とされ、それぞれを限定して研究される傾向が強かったが、本研究では五胡十六国時代~北魏時代を通した鮮卑社会の変容を検討した。また個々の研究者の必要に応じて個別に利用されることの多かった鮮卑族関連画像の、現在における全貌を把握することも企図した。 具体的な作業としては、まず発掘報告書や『文物』・『考古』・『考古学報』・『内蒙古文物考古』等の学術雑誌、『内蒙古文物考古文集』・『内蒙古地区鮮卑墓葬的発現与研究』・『鮮卑考古学文化研究』等の論文集に発表された発掘簡報等を利用して、内蒙古自治区および山西省大同市付近から出土した、漢代から南北朝時代までの墓室画像を整理した。その結果、内蒙古自治区には和林格爾壁画墓、和林格爾三道営楡樹梁墓、烏審旗嘎魯図1号墓等11基、大同市付近では石家寨村司馬金龍墓、智家堡墓、馬辛庄和平二年梁抜胡墓等15基に墓室画像が存在することが確認できた。 その上で内蒙古自治区呼和浩特市の内蒙古博物院において、和林格爾三道営楡樹梁墓の「勅勒川狩猟図」と、出土状況の不明な烏蘭察布市四子王旗出土の「鮮卑狩猟木板画」の内容を検討した。さらに内蒙古大学教授王慶憲氏と内蒙古文物考古研究所所長陳永志氏の協力のもとに、和林格爾壁画墓の墓室壁画を調査した。また大同市では文瀛路北魏壁画墓、宋紹祖墓、迎賓大道墓群、沙嶺北魏壁画墓、司馬金龍墓、雲波理路北魏墓等の位置関係を確認した。そして狩猟図等の画像の内容から、4世紀に和林格爾の盛楽等を中心に活動していた時期と398年に大同に中心を移した後の時期で、鮮卑拓跋部の社会には、他の民族との関係において大きな変化は認められないという見通しを得た。 研究成果は2014年度に口頭で発表した後、論文にまとめる予定である。

  • 鮮卑慕容部の形成と拓跋部との関係

    2012年  

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     五胡十六国時代に前燕・後燕・西燕・南燕の諸国を建国し、また北燕政権の中枢を担うなど、華北社会にきわめて大きな影響を与えた鮮卑慕容部は、その西方において、鮮卑拓跋部と複雑は関係をもち、それが慕容部に対する圧力となっていたことは文献史料から窺うことができる。その具体的な状況の解明の可能性が、近年の遼寧省や内蒙古自治区における鮮卑関係遺跡の発掘・調査の進展によって大きく広がってきた。本研究では、内蒙古自治区で発見された考古資料を用いて、慕容部形成の状況および慕容部と拓跋部とのさまざまな段階における関係を明らかにすることを試みた。 具体的な作業としては、まず『文物』・『考古』・『内蒙古文物考古』・『北方文物』等の学術雑誌や『内蒙古地区鮮卑墓葬的発現与研究』・『鮮卑考古学文化研究』等の論文集に発表された発掘簡報等を利用して、内蒙古自治区で発掘された1~5世紀の鮮卑に関連する墳墓、出土文物のデータベースを構築した。その上で、呼和浩特市の内蒙古自治区博物院・盛楽博物館において鮮卑関連文物の実見調査を行なった。特に内蒙古博物院所蔵の「勅勒川狩猟図」・「鮮卑狩猟木板画」、盛楽博物館所蔵の「鶏鳴驛壁画墓」の画像を実見できたことは大きな成果である。とくに「鮮卑狩猟木版画」はこれまで報告されていなかったものである。これらの画像と遼寧省朝陽市の5基の前燕・北燕時期の壁画墓の画像を比較検討する場を得ることができたが、その結果、慕容部と拓跋部の間に、農耕の位置と漢族との交渉の濃淡の差を認めることができた。 ただ本研究では当初計画していた呼和浩特市新城区大学路北魏墓・同市托克托県皮条溝墓群、同市和林格爾県西溝子墓群の調査が、研究費と日程の関係で実現できなかった。また本研究を遂行する過程で山西省で発掘された鮮卑関係遺跡の調査の必要性も認識するに到った。本研究の成果を踏まえ、2013年度以降にそれらの調査・研究を実施し、最終的な結論を得ることを目指したい。

  • 鮮卑慕容部の形成と移動の研究

    2011年  

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     三燕政権の中核となる慕容部を含む鮮卑族の原住地は内蒙古自治区東北部の嘎仙洞付近と考えられるが、拓跋部・宇文部・段部等の他の鮮卑部族との分化と慕容部の形成、また3世紀末以降の慕容部の拠点となる遼寧省朝陽市に至る移動の過程は必ずしも明らかになっていない。本研究の目的は、嘎仙洞から朝陽の間の内蒙古自治区東部で発見された考古資料を用いて、慕容部の形成過程と移動の状況を明らかにすることあった。 具体的な作業としては、まず『文物』・『考古』・『遼海文物学刊』・『内蒙古文物考古』・『北方文物』等の学術雑誌や『青果集』・『遼寧考古文集』・『内蒙古地区鮮卑墓葬的発現与研究』・『鮮卑考古学文化研究』等の論文集に発表された発掘報告等を利用して、内蒙古自治区東南部の赤峰市・通遼市・興安盟等における1~4世紀の鮮卑に関連する墳墓、出土文物のデータベースを構築した。その後、通遼・赤峰に赴き、科爾沁博物館及び赤峰博物館において鮮卑関係遺物の調査を行ない、さらに通遼の科左中旗六家子墓群、科左後旗新勝屯墓群の調査を行なった。 その結果、大興安嶺山脈西側を南下してきた鮮卑族が、大興安嶺山脈南部で山脈を越え、その東側に移動したこと、またその過程で、おそらく自然環境の相違などにより社会構造が変化したと考えられること等の見通しを得ることができた。さらに赤峰周辺で、そこを原住地とすると考えられる烏桓族との間に共存関係・影響関係を生じたことを慕容部研究として考慮する必要性があるとの認識をもつことができた。 ただ本研究では当初予定した赤峰の巴林左旗南楊家営子墓群や興安盟科右中旗の北瑪尼屯墓群等の調査が、経費と日程の関係で実現できず、また内蒙古自治区で出土した遺物が多く保存されている呼和浩特市の内蒙古自治区博物館・内蒙古文物考古研究所での鮮卑関係遺物の調査も未着手である。したがって上記の見通しもまだ十分な根拠を得るに至っていない。本研究の成果を踏まえ、2012年度以降にそれらの調査・研究を実施し、最終的な結論を得ることを目指したい。

  • 朝陽三燕墳墓・出土文物による3~5世紀の遼西地域の研究

    2009年  

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     本研究の目的は、文献資料研究や墓室画像研究で得られた成果の上に立って、壁画墓を始めとする3~5世紀の朝陽の諸墳墓の構造や立地状況、墳墓及びその他の遺跡から出土した文物等を総合的に検討し、三燕諸国が興亡した3~5世紀の遼西地域の社会状況、鮮卑族と漢族の共生、交流の実態を明らかにすることにあった。 具体的な作業としては、まず『文物』『考古』『遼海文物学刊』等の学術雑誌や『青果集』『遼寧考古文集』等の論文集に発表された発掘簡報等を利用して、3~5世紀の三燕墳墓、出土文物のデータベースを構築した。その後、遼西博物館長の尚暁波氏と発掘調査に直接関わった孫国平氏の協力を得て、崔遹墓、大平房村壁画墓、北廟1号墓、奉車都尉墓の現状を調査し、また遼西博物館所蔵の奉車都尉墓出土文物(奉車都尉銀印、銅帯鉤、銀釵状飾件等)の実見調査を行なった。特に孫国平氏は現存の考古学者で朝陽の発掘調査に最も早くから関わった人物であり、朝陽の三燕墳墓、出土文物について貴重な情報を得ることができた。 そうした作業の結果、朝陽における鮮卑慕容部の要素が強い北廟1号墓と漢族の文化要素が色濃く反映されている崔遹墓、大平房村壁画墓、奉車都尉墓の関係、首都龍城を中心に広範囲に広がる三燕政権の遼西支配の構造についての見通しを得ることができた。また遼西の地域性をさらに明確にするためには慕容部や漢族に留まらず、鮮卑拓跋部や烏桓族、高句麗族等の状況を再検討する必要性を強く認識するに至った。 本研究の成果を踏まえ、2010年度は調査範囲を朝陽から拡大し、内蒙古自治区の通遼、呼倫貝爾等の遺跡調査を計画している。なお本研究の成果は、2010年度に順次論文等で発表する予定である。

  • 遼寧省朝陽周辺における壁画墓と三燕社会

    2007年  

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     本研究の目的は中国遼寧省朝陽周辺で発掘された壁画墓、すなわち馮素弗墓、馮素弗妻墓、北廟1号墓、大平房村壁画墓、袁台子壁画墓の現状を把握し、壁画を始めとする資料を収集した上で、これら5基の壁画墓の全体像を提示し、漢族、鮮卑族等の諸民族の混住、融合の中で形成されたと考えられる三燕社会の実態を明らかにすることにあった。 具体的な作業としては、遼西博物館の協力を得て朝陽の5基の壁画墓のうちすでに調査を行なっている袁台子壁画墓を除く4基の現状を調査した。また4世紀中期と推定される朝陽の壁画墓建造開始の直前の4世紀前半までの約200 年間に建造され、地理的にも近接する遼陽の壁画墓については、遼陽市博物館の協力を受けて令支令墓等11基の現状調査を行ない、遼陽市博物館、遼寧省博物館で画像の収集を行なった。 その結果、朝陽においては、壁画墓の所在地等から、鮮卑族の要素が強い北廟1号墓と漢族の要素が強い大平房村壁画墓の近縁関係、首都龍城を中心に広範囲に広がる三燕の遼西支配の構造についての見通しを得ることができた。また遼陽においては、壁画墓の構造、画像内容の分析等から、中原における漢魏交替とは異なり、遼東社会は後漢時代後期から西晋時代に至るまで強い連続性を保っていたことを確認した。そしてその連続性に対しては、遼陽を拠点とした2世紀末から3世紀前半にかけての公孫度から公孫淵に至る公孫氏政権の役割が大きかったことを明らかにすることができた。さらに遼陽の壁画墓の衰退には鮮卑慕容氏政権が関わっていることは間違いなく、遼陽から朝陽へ、漢族社会から三燕社会への壁画墓文化の伝播も推定することができた。 本研究の成果の一部についてはすでに2007年10月の中国魏晋南北朝史学会で報告したが、さらに2008年度末以降、順次論文で発表する予定である。

  • 魏晋南北朝時代における遼東・遼西地方の民族集団の動向

    2001年  

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    本研究の目的は、魏晋南北朝時代(3~6世紀)の中国の遼東・遼西地域における烏桓、鮮卑、扶餘、高句麗等の諸民族集団の動向、すなわちその存在形態、民族集団相互の関係等を明らかにすることであった。特にこれまで行なってきた東アジアの諸民族集団についての中国正史を始めとする文献史料による成果の上に立って、新たに考古学資料を活用し、文献史料と考古学資料双方を分析することによって、より具体的な動向を検討することに意義があった。 具体的作業としては、まず当該地域の諸民族集団関係の考古学文献を収集し、各遺跡の出土遺物の状況、壁画の内容、墓誌・墓表・印章等文字資料などをコンピューターに入力し、考古学資料データベースを作成した。ついで文献史料に記される諸民族集団の記録と考古学資料データベースを総合して、それぞれの遺跡の民族系統を検討し、魏晋南北朝時代における諸民族集団の状況、相互の影響関係等を研究した。 本研究を展開する過程で、遼東・遼西地域を中心として活動した諸民族集団の内蒙古自治区や河北省、河南省等の中原地域における遺跡も検討する必要性を感じ、データベース化の対象範囲を拡大した。 その結果、河南省安陽の「孝民屯晋墓」や河南省洛陽の「軸承廠十六国磚棺墓」などから4~5世紀における鮮卑族の活動の状況が、また遼寧省錦州の「前燕李(カイ)墓」や北票の「喇嘛洞墓群」などから鮮卑族と漢族を含めた他の民族集団との交渉の実態が明らかになりつつある。それらを文献史料の記録で跡づける作業を展開中であり、その成果については2002年度において順次論文で発表する予定である。

  • 五胡十六国時代の研究

    1998年  

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     本研究者はこれまで五胡十六国時代について、官制・民族意識・国際交渉等のさまざまな角度から検討を加え、個々の問題について研究成果を発表してきた。本研究ではその上に立って、この時代を総体として捉え、全体像を提示することを意図して研究を進めた。先ず、これまで世界各地で行なわれてきた五胡十六国時代研究の成果が、個々の研究者に必ずしも共有されていないという現状があるため、日本・中国・韓国・欧米諸国等の研究を網羅した文献の収集と文献目録データベースの作成を行なった。続いてそれに基づいて、日本・中国・その他の地域における五胡十六国時代研究の研究史を検討した。 そこでは特に中国において、各研究者が独自の関心に基づいて研究を行なっており、例えば前涼・後涼・南涼・北涼・西涼の五涼研究と前燕・西燕・後燕・南燕・北燕の諸燕国研究が相互に関連されずに為されているなどの問題点、また五胡十六国時代研究のなかでも、各政権の民族構成、人口の移動等の問題についての研究の欠如を明らかにした。その上で『晋書』・『魏書』・『資治通鑑』や『十六国春秋』佚文などの関連史料から、人口の移動に関する記録を抽出してデータベースを作成し、さらにその移動に関与する政権、民族、集団等の特定、その結果としての各国・各地域の民族構成の解明、それがもたらす社会の変動の研究等を行なった。 現在、整理した資料をもとに、論考をまとめつつあり、その成果は1999年度に論文として発表する予定である。

  • 古代東アジアにおける諸民族集団の再検討

    1996年  

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     本研究の目的は、2世紀から6世紀における東アジアの諸民族集団の実態、及びそれらの交流の状況を明らかにすることであった。 具体的作業としては、(1)正史を中心とする編纂資料から民族集団に関する資料の抽出、(2)石刻資料・出土資料等の一次資料から民族集団に関する資料の抽出、(3)それらの資料を総合して検討した上で、各民族集団の動向、諸民族集団間の関係等の解明、を行なった。そのうち編纂資料では、『晋書』及び『魏書』については抽出整理を完了した。また今回は、『北京図書館蔵中国歴代石刻拓本匯編』(中州古籍出版社)を入手し、他の石刻資料と共に一次資料における民族集団資料の確認を行うことができた。 その結果、漢民族の居住地域に流入した諸民族とが、従来理解されていた以上に独自の社会を形成し、朝鮮半島等の民族とも大きな影響を与え合っていたこの、おおよその見通しを得ることができた。現在、整理した資料を基に、論考をまとめつつあり、その成果は1997年度に論文として発表する予定である。

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