2024/12/26 更新

学歴

  •  
    -
    1986年

    大阪大学   人間科学研究科   社会学  

  •  
    -
    1983年

    早稲田大学   文学部   社会学専攻  

委員歴

  • 2006年
    -
    2011年

    日本映像学会  機関誌『映像学』編集委員

  • 2006年
    -
    2009年

    日本社会学会  研究活動委員

所属学協会

  •  
     
     

    日本映像学会

  •  
     
     

    日本社会学会

研究分野

  • 社会学

研究キーワード

  • 社会学(含社会福祉関係)

 

論文

  • シミュレーションとしての山田太一ドラマ

    長谷正人

    ユリイカ(2024年4月号 特集:山田太一)   56 ( 5 ) 186 - 193  2024年04月

  • ヴァナキュラー・モダニズムとしてのクレイジーキャッツ

    長谷正人

    ユリイカ(2024年2月号 特集クレイジーキャッツの時代)   56 ( 2 ) 77 - 83  2024年02月

  • 労働としての映画─『勝手に逃げろ/人生』におけるゴダールの転回をめぐって

    長谷正人

    ユリイカ(2023年1月臨時増刊号 総特集◎ジャン=リュック・ゴダール─1930-2022)   55 ( 2 ) 519 - 525  2022年12月

  • 「幼年期」の映画、あるいは記号化する日常と「身体」──極私的大林宣彦論

    長谷正人

    ユリイカ 総特集大林宣彦1939-2020   52 ( 10 ) 93 - 103  2020年08月

  • 津波映像と『アナ雪』─視覚文化における「音声化」の諸問題

    長谷正人

    群像   75 ( 6 ) 308 - 315  2020年06月

  • 坪内祐三における「死にがい」の探求と連合赤軍─『一九七二」を読み直す

    長谷正人

    ユリイカ 総特集坪内祐三1958-2020   52 ( 5 ) 243 - 254  2020年04月

  • 自己、写真、ファッション─アウラの凋落とファッション文化

    長谷正人

    Fasion Talks...   ( 10 ) 14 - 19  2019年12月

  • 複製技術時代における思考の可能性─ベンヤミンの複製芸術論を読み直す

    長谷正人

    早稲田大学大学院文学研究科紀要   64   805 - 820  2019年03月

  • 「社会実験」としての映画─『ハッピーアワー』について考える

    長谷正人

    ユリイカ2018年9月号(特集 濱口竜介)   50 ( 12 ) 268 - 275  2018年09月

  • 聡明な作家、是枝裕和

    長谷正人

    KAWADE夢ムック文藝別冊是枝裕和     124 - 128  2017年09月

  • 鈴木清順における「純粋な運動」と歴史という不純

    長谷正人

    ユリイカ   49 ( 8 ) 88 - 96  2017年05月

    CiNii

  • 日活ロマンポルノ、あるいは性表現という恥ずかしさ

    長谷正人

    映画学   ( 30 ) 80 - 86  2017年02月

    CiNii

  • アマチュアリズムと放送の民主主義

    長谷正人

    ユリイカ   48 ( 14 ) 125 - 134  2016年10月

    CiNii

  • テレビジョン、低俗番組、弱者の民主主義─放送の公共性をめぐって

    長谷正人

    表象・メディア研究   ( 6 ) 11 - 30  2016年03月

    CiNii

  • 人間原節子 そのエロスの源泉

    長谷 正人

    ユリイカ   48 ( 3 ) 90 - 99  2016年02月

    CiNii

  • テレビジョン、生活革命、子どもの民主主義

    長谷正人

    月刊民放   45 ( 8 ) 12 - 15  2015年08月

    CiNii

  • アウラとしてのテレビジョン─1950年代のテレビ受容をめぐって

    長谷正人

    早稲田大学文学研究科紀要   60   21 - 35  2015年03月

    CiNii

  • 反=接吻映画としての『晩春』─占領政策と小津安二郎

    長谷正人

    ユリイカ11月臨時増刊号   45 ( 15 ) 175 - 187  2013年10月

  • お茶の間に仕掛けたメディア的“罠”

    長谷正人

    寺山修司の迷宮世界(洋泉社MOOK)     80 - 83  2013年05月

  • 「パーソナルな文化」としてのテレビドラマ─山田太一とサリンジャー

    長谷正人

    kAWADE夢ムック文藝別冊総特集山田太一     204 - 211  2013年05月

  • ドラマご馳走主義の作家

    長谷正人

    文藝別冊 木皿泉 物語る夫婦の脚本と小説(河出書房新社)     133 - 139  2013年04月

  • メディアはなぜあるのか(<特集>メディア文化研究の課題と展望)

    長谷 正人

    マス・コミュニケーション研究   78 ( 78 ) 3 - 18  2011年01月

     概要を見る

    There are two sides of mass communication, one is for the side for journalism and the other is for the side of media. Mass communication as journalism consists the discipline of democracy at society. Also mass communication has a role of deliver the information about politics, crimes, and economics correctly. On the other hand, mass communication has the side of incantation. Common people are willing to enjoy criminal and political reports as much as fictions and dramas. To respond to such desire, popular culture of 20^<th> century has also developed. However, such a media culture as an amusement has held a lower position of gossips and rumors in the field of mass communication study. From now on, media culture has to be analyzed as a main focus of mass communication. Media exits not only for the justice but for the joy of living.

    DOI CiNii

  • 社会学という不自由

    長谷正人

    思想地図   ( 5 ) 131 - 147  2010年03月

  • ジオラマ化する世界2(『父親たちの星条旗、あるいはジオラマの内と外)

    長谷正人

    写真空間   ( 2 ) 169 - 179  2008年09月

  • ビートたけし(21世紀の冒険者48)

    長谷正人

    daiaries(ダイアリーズ)   ( 1 ) 108  2008年08月

  • ジオラマ化する世界 1(カール・エイクリー/杉本博司の生態ジオラマ)

    長谷正人

    写真空間/青弓社   ( 1 ) 215 - 224  2008年03月

  • 分野別研究動向(文化)──「ポストモダンの社会学」から「責任と正義の社会学」へ──

    長谷正人

    社会学評論 (日本社会学会)   57 ( 3 ) 615 - 633  2006年12月

  • 創造とは何か?──フーコー、キアロスタミ、デリダ

    長谷正人

    Mobile Society Review(未来心理)/モバイル社会研究所   ( 8 ) 4 - 11  2006年12月

  • テレビはジャーナリズム論では語れない(書評ヒューマイルズ『アルジャジーラ 報道の戦争』光文社)

    長谷正人

    d/sign(デザイン)/太田出版   ( 12 ) 146 - 147  2006年03月

  • 文化の社会学の窮状/可能性

    長谷正人

    年報社会学論集(関東社会学会)   ( 18 ) 16 - 27  2005年08月

    CiNii

  • 写真、バルト、時間:『明るい部屋』を読み直す

    長谷正人

    d/sign(デザイン)/太田出版   ( 10 ) 99 - 103  2005年04月

  • 映画、小津、時間(3)

    長谷正人

    UP/東京大学出版会   ( 388 ) 38 - 42  2005年02月

  • アニメーションという思想ー宮崎駿試論

    長谷正人

    早稲田大学大学院文学研究科紀要   第50輯第1分冊   83 - 96  2005年02月

  • 映画、小津、時間(2)

    長谷正人

    UP/東京大学出版会   ( 387 ) 46 - 50  2005年01月

  • 映画、小津、時間(1)

    長谷正人

    UP/東京大学出版会   33 ( 386 ) 48 - 52  2004年12月

    CiNii

  • 心霊写真は語る/(第2章「ヴァナキュラー・モダニズムとしての心霊写真」)

    一柳廣孝編

    青弓社     63 - 87  2004年08月

  • 日本映画とナショナリズム1931−1945/(第10章「日本映画と全体主義:津村秀夫の映画批評をめぐって」)

    岩本憲児編

    森話社    2004年06月

  • アフォーダンス理論のパフォーマンス

    長谷正人

    d/sign(デザイン)/太田出版   ( 7 ) 76 - 78  2004年05月

  • 「痕跡」と「指差し」─写真の訳の分からなさをめぐって

    長谷正人

    木野評論/青幻社   ( 35 )  2004年03月

  • 現代若者考⑧ 若者の寂しさ

    長谷正人

    カルチャーちば/千葉市文化振興財団   ( 45 )  2004年02月

  • 映画にとって細部とは何か;リュミエールと宮崎駿をめぐって

    長谷正人

    d/sign(デザイン)/太田出版   ( 6 ) 91 - 94  2004年02月

  • レイアウトとしての映画;時間的想像力の可能性をめぐって

    長谷正人

    d/sign(デザイン)/太田出版   ( 5 ) 106 - 109  2003年10月

  • intermedia——メディアと芸術の相関を思考する (第1巻5章「記憶と忘却の経験としての映画」)

    早稲田大学メディアデザイン研究室, 映像コミュニケーション研究所

    トランスアート社    2003年10月

  • 複製というアウラ;ベンヤミン、笠智衆、グールド

    長谷正人

    d/sign(デザイン)/太田出版   no.4   68 - 73  2003年05月

  • テレビ世界の生態学的観察者;ナンシー関の倫理をめぐって

    長谷正人

    トリビュート特集 ナンシー関/河出書房新社    2003年03月

  • テレビ出演という謎:『未来日記』試論

    長谷正人

    現代風俗学研究/社団法人現代風俗研究会東京の会   ( 9 ) 20 - 25  2003年03月

  • 夢としての資本主義──ハリウッド映画の魅力とは何だったのか

    長谷正人

    早稲田学報    2003年03月

  • 二0世紀の映像文化:「エジソン的回帰」をめぐって

    長谷正人

    映画学/映画学研究会(早稲田大学文学部演劇映像研究室内)   ( 16 )  2002年12月

  • 文化社会学の社会学的責任とは何か

    長谷正人

    TASC MONTHLY   ( 317 ) 4 - 9  2002年05月

    CiNii

  • 「文化」のパースペクティヴと日本社会学のポストモダン的変容

    長谷正人

    文化と社会/マルジュ社   ( 3 )  2002年04月

  • 映像の社会学・再考:黒澤明の『羅生門」をめぐって

    長谷正人

    社会学年誌(早稲田社会学会)   ( 43 ) 5 - 22  2002年03月

    CiNii

  • 運動雑記帳1−14

    長谷正人

    ATHRA(毎日コミュニケーションズ)   10号から25号まで連載  2002年02月

  • 現代若者考⑥ストリート・ミュージシャン

    長谷正人

    カルチャーちば/千葉市文化振興財団   ( 43 ) 58 - 59  2001年12月

  • カメラの存在論

    長谷正人

    「写真の会」会報   ( 50 ) 2 - 10  2001年09月

  • 物語、あるいは映画の柔らかい肌

    長谷正人

    物語の風俗(現代風俗研究会年報)/河出書房新社   ( 23 ) 114 - 125  2001年09月

  • フィクション映画の「社会性」とは何か:D.W.グリフィスの『国民の創生』をめぐって

    長谷正人

    社会学年誌(早稲田社会学会)   ( 42 ) 131 - 146  2001年03月

    CiNii

  • 映画の政治学・再考;『国民の創世』の受容をめぐって

    長谷正人

    立教アメリカン・スタディーズ(立教大学アメリカ研究所)   23 ( 23 ) 85 - 106  2001年03月

    DOI CiNii

  • 現代若者考⑤メル友

    長谷正人

    カルチャーちば/千葉市文化振興財団   ( 42 ) 46 - 47  2001年01月

  • <観客>のゆくえ(森直人編『21世紀/シネマX』)

    長谷正人

    フィルムアート社     130 - 133  2000年12月

  • チーム・プレイのドキュメント(ハワードホークス論)

    長谷正人

    月蛙(子供社)   ( 2 ) 85 - 91  2000年04月

  • 現代若者考④ケータイ

    長谷正人

    カルチャーちば/千葉市文化振興財団   ( 41 ) 98 - 99  2000年03月

  • 日本映画と全体主義:津村秀夫をめぐって

    長谷正人

    映像学/日本映像学会   ( 63 )  1999年12月  [査読有り]

  • テクノロジーの経験としての映画:戦争、全体主義、そして生命のリズム

    長谷正人

    月蛙/子供社   ( 1 ) 80 - 93  1999年10月

  • 映画哲学1〜10

    長谷正人

    ロゴスドン/ヌース出版会   33号から42号まで連載  1999年07月

  • 社会福祉辞典(「遊び」「ダブルバインド」「無意識」など10項目を執筆)

    庄司洋子, 木下, 康仁, 武川, 正吾, 村正之

    弘文堂    1999年05月

  • 韓国における日本映画開放によせて;国際評価とナショナル・アイデンティティーを手がかりに

    長谷正人

    国際交流(国際交流基金)   21 ( 83 ) 98 - 103  1999年04月

    CiNii

  • 現代若者考③コンビニ

    長谷正人

    カルチャーちば/千葉市文化振興財団   ( 40 ) 98 - 99  1999年03月

  • The Origins of Censorship:Police and Motion Pictures in the Tisho period(「検閲の誕生」の英訳)

    Hase Masato

    Review of Japanese Culture and Society/城西国際大学   ( 10 ) 14 - 23  1998年12月

  • 亜細亜 映画 研究; 歴史 美学 正体性 産業(The Identity of Japanese Cinemaを執筆)

    韓国映画学会編

    Good Living(Korea)     273 - 288  1998年11月

  • リュミエール兄弟のアルケオロジー

    長谷正人

    CineMagaziNet!(http://www.cmn.hs.h.kyoto-u.ac.jp/NO2/Default2.htm)   ( 2 )  1998年06月

  • Cinemaphobia in Taisho Japan :Zigomar,Delinquent Boys and Somnambulism

    Masato Hase

    ICONICS   ( 4 ) 87 - 101  1998年03月  [査読有り]

  • 現代若者考②カラオケ

    長谷正人

    カルチャーちば/千葉市文化振興財団   ( 39 ) 82 - 83  1998年03月

  • 映画観客の「笑い」について

    長谷正人

    現代風俗学研究   ( 4 ) 74 - 76  1998年03月

  • 現代若者考①プリクラ

    長谷正人

    カルチャーちば/千葉市文化振興財団   ( 38 ) 82 - 83  1997年09月

  • 学問の世界地図〔文化の社会学〕 文化=意味づけの体系をひっくり返す魅力

    長谷正人

    別冊宝島『学問の鉄人 大学教授ランキング』   ( 322 ) 120 - 121  1997年07月

  • 現実性のスペクタクルとドキュメンタリー映画

    エリザベス・カウイ

    Documentary Box(山形国際ドキュメンタリー映画祭事務局)   ( 10 ) 1 - 8  1997年06月

  • リュミエールの考古学

    長谷正人

    映像学(日本映像学会)   55号  1996年11月  [査読有り]

  • 映像のオントロギー(1)−(40)

    長谷正人

    Internet photo Magazine(http://www.ipm.jp/ipmj/back.html)に毎月連載    1996年08月

  • メディアとしての映画館

    長谷正人

    現代風俗学研究/社団法人現代風俗研究会東京の会   ( 2 )  1996年04月

  • 検閲の誕生─大正期の警察と活動写真

    長谷正人

    映像学(日本映像学会)   ( 53 ) p124 - 138  1994年11月  [査読有り]

    CiNii

  • 第二次世界大戦下のアメリカ映画と映画の情報メディア化;『われらなぜ戦うか』をめぐって

    長谷正人

    平成5 年度科学研究費補助金( 総合研究A) 研究成果報告書『芸術表現におけるイデオロギー;全体主義と文化』     41 - 54  1994年03月

  • ヴァーチャルじいさん笠智衆

    長谷正人

    imago(イマーゴ)/青土社   5 ( 10 ) 187  1994年01月

  • フーコー・ドゥルーズ・ユーモア

    長谷正人

    ブリーフサイコセラピー研究/亀田書店   ( 2 )  1993年07月

  • 書評 井上俊『悪夢の選択』

    長谷正人

    ソシオロジ(社会学研究会)   38 ( 1 ) 79 - 86  1993年05月

    DOI CiNii

  • 『主体』のパラドックスと『遅れ』の意識・・・近代の時間意識をめぐる一考察

    長谷正人

    ソシオロジ(社会学研究会)   37 ( 3 ) 3 - 12  1993年02月

     概要を見る

    On the ideal of the modern society the individual must be the subject. But this ideal conceives a paradox in itself. For the one who is trying to be a subject isn't a subject yet. The subject as the ideal makes itself impossible. Modern subjects are aware of this fact. They always suspect that they aren't subject yet and that they are behind the subject. So they try to make up for this delay. This is the motive force of a modern subject's forward movement.<br> We think this consciousness of delay is the modern society's time consciousness.The modern society aims at the future and is progressing incessantly. So, if we are going to overcome the modern, we must overcome this consciousness. To put it in another way, we must overcome the subject as the modern ideal.<br> This problem is not only for individuals but for nation-states. The nation-state is also the subject which is trying to be a subject. So we'll think of this problem as the nation-state's one.<br> Generally speaking, eastern nation-states are compelled to be conscious of delay, because they are far in the rear of western nations and, in addition to this, because they can become the subject (nation-states) only by means of resistance to the western's invasion. But according to Yoshimi Takeuchi's thesis ('What is modernity?'), western nation-states also have the consciousness of delay. Why can we think so? Because western nation-states couldn't be conceived of their subjectivity and progress without conquering the eastern and confirming the eastern's delay. Historically, the western's invasion of the eastern tells us that the western nation-states suspect they aren't subject yet.<br> How can we escape these paradoxes of the subject? Takeuchi proposes dual strategies from the eastern's point of view. First, they must be resistant to the western's invasion. Second, they must be resistant to the eastern's subjectification.Anyway, we must deconstruct the subject.

    DOI CiNii

  • 視姦された映画とマゾヒズムのまなざし・・・バルト/ ドゥルーズの映画鑑賞

    長谷正人

    imago(イマーゴ)/青土社   3 ( 12 ) 188 - 196  1992年10月

  • ユートピア世界としての「男はつらいよ」

    長谷正人

    『男はつらいよ 寅次郎の告白』劇場用パンフレット    1991年12月

  • 言語行為論、現実構成主義、家族療法

    長谷正人

    現代のエスプリ(至文堂)   ( 287 ) 41 - 48  1991年06月

  • 行為の意図せざる結果 (2)

    長谷正人

    千葉大学教養部研究報告   ( A-22 ) 173 - 202  1990年03月

  • ダブル・バインドへのシステム論的アプローチ

    長谷正人

    社会学評論(日本社会学会)   40 ( 3 ) 310 - 324  1989年12月  [査読有り]

  • 行為の意図せざる結果 (1)

    長谷正人

    千葉大学教養部研究報告   ( A-21 ) 107 - 135  1989年03月

  • 書評 作田啓一・井上俊編『命題コレクション・社会学』

    長谷正人

    ソシオロジ   32 ( 1 ) 98 - 101  1987年05月

  • <死> の象徴論的考察

    長谷正人

    年報人間科学(大阪大学人間科学部)   8 ( 8 ) 97 - 112  1987年03月

    DOI CiNii

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書籍等出版物

  • 村上春樹 映画の旅

    長谷正人( 担当: 分担執筆,  担当範囲: サブカルチャーとしての村上春樹と自主映画)

    フィルムアート社  2022年10月 ISBN: 4845921367

    ASIN

  • スペクタクル後 AFTER THE SPACTACLE 第14回恵比寿映像祭コンセプトブック

    長谷正人( 担当: 分担執筆,  担当範囲: 映像とスペクタクル)

    東京都写真美術館  2022年02月

  • X線と映画 医療映画の視覚文化史 (視覚文化叢書 8)

    望月 由紀( 担当: 監修)

    青弓社  2021年12月 ISBN: 4787274430

    ASIN

  • 映像が動き出すとき――写真・映画・アニメーションのアルケオロジー

    長谷正人( 担当: 編集)

    みすず書房  2021年11月 ISBN: 4622090546

    ASIN

  • 映画論の冒険者たち

    堀, 潤之, 木原, 圭翔( 担当: 分担執筆,  担当範囲: 「蓮實重彦」の項(122-133頁))

    東京大学出版会  2021年10月 ISBN: 4130830821

    ASIN

  • ヴァナキュラー・モダニズムとしての映像文化

    長谷 正人( 担当: 単著)

    東京大学出版会  2017年09月 ISBN: 4130033808

    ASIN

  • 作田啓一vs.見田宗介(第2章見田宗介における「相乗性」という限界─『近代日本の心情の歴史』を読み直す)

    奥村隆編( 担当: 分担執筆)

    弘文堂  2016年11月

  • 映像文化の社会学

    長谷, 正人( 担当: 編集)

    有斐閣  2016年10月 ISBN: 4641174245

    ASIN

  • ひとびとの精神史第7巻 終焉する昭和/1980年代(「宮崎駿─職人共同体というユートピア」担当)

    長谷正人, 杉田敦編( 担当: 共著)

    岩波書店  2016年02月

  • 全訂新版 現代文化を学ぶ人のために(第7章映像文化の三つの位相─見ること、撮ること、撮られること)

    井上俊編

    世界思想社  2014年08月

  • クイズ化するテレビ (青弓社ライブラリー)

    黄 菊英, 太田 省一, 長谷 正人( 担当: 共著)

    青弓社  2014年07月 ISBN: 4787233769

    ASIN

  • 敗者たちの想像力――脚本家 山田太一

    長谷 正人( 担当: 単著)

    岩波書店  2012年07月 ISBN: 4000244671

    ASIN

  • 横断する映画と文学(「第8章長谷川伸と股旅映画─映画を見ることと暮らしの倫理性をめぐって」を執筆)

    十重田裕一編

    森話社  2011年07月

  • 社会学ベーシックス別巻 社会学的思考(第13章物語と社会学的想像力 厚東洋輔『社会認識と想像力』)

    井上俊, 伊藤公雄編

    世界思想社  2011年05月

  • 映画というテクノロジー経験 (視覚文化叢書)

    長谷 正人( 担当: 単著)

    青弓社  2010年11月 ISBN: 4787272942

    ASIN

  • 文化社会学入門:テーマとツール

    井上, 俊, 長谷, 正人( 担当: 共編者(共編著者))

    ミネルヴァ書房  2010年10月 ISBN: 4623058247

    ASIN

  • 『日本映画は生きている 第3巻観る人、作る人、掛ける人』(「日本映画のポストモダン」を執筆)

    黒沢清, 四方田犬彦, 吉見俊哉, 李鳳宇編

    岩波書店  2010年09月

  • 大衆文化とメディア(叢書 現代のメディアとジャーナリズム4)

    吉見俊哉, 土屋礼子編, 第, 章 大正期日本における映画恐怖症─ジゴマ, 夢遊病, ごっこ遊び

    ミネルヴァ書房  2010年08月

  • コミュニケーションの社会学 (有斐閣アルマ)

    長谷, 正人, 奥村, 隆( 担当: 共編者(共編著者))

    有斐閣  2009年12月 ISBN: 4641123926

    ASIN

  • 社会学ベーシックス7 ポピュラー文化(第3章ポピュラー文化の神話学、バルト『現代社会の神話』を執筆)

    井上俊, 伊藤公雄編

    世界思想社  2009年05月

  • よくわかるメディア・スタディーズ

    伊藤守編

    ミネルヴァ書房  2009年03月

  • 『新たな地平を拓く研究者たち』(「オウムと震災後のメディア社会の中で息苦しさを超えて」)

    日経BP企画, 大学取材班

    日経BP  2008年12月

  • 社会学ベーシック1 自己・他者・関係(23章「メタ・コミュニケーション(ベイトソン『精神の生態学』)を執筆)

    井上俊, 伊藤公雄編

    世界思想社  2008年09月

  • 『明るい部屋』の秘密─ロラン・バルトと写真の彼方へ(「写真、バルト、時間」を再録)

    青弓社編集部

    青弓社  2008年08月

  • テレビだョ!全員集合―自作自演の1970年代

    長谷 正人, 太田, 省一( 担当: 共編者(共編著者))

    青弓社  2007年11月 ISBN: 4787232800

    ASIN

  • 女優 山口百恵(第2章 「『赤い』シリーズ──百恵神話の成立」を執筆)

    四方田犬彦

    ワイズ出版  2006年07月

  • 私の愛した地球博(コラム「大阪万博の記憶から愛知万博を考える」を執筆)

    加藤晴明, 岡田朋之, 小川明子

    リベルタ出版  2006年07月

  • 世界と僕たちの、未来のために 森達也対談集 (鼎談「われわれはいまだに<オウム事件>の渦中にいる」の再録)

    森達也

    作品社  2006年01月

  • 自己と他者の社会学(第10章「ヴァーチャルな他者とのかかわり」を執筆)

    井上俊, 船津衛

    有斐閣  2005年12月

  • 社会文化理論ガイドブック(執筆項目は「アウラの凋落」と「物語批判」)

    大村英昭, 宮原浩二郎, 名部圭一

    ナカニシヤ出版  2005年06月

  • 心霊写真は語る/(第2章「ヴァナキュラー・モダニズムとしての心霊写真」)

    一柳廣孝

    青弓社  2004年08月

  • 日本映画とナショナリズム1931−1945/(第10章「日本映画と全体主義:津村秀夫の映画批評をめぐって」)

    岩本憲児編

    森話社  2004年06月

  • 映画の政治学

    長谷 正人, 中村 秀之( 担当: 共編者(共編著者))

    青弓社  2003年09月 ISBN: 4787232207

    ASIN

  • 電子メディア文化の深層/伊藤守・小林宏一・正村俊之編(第2章「20世紀の映像文化とメロドラマ的想像力」)

    早稲田大学出版  2003年09月

  • 情報化と文化変容(「『絶対速度』の移動体験──情報化社会の映画をめぐって」を執筆)

    正村俊之編

    ミネルヴァ書房  2003年09月

  • アンチ・スペクタクル-沸騰する映像文化の考古学〈アルケオロジー〉

    長谷 正人(編訳, 中村 秀之(編訳, 中村, 秀之( 担当: 共編者(共編著者))

    東京大学出版会  2003年06月 ISBN: 4130802038

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  • 文化社会学への招待(第一章「遊び」をめぐる「離脱」と「拘束」;『丹下左膳余話・百万両の壷』をめぐって)

    富永茂樹他編

    世界思想社  2002年05月

  • 映像という神秘と快楽―“世界”と触れ合うためのレッスン

    長谷 正人( 担当: 単著)

    以文社  2000年12月 ISBN: 4753102149

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  • 臨床社会学を学ぶ人のために(「セルフヘルプグループの調査実習から:「個別的な苦しみ」をめぐる社会学の可能性」)

    大村英昭編

    世界思想社  2000年10月

  • 新版・現代文化を学ぶ人のために(第7章「映像化社会の成立と映画の変容」を執筆)

    井上俊

    世界思想社  1998年11月

  • 現代社会学 第8巻 文学と芸術の社会学(「overview 文学と芸術の社会学」を執筆)

    井上俊, 上野千鶴子, 大澤真幸, 見田宗介, 吉見俊哉編

    岩波書店  1996年09月

  • 社会学のすすめ (第2章「遊戯としてのコミュニケーション」を執筆)

    大澤真幸

    筑摩書房  1996年05月

  • 組織とネットワークの理論(『モグラとヘビ・・管理社会の歩き方』を執筆)

    宮本孝二, 森下伸也, 君塚大学編

    新曜社  1994年04月

  • 悪循環の現象学―「行為の意図せざる結果」をめぐって (リベラ・シリーズ (1))

    長谷 正人( 担当: 単著)

    ハーベスト社  1991年04月 ISBN: 4938551144

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共同研究・競争的資金等の研究課題

  • 「自撮り」のメディア文化史

    日本学術振興会  科学研究費助成事業

    研究期間:

    2021年04月
    -
    2024年03月
     

    長谷 正人, 菊池 哲彦, 前川 修, 加藤 裕治, 川崎 佳哉, 松谷 容作, 大久保 遼, 増田 展大, 角田 隆一

     概要を見る

    本年度は初年度であったため、「自撮り文化」について今後研究していくときの枠組みを参加メンバー全員で共有するために、①メディア研究をめぐる基礎的な文献の書評会と②自撮り文化に関するこれまでの優れた研究者をゲストに迎えての報告と議論、を行って、来年度以降の個々人の研究を進めていくための準備的作業を行った。
    【第1回】4月24日加藤裕治:『コンヴァージェンス・カルチャー』(ヘンリー・ジェンキンズ)前半書評会 【第2回】6月12日加藤裕治:『コンヴァージェンス・カルチャー』(ヘンリー・ジェンキンズ)後半書評会 【第3回】7月31日長谷正人:『テレビジョン』(レイモンド・ウィリアムズ)書評会 【第4回】10月23日溝尻真也報告「アトラクションとしてのビデオとそのイメージ」【第5回】3月5日久保友香報告「「自撮り」技術と若年女性の「盛り」コミュニケーション」
    上記のような日程で、全員が参加した研究会を行い、充実した議論が取り交わされた。第1回から第3回までの2冊の書評会では、メディア技術の社会のなかの位置付けについて歴史的にどういう議論が展開されてきたかが確認された。また第4回には、70年代ラブホテルにおいて性行為を自分たちでビデオカメラで撮影するという「自撮り」文化があったことが報告され、第5回には若い女性たちの自撮り文化のなかにおける作者と被写体の二重性について報告され議論が行われた。
    以上から、メディア文化が一方で作者の「エクスプレッション」(表現)でありながら他方で「コミュニケーション」ツールでもあるという二重性をどう捉えるかが今後の課題であることが確認された。

  • メディア文化における「孤独」の系譜

    日本学術振興会  科学研究費助成事業

    研究期間:

    2018年04月
    -
    2021年03月
     

    長谷 正人, 菊池 哲彦, 前川 修, 加藤 裕治, 川崎 佳哉, 松谷 容作, 大久保 遼, 増田 展大, 角田 隆一

     概要を見る

    2019年度は、下記のように全体会合を行った(第4回が3月末に予定されていたが、コロナ禍のために次年度に延期された)。第1回は7月20日(土)に長谷正人の報告で、小林康夫「大地論序説」(『表象の光学』所収、未来社、2003年)を取り上げて議論が行われ、第2回は9月28日(土)に増田展大の報告で「生命科学とメディア・アート」をテーマに議論が行われ、第3回は2020年1月11日(土)に菊池哲彦氏の報告で、Geoffrey Batchen,"vernacular photographies." In Each Wild Idea, 56-80. Cambridge: The MIT Press, 2002を取り上げて,それぞれ議論した。第1回では、アポロ宇宙船の飛行士たちが宇宙空間から地球を見た時の(ハイデガー的な大地から切り離された)神秘的な「孤独」体験が、パーソナル・コンピュータなど70年代以降のカウンターカルチャーの根底にあることが議論された。第2回では、そこから生まれた新しい生命思想と現代アートとの関係について議論した。この2回の会合で、メディア文化における「孤独」のありようを極限の形において議論し得たと私たちは考えたので、第3回はそうした近代的な「孤独」を浮かび上がらせるために、その正反対の「ヴァナキュラー」(土着的)な写真文化(農家の居間に掲げられる先祖の遺影など)について議論することにした。ヴァナキュラーな写真文化の一つの形として孤独の文化もあるはずだ。私たちの研究会は、社会学者と美学者の共同研究という形をとっている。「孤独」の文化を探究していくと、個人の「美学」の方向にたどり着くしかないので、「ヴァナキュラー」という概念を導入することで社会生活の「社会学」を導入し、改めてその接点を探る議論を展開していくことにした。メディア文化における「孤独」の探求を議論していくことの困難さに行き着いたため、議論の枠組みを「ヴァナキュラー」概念を導入することで作り直しているところである。またその最中に、コロナ禍で研究会が延期になったためやや最終年度の議論を急がなくてはならないと考えている。オンライン研究会の導入などによって、今年度は昨年度の研究枠組みの変更についてさらに議論を深めていきたい。もっとも、新しいキーワードとしての「ヴァナキュラー文化」は、参加研究者たちがこれまで押し進めてきた研究テーマなので、それほどの難しさもなく、議論に取り入れていけると思う。出版社(東京大学出版会)の編集者もすでに本研究に興味を示して参加しており、あと3年続けることができれば研究成果を出版できると考えている

  • デジタル化時代における映像文化の日常的変容

    日本学術振興会  科学研究費助成事業

    研究期間:

    2015年04月
    -
    2018年03月
     

    長谷 正人, 菊池 哲彦, 前川 修, 加藤 裕治, 松谷 容作, 大久保 遼, 増田 展大, 角田 隆一

     概要を見る

    近年におけるデジタル・カメラやその周辺機器の出現は、人びとの間に、日常生活を自ら映像で記録し、保存し、インターネットを通して交換しあうといった、新しいメディア文化を生じさせつつある。本研究は、トム・ガニングによる最新の基礎的な映像理論の研究と社会学的な映像文化の実証的分析から、こうした映像文化と人間の関係の変化を捉えることを目的とした。そしてその関係の変化を捉えるために、人間がいかに映像を「見る」のかという従来の問題だけでなく、いかに映像を「撮る/撮られる」のかという新しい分析軸に加えた、重層的な視座からなる映像研究の可能性について考察した

  • テレビドラマとポストモダン社会

    日本学術振興会  科学研究費助成事業

    研究期間:

    2008年
    -
    2010年
     

    長谷 正人

     概要を見る

    山田太一のさまざまな作品を映像作品として見直し、さらに山田太一氏本人や関係者へのインタビューも行って、70年代から80年代にかけての日本のテレビドラマがどのようにしてポストモダン的なイメージ社会を準備し、そしていかにそれを「後衛」の視点から批判したかを明らかにした

  • テレビ文化のメディア史的考察

    日本学術振興会  科学研究費助成事業

    研究期間:

    2004年
    -
    2005年
     

    長谷 正人, 難波 功士, 北田 暁大, 丹羽 美之

     概要を見る

    本研究は、テレビの歴史を原理的に捉え直そうとする試みだった。そのとき分析のキーワードにしたのが、「文化」と「メディア」である。テレビは原理的には、この二つの極の間を揺れ動いてきた。一方でテレビはドラマやバラエティのように、「文化」として様々な「娯楽作品」を提供し続けた。だが他方でテレビは、そうした「作品」や「娯楽」であるだけでなく、何かの出来事を伝達するための「メディア」でもあり続けた。ケネディ大統領の暗殺事件の報道から衛星中継が始まったことに象徴されるように、テレビはさまざまな出来事を「生中継」してきただろう。そこではテレビは、「作品」である前に、自らを透明なメディアとして、現在の出来事を視聴者に伝達する役割を果たしてきた。本研究は、このテレビの二つの可能性(文化/メディア)が、相互に拮抗しあいながらどのようにテレビ文化の歴史を形作ってきたかを分析した。とりわけ私たちは、こうした「文化」と「メディア」が緊張を持って交錯していた時代としての1970年代のテレビのありように注目した。1980年代のテレビを見直してみると、「元気が出るテレビ」のように、自作自演的な要素が視聴者に自覚されている「メディア」的な番組が主流になる。逆に60年代まで遡って見ると、そこには「夢であいましょう」のように、「文化」としてのテレビ番組がはっきりと見えてくる。しかし70年代にはテレビのメディア性が製作者に自覚されているにもかかわらずに、それが相変わらず文化としての相貌を持って作られていたとしか思えないのだ。それを資料の分析だけでなく、露木茂氏や山田太一氏や小谷秀穂氏などへのインタビューを通して明らかにしたのが本研究である

  • ドキュメンタリー・バラエティ番組のメディア史的考察

    日本学術振興会  科学研究費助成事業

    研究期間:

    2002年
    -
    2003年
     

    長谷 正人

     概要を見る

    近年流行のドキュメンタリーバラエティ番組(アメリカでいうリアリティTV)は、「出演者」という問題を前景化したテレビ番組である。これが本研究のとりあえずの結論である。70年代までのテレビ番組は、「製作者」のものであった。いかに優れた番組が作られるかが人々にとって論じるべきことであり、出演者や視聴者は二次的な問題にすぎなかった。それに対して80年代に前景化されたのが「視聴者」の問題だった。「スチュワーデス物語」に代表されるように、製作者の意図とは距離を置いたところで、「視聴者」が解釈することによって番組のありようが決定される。そのような製作者と視聴者の微妙なずれでゲームが行われたのが80年代のテレビバラエティだった。これらに対して、『未来日記』や『あいのり』に代表される近年のドキュメンタリーバラエティ番組は、製作者の意図とも、視聴者の解釈とも違うところで、出演者がどのような役割を果たしているかが実験的に探求されたのである。メッセージの透明な伝達者ではなく、製作者の意図とも視聴者の欲望ともずれた不透明な身体を持った出演者。それはスターともアイドルともまったくちがう様態で私たちの社会に現れただろう。たとえば80年代のアイドルから90年代以降の女子アナへとテレビの主役が変わったことは、その典型的な徴候である。その出演者の不透明な身体からメディア社会の自閉性の向こう側を見通そうとしたのが、これらの番組だろう。しかしその自閉性は崩されないまま、テレビのシステムが出演者さえも飲み込んでしまったのが現代の状況である

  • 1920-40年代日米における映画検閲の比較社会学的研究

    日本学術振興会  科学研究費助成事業

    研究期間:

    1999年
    -
    2000年
     

    長谷 正人, 加藤 幹郎

     概要を見る

    本研究成果のポイントは、映画検閲を、単なる権力による表現の抑圧の問題としてではなく、より広い社会学的パースペクティヴのもとに持ち出して分析したことにある。つまり検閲をめぐる従来の常識的な議論は、映画検閲を行政機関と映画作家との間に生じる、思想や性表現をめぐる対立と抑圧の問題として考えてきただろう。このような問題がハリウッド映画産業や日本においてどのように生じたかは、既に加藤も長谷も既存の研究で明らかにしてきた。これに対してここでは新たに、検閲をより広く、社会的言説の複合的な闘争の場における政治問題として検討した。例えば長谷は論文「フィクション映画の『社会性』とは何か」において、『国民の創生』という映画が、社会的言説によってどのように人種差別映画というレッテルを貼られ、様々な内容の批判を浴び、黒人団体による上映中止の運動を巻き起こしていったかを歴史社会学的に分析した。ここでは権力による表現の自由の抑圧という単純な図式では割り切れないものとして、映画の内容が公的上映に相応しいものかどうかが社会的な審判に付されていることが分かる。つまり行政機関が権力的に映画を検閲する以前に、社会的な言説の場において映画は一種の「検閲」を受けているのである。あるいは加藤は著書『映画とは何か』のなかにおいて、ハリウッドの主流派映画とは全く異なる黒人向け映画の、スペクタクル的な様式について分析した。ここにも黒人観客による受容の様式が一種の社会的「検閲」として、黒人映画の内容を決定していたことが確認できるだろう。つまり検閲は、社会的言説が様々に錯綜する場における熾烈な文化闘争の場のなかで、社会的に生じてくるものなのである。こうした認識を前提にしてはじめて、検閲を根源的に批判するような視点が開けてくるはずである

  • クイズ形式の文化についての歴史的・比較文化的研究〜テレビ番組を中心に〜

    日本学術振興会  科学研究費助成事業

    研究期間:

    1998年
    -
    2000年
     

    小川 博司, 石田 佐恵子, 長谷 正人, 川崎 賢一, 河原 和枝, 遠藤 知巳, 岡田 朋之

     概要を見る

    近年、現代メディアを取り巻く文化は、世界的な広がりを見せ、急速に変化している。だが、日本においては、その文化の具体的なありようや展開、日常生活に及ぼす影響などは十分に明らかになってはいない。本研究は、「クイズ形式の文化とその歴史的な変化から見る現代生活の諸相」に焦点を当て、メディア社会における文化のありようを明らかにしようとしたものである。本研究の目的は大きく分けて3つある。第1に、歴史社会学的観点からクイズ形式の文化が社会の中にどのように出現し、広がっていったかを明らかにすることである。第2に、歴史的な観点から描き出されたクイズ番組の変遷、クイズ文化の浸透に並行して、人々の日常生活における知識や情報のあり方の変化を明らかにすることである。第3に、アメリカ文化の強い影響を受けて導入されたクイズ形式の文化が、当初の輸入物の文化のありようを越えて、日本文化の一部として定着する際に、どのような形で加工され、「日本文化」化されたのか、明らかにすることである。具体的な作業としては、ラジオ時代のクイズ番組、テレビ時代のクイズ番組のデータを収集しデータベース化するとともに、クイズ番組関係者からのヒヤリングを行った。それらと並行して、アメリカ合衆国における「クイズショー・スキャンダル」についての検討、日本のクイズ文化について専門家からのヒヤリングなど、クイズ文化の歴史をどのように見るかの検討を積み重ねた。ここから、「高度情報社会」と呼ばれる現代の日常生活における知識や情報のおかれた意味について明らかにする、さまざまな知見が得られた

  • 映画館の社会的機能に関する研究

    日本学術振興会  科学研究費助成事業

    研究期間:

    1995年
     
     
     

    長谷 正人

     概要を見る

    本研究によって明らかになった最も重要な点は、1980年代におけるビデオ産業の隆盛とミニシアターブームが日本の映画館のありようを劇的に変化(衰退)させて来たということである。この時代以降、盛り場における「シンボル」としての映画館の存在感はどんどんと低下していくことになる。従って、現代日本人に「映画館体験」に関するアンケート調査を試みても、映画館はどこかノスタルジックな雰囲気を持った場所としてのみ回顧されてしまう。また、名画坐社長へのインタビューは、この変容において大資本が果たした役割を明らかにしてくれた。つまり、それまでの映画館が制作会社(東宝・松竹・・)の系列館か、そこから一定の自立性を保った名画坐のどちらかだったのだが、1980年代になると西武・東急といったデパートの大資本がこの映画館経営に参入してきて、「ミニシアター」ブームを巻き起こしたわけである。また、レンタルビデオの隆盛は安い料金で映画を見ることを可能にした。こうして自立的上映者としての「名画坐」は経営が不可能になり、激減することになる。これが、1980年代以降、映画館に起きた変容である。この変容の過程において、観客たちが映画を見る経験はどのように変化したのだろうか。その変化の前触れとして私は、「ロッキー・ホラ-・ショー」というカルトム-ビ-の観客たちの独特のパフォーマンスに注目した。この映画の観客たちは、ただ受動的に映画作品を変容する聴衆ではなく、作品と同じコスチュームを纏い、スクリーンの前で同じ演技をしてみせ、観客全員でスクリーンに向けてセリフを叫んだり一緒に歌ったりしてみせる極めて能動的なパフォーマ-なのである。しかし、この能動的観客は奇妙なことに、予見不可能な他者の世界に自分を開いていくのではなく、自分に親しい予定調和的世界の中へ閉じ篭もっていくナルシシスティックな受動的観客とも言えるのではないか。これを私はソンタグの「キャンプ」概念を援用することで論じた

  • 芸術表現におけるイデオロギー:全体主義と文化

    日本学術振興会  科学研究費助成事業

    研究期間:

    1992年
    -
    1993年
     

    多木 浩二, 田中 日佐夫, 川端 香男里, 長谷 正人, 佐藤 和夫, 若桑 みどり, 大室 幹雄

     概要を見る

    20世紀の政治的歴史のなかで最も特筆すべき経験は、それが人類にもたらしたはかり知れない災いから言っても、「全体主義」であると言えよう。全体主義は、近代化の進展による共同体的統合の喪失のなかでクリティカルな問題として現れた、政治的形態(国家)と社会形態(大衆の生活意識)の不一致を解決しようとする企てであった。つまり全体主義は「国家と社会の完全な同一性」と定義される。われわれは、この全体主義をこれまでの研究のように政治体制として扱うのではなく、政治文化として扱うことを試みた。言わばそれは、全体主義を支配体制(国家)の側からではなく、その支配体制に組み込まれた大衆の意識、無意識の側から究明することである。われわれはそれを、思弁的に探究するというより、個々の状況(ナチズム、ファシズム、スターリニズム、天皇制)における個々の芸術やイメージ文化(建築、大衆雑誌、映画等)の分析を通じて検討する方法を選んだ。つまり全体主義のなかで、いかなる芸術形式が可能であったか、いかなる排除や、強制、いかなる迎合や利用が行われたかを細部に渡って眺めてみたのである。その結果は、個々に多様であるので、全体としての結論をここに書くことはできないが、しかし次のような共通の認識を得ることができた。つまり、全体主義文化の問題は、両大戦間期に発生したいくつかの政治体制にのみ当てはまる問題ではなく、近代の政治体制と文化との間につねに横たわっている問題だということである。例えば、ニューディール体制下の芸術家救済政策(WPA/FAP)を見ればわかるように、民主主義国家においてもある状況のなかでは芸術に社会性が要求され、おのずとイデオロギーを共有することが起きたのである。こうしてわれわれの研究は、近代社会の歴史をイメージ文化の側から探究するような、裾野の広い政治文化史の問題へと展開していくことを予感させることになった

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Misc

  • [鼎談]山田太一の季節

    長谷正人, 頭木弘樹, 岡室美奈子

    ユリイカ(2024年4月号 特集:山田太一)   56 ( 5 ) 162 - 177  2024年04月

    その他  

  • 山田太一ドラマとは何だったのか~ディスカッション・ドラマと底流の孤独と

    長谷正人

    GALAC    2024年04月

    その他  

  • 「絶望」パスタとテレビの希望

    長谷正人

    フリースタイル   ( 57 ) 13 - 15  2023年10月

    その他  

  • 「大人こそ、やるべきよ」

    長谷正人

    フリースタイル   ( 55 ) 5 - 7  2023年04月

  • On Curling’s Ritualistic Culture and its Social Media Fan Culture

    Masato Hase (translated by Xavi Sawada)

    Discuss Japan:Japan Foreign Policy Forum   ( 71 )  2022年08月

    記事・総説・解説・論説等(その他)  

  • 時評:儀礼的文化としてのカーリングとSNSを媒介したファン文化

    現代スポーツ評論   ( 46 ) 145 - 152  2022年05月

  • 土着と記号の狭間で─前川修『イメージのヴァナキュラー ─写真論講義 実例編』を読んで

    長谷正人

    UP   49 ( 8 ) 44 - 48  2020年08月

  • 書評 光岡寿郎・大久保遼編『スクリーン・スタディーズ――デジタル時代の映像/メディア経験』

    社会学評論   70 ( 4 ) 413 - 414  2020年

    書評論文,書評,文献紹介等  

    DOI

  • レヴュー 北浦寛之『テレビ成長期の日本映画─メディア間交渉のなかのドラマ』

    長谷正人

    映像学   ( 102 ) 212 - 215  2019年07月

  • レヴュー Miriam Bratu Hansen, Cinema and Experience: Siegfried Kracauer, Walter Benjamin, and Theodor W. Adorno, University of California Press, 2012

    長谷 正人

    映像学   94 ( 94 ) 61 - 65  2015年05月

    DOI CiNii

  • 大量消費社会とパーソナル文化

    長谷正人

    世界思想   ( 42 ) 18 - 22  2015年04月

  • 「男・健さんどこへ行く」─任侠映画以降の高倉健

    長谷正人

    ユリイカ2月号   47 ( 2 ) 88 - 96  2015年02月

    CiNii

  • お茶の間に仕掛けたメディア的“罠”

    長谷正人

    寺山修司の迷宮世界(洋泉社MOOK)     80 - 83  2013年05月

  • ドラマご馳走主義の作家

    長谷正人

    文藝別冊 木皿泉 物語る夫婦の脚本と小説(河出書房新社)     133 - 139  2013年04月

  • 川田耕著 『愛の映画──香港からの贈りもの』

    長谷 正人, 川田 耕

    ソシオロジ   58 ( 2 ) 127 - 137  2013年

    CiNii

  • テレビ時代の映画──木下惠介のテレビ作品を歴史的に位置づける

    長谷正人

    NFCニューズレター   ( 105 ) 3 - 5  2012年10月

  • 日常的体験としてのテレビドキュメンタリー

    長谷正人

    neoneo   ( 1 ) 30 - 31  2012年09月

  • 書評 蓮實重彦『映画時評 2009−2011』

    長谷正人

    映画芸術   ( 440 ) 149 - 150  2012年07月

  • 概観2011年(映像)

    長谷正人

    文藝年鑑2012     130 - 133  2012年06月

  • 山田太一、あるいは「愚痴の公共圏」の可能性

    長谷正人

    ユリイカ   44-5 ( 5 ) 97 - 104  2012年05月

    CiNii

  • 現代落語という矛盾─落語的な「弱い生」をめぐって

    長谷正人

    ユリイカ(特集立川談志)   44-2 ( 2 ) 186 - 196  2012年02月

    CiNii

  • 映像のフィジカル─飼いならせない野性の映像のために(対談)

    諏訪敦彦, 長谷正人

    第4回恵比寿映像祭「映像のフィジカル」カタログ     12 - 29  2012年02月

  • 敗者の想像力─脚本家山田太一(第21回)終りに見た街

    長谷正人

    GALAC   172 ( 507 ) 38 - 41  2011年09月

    CiNii

  • 敗者の想像力─脚本家山田太一(第20回)本当と嘘とキツネ

    長谷正人

    GALAC   170 ( 505 ) 40 - 43  2011年07月

    CiNii

  • 敗者の想像力─脚本家山田太一(第19回)テレビの声を捜して

    長谷正人

    GALAC   169 ( 504 ) 36 - 40  2011年06月

    CiNii

  • 敗者の想像力──脚本家山田太一(第16回)キツネに化かされる話

    長谷正人

    GALAC   166   36 - 39  2011年03月

  • メディアはなぜあるのか

    長谷正人

    マス・コミュニケーション研究   ( 78 ) 3 - 18  2011年01月

  • 敗者の想像力──脚本家山田太一(第13回)「想い出づくり」、キャラが立つこととリアリズム

    長谷正人

    GALAC   ( 162 ) 36 - 39  2010年11月

  • 敗者の想像力──脚本家山田太一(第11回)輝きたいの

    長谷正人

    GALAC   ( 160 ) 36 - 40  2010年09月

  • 画面が切り開く「遊動空間」の可能性(書評・中村秀之『瓦礫の天使たち』せりか書房』)

    長谷正人

    図書新聞   2983   8  2010年09月

  • 「ヴァナキュラー・イメージ」と「メディア文化」─シミュラークルとしての「ルー大柴」をめぐって

    長谷正人

    SITE/ZERO ZERO/SITE   ( 3 ) 124 - 133  2010年06月

  • 敗者の想像力─脚本家山田太一(第九回)不機嫌なドラマ

    長谷正人

    GALAC   ( 157 ) 38 - 41  2010年06月

  • 「アウトレイジ」に至る北野武/ビートたけしの軌跡

    長谷正人, 轟夕起夫

    キネマ旬報   ( 1559 ) 34 - 45  2010年06月

    CiNii

  • 敗者の想像力ー脚本家山田太一(第八回)敗者の逆転劇

    長谷正人

    GALAC   ( 156 ) 36 - 39  2010年05月

  • 敗者の想像力─脚本家山田太一(第七回)不条理劇が終わった後を描くドラマ

    長谷正人

    GALAC   ( 155 ) 36 - 39  2010年04月

  • 敗者の想像力─脚本家山田太一(第五回)敗戦国日本の旅路

    長谷正人

    GALAC   ( 153 ) 36 - 39  2010年02月

  • 『あいのり』は「やらせ」か─テレビが作り出す純粋な恋愛

    長谷正人

    新鐘   ( 76 ) 39 - 40  2009年11月

  • 書評・上野昴志『紙上で夢みる 現代大衆小説論』(清流出版)

    長谷正人

    キネマ旬報   ( 1546 ) 154  2009年11月

  • 敗者の想像力─脚本家 山田太一(第二回)「敗者」としてのテレビ脚本家

    長谷正人

    GALAC   177 ( 149 ) 38 - 41  2009年10月

    CiNii

  • 敗者の想像力─脚本家 山田太一(第一回)

    長谷正人

    GALAC   ( 148 ) 32 - 35  2009年09月

  • ジオラマ化する世界3(「モネの庭」)

    長谷正人

    写真空間   ( 3 ) 137 - 145  2009年05月

  • 「表話」としての映画批評─神話化の危険には注意すべき(書評・蓮實重彦『映画論講義』東大出版)

    長谷正人

    図書新聞   ( 2900 )  2009年01月

  • 虚構とアイロニーの80年代(対談)

    大澤真幸, 長谷正人

    大航海   ( 68 ) 72 - 93  2008年09月  [査読有り]

  • ジオラマ化する世界2(『父親たちの星条旗、あるいはジオラマの内と外)

    長谷正人

    写真空間   ( 2 ) 169 - 179  2008年09月  [査読有り]

  • ビートたけし(21世紀の冒険者48)

    長谷正人

    daiaries(ダイアリーズ)   ( 1 ) 108  2008年08月

  • 想像力の「飛躍」を迫る(万田邦敏監督『接吻』評)

    長谷正人

    図書新聞   ( 2826 ) 8  2008年03月  [査読有り]

  • ジオラマ化する世界 1(カール・エイクリー/杉本博司の生態ジオラマ)

    長谷正人

    写真空間/青弓社   ( 1 ) 215 - 224  2008年03月  [査読有り]

  • 社会学から見た70年代注目の理由(インタビュー)

    長谷正人

    宣伝会議   ( 737 ) 34 - 35  2008年03月  [査読有り]

  • 複製技術という問題と高級/大衆芸術としての映画─竹峰義和『アドルノ、複製技術へのまなざし』書評

    長谷正人

    表象   ( 02 ) 281 - 288  2008年03月

  • 機械的反復としてのエックス線写真

    長谷正人

    d/sign(デザイン)/太田出版   ( 15 ) 88  2007年12月

  • 『文化の社会学』をめぐって(下)

    佐藤健二, 吉見俊哉, 長谷正人

    書斎の窓   569 ( 569 ) 2 - 12  2007年11月  [査読有り]

    CiNii

  • 『文化の社会学』をめぐって(上)

    佐藤健二, 吉見俊哉, 長谷正人

    書斎の窓   568 ( 568 ) 2 - 10  2007年10月  [査読有り]

    CiNii

  • 分野別研究動向(文化)──「ポストモダンの社会学」から「責任と正義の社会学」へ──

    長谷正人

    社会学評論 (日本社会学会)   57 ( 3 ) 615 - 633  2006年12月  [査読有り]

  • 創造とは何か?──フーコー、キアロスタミ、デリダ

    長谷正人

    Mobile Society Review(未来心理)/モバイル社会研究所   ( 8 ) 4 - 11  2006年12月  [査読有り]

  • トリックスターになった前衛写真家『カメラになった男──写真家 中平卓馬』

    長谷正人

    美術手帖/美術出版社   58 ( 887 ) 170 - 171  2006年10月  [査読有り]

  • マンガ研究と映画研究

    長谷正人

    日本映像学会会報(展望)   ( 136 ) 3  2006年10月

  • テレビはジャーナリズム論では語れない(書評ヒューマイルズ『アルジャジーラ 報道の戦争』光文社)

    長谷正人

    d/sign(デザイン)/太田出版   ( 12 ) 146 - 147  2006年03月

  • <表現>としての犯罪対策へ:われわれは、いまだに<オウム事件>の渦中にいる

    大澤真幸, 長谷正人, 森達也

    劇場文化(財団法人静岡県舞台芸術センター)   ( 8 ) 84 - 124  2005年05月  [査読有り]

  • 写真、バルト、時間:『明るい部屋』を読み直す

    長谷正人

    d/sign(デザイン)/太田出版   ( 10 ) 99 - 103  2005年04月  [査読有り]

  • 映画、小津、時間(3)

    長谷正人

    UP/東京大学出版会   34 ( 388 ) 38 - 42  2005年02月

    CiNii

  • アニメーションという思想ー宮崎駿試論

    長谷正人

    早稲田大学大学院文学研究科紀要   第50輯第1分冊   83 - 96  2005年02月

    CiNii

  • 映画、小津、時間(2)

    長谷正人

    UP/東京大学出版会   34 ( 387 ) 46 - 50  2005年01月

    CiNii

  • 映画、小津、時間(1)

    長谷正人

    UP/東京大学出版会   ( 386 ) 48 - 52  2004年12月  [査読有り]

  • 書評・阿部嘉昭『68年の女を探して:私説・日本映画の60年代』(論創社)

    長谷正人

    図書新聞   ( 2697 )  2004年10月  [査読有り]

  • 「切り返し」の想像力の発見:100年前の映画をめぐって

    長谷正人

    d/sign(デザイン)/太田出版   ( 8 ) 121 - 123  2004年07月

  • 日本映画とナショナリズム1931−1945/(第10章「日本映画と全体主義:津村秀夫の映画批評をめぐって」)

    岩本憲児編

    森話社    2004年06月

  • アフォーダンス理論のパフォーマンス

    長谷正人

    d/sign(デザイン)/太田出版   ( 7 ) 76 - 78  2004年05月

  • ブックデザインになにが可能か

    ミルキイ・イソベ, 祖父江慎, 長谷正人, 鈴木一誌, 戸田ツトム

    d/sign(デザイン)/太田出版   ( 7 ) 164 - 173  2004年05月  [査読有り]

  • 「痕跡」と「指差し」─写真の訳の分からなさをめぐって

    長谷正人

    木野評論/青幻社   35 ( 35 ) 48 - 55  2004年03月

    CiNii

  • 映画にとって細部とは何か;リュミエールと宮崎駿をめぐって

    長谷正人

    d/sign(デザイン)/太田出版   ( 6 ) 91 - 94  2004年02月

  • レイアウトとしての映画;時間的想像力の可能性をめぐって

    長谷正人

    d/sign(デザイン)/太田出版   ( 5 ) 106 - 109  2003年10月  [査読有り]

  • intermedia——メディアと芸術の相関を思考する (第1巻5章「記憶と忘却の経験としての映画」)

    早稲田大学メディアデザイン研究室, 映像コミュニケーション研究所

    トランスアート社    2003年10月  [査読有り]

  • 複製というアウラ;ベンヤミン、笠智衆、グールド

    長谷正人

    d/sign(デザイン)/太田出版   no.4   68 - 73  2003年05月  [査読有り]

  • クイズ文化の社会学(コラム「テレビ番組の『形式』としてのクイズ」を執筆)

    石田佐恵子, 小川博司編

    世界思想社     108 - 109  2003年03月  [査読有り]

  • テレビ世界の生態学的観察者;ナンシー関の倫理をめぐって

    長谷正人

    トリビュート特集 ナンシー関/河出書房新社    2003年03月  [査読有り]

  • テレビ出演という謎:『未来日記』試論

    長谷正人

    現代風俗学研究/社団法人現代風俗研究会東京の会   ( 9 ) 20 - 25  2003年03月  [査読有り]

  • 書評・荻野昌弘編著『文化遺産の社会学:ルーヴル美術館から原爆ドームまで』

    長谷正人

    社会学評論(日本社会学会)   53 ( 4 )  2003年03月  [査読有り]

  • 書評 舛本直文『スポーツ映像のエピステーメー』

    長谷正人

    スポーツ社会学研究(日本スポーツ社会学会)   11 ( 11 ) 134 - 136  2003年03月

    CiNii

  • 夢としての資本主義──ハリウッド映画の魅力とは何だったのか

    長谷正人

    早稲田学報    2003年03月  [査読有り]

  • テレビは外延化しつづけるフレームである(鈴木一誌によるインタビュー)

    長谷正人

    d/sign(デザイン)/丸善   ( 3 ) 54 - 63  2003年01月  [査読有り]

  • 二0世紀の映像文化:「エジソン的回帰」をめぐって

    長谷正人

    映画学/映画学研究会(早稲田大学文学部演劇映像研究室内)   ( 16 ) 2 - 8  2002年12月

    CiNii

  • 情報学辞典

    吉見俊哉他編

    弘文堂    2002年06月  [査読有り]

  • 文化社会学の社会学的責任とは何か

    長谷正人

    TASC MONTHLY   ( 317 ) 4 - 9  2002年05月  [査読有り]

  • 「文化」のパースペクティヴと日本社会学のポストモダン的変容

    長谷正人

    文化と社会/マルジュ社   ( 3 )  2002年04月  [査読有り]

  • 映像の社会学・再考:黒澤明の『羅生門」をめぐって

    長谷正人

    社会学年誌(早稲田社会学会)   ( 43 ) 5 - 22  2002年03月  [査読有り]

  • カメラの存在論

    長谷正人

    「写真の会」会報   ( 50 ) 2 - 10  2001年09月  [査読有り]

  • 物語、あるいは映画の柔らかい肌

    長谷正人

    物語の風俗(現代風俗研究会年報)/河出書房新社   ( 23 ) 114 - 125  2001年09月

  • 書評・黒沢清『映画はおそろしい』

    長谷正人

    文学界 2001年5月号     313 - 315  2001年04月  [査読有り]

  • フィクション映画の「社会性」とは何か:D.W.グリフィスの『国民の創生』をめぐって

    長谷正人

    社会学年誌(早稲田社会学会)   ( 42 ) 131 - 146  2001年03月  [査読有り]

  • 映画の政治学・再考;『国民の創世』の受容をめぐって

    長谷正人

    立教アメリカン・スタディーズ(立教大学アメリカ研究所)   ( 23 ) 85 - 106  2001年03月  [査読有り]

  • 伊奈正人『サブカルチャーの社会学』(世界思想社)

    長谷正人

    ソシオロジ/社会学研究会   ( 140 )  2001年02月

  • <観客>のゆくえ(森直人編『21世紀/シネマX』)

    長谷正人

    フィルムアート社     130 - 133  2000年12月

  • チーム・プレイのドキュメント(ハワードホークス論)

    長谷正人

    月蛙(子供社)   ( 2 ) 85 - 91  2000年04月  [査読有り]

  • 新・社会人のための基礎知識101(65「生きがいの探求」を執筆)

    樺山紘一編

    新書館     154 - 155  2000年04月  [査読有り]

  • 現代若者考④ケータイ

    長谷正人

    カルチャーちば/千葉市文化振興財団   ( 41 ) 98 - 99  2000年03月  [査読有り]

  • 現実構成主義から遠く離れて

    長谷正人

    ソシオロジ/社会学研究会   ( 137 )  2000年02月  [査読有り]

  • テクノロジーの経験としての映画:戦争、全体主義、そして生命のリズム

    長谷正人

    月蛙/子供社   ( 1 ) 80 - 93  1999年10月  [査読有り]

  • 映画哲学1〜10

    長谷正人

    ロゴスドン/ヌース出版会   33号から42号まで連載  1999年07月

  • 社会福祉辞典(「遊び」「ダブルバインド」「無意識」など10項目を執筆)

    庄司洋子, 木下, 康仁, 武川, 正吾, 村正之

    弘文堂    1999年05月

  • 韓国における日本映画開放によせて;国際評価とナショナル・アイデンティティーを手がかりに

    長谷正人

    国際交流(国際交流基金)   ( 83 )  1999年04月  [査読有り]

  • 現代若者考③コンビニ

    長谷正人

    カルチャーちば/千葉市文化振興財団   ( 40 ) 98 - 99  1999年03月  [査読有り]

  • 『学問の鉄人が贈る14歳と17歳のBOOKガイド』(蓮實重彦『監督小津安二郎』の紹介を執筆)

    河合塾編

    メディアファクトリー     25  1999年01月  [査読有り]

  • The Origins of Censorship:Police and Motion Pictures in the Tisho period

    Hase Masato

    Review of Japanese Culture and Society   10 ( 10 ) 14 - 23  1998年12月

    CiNii

  • The Origins of Censorship:Police and Motion Pictures in the Tisho period(「検閲の誕生」の英訳)

    Hase Masato

    Review of Japanese Culture and Society/城西国際大学   ( 10 ) 14 - 23  1998年12月

  • The Origins of Censorship:Police and Motion Pictures in the Tisho period

    Hase Masato

    Review of Japanese Culture and Society   10 ( 10 ) 14 - 23  1998年12月  [査読有り]

    CiNii

  • 亜細亜 映画 研究; 歴史 美学 正体性 産業(The Identity of Japanese Cinemaを執筆)

    韓国映画学会編

    Good Living(Korea)     273 - 288  1998年11月  [査読有り]

  • リュミエール兄弟のアルケオロジー

    長谷正人

    CineMagaziNet!(http://www.cmn.hs.h.kyoto-u.ac.jp/NO2/Default2.htm)   ( 2 )  1998年06月

  • 書評 上野昴志『映画全文 1992−1997』

    長谷正人

    映画館へ行こう!(えとしっく)   ( 14 ) 131 - 133  1998年06月

  • 書評 矢谷慈國著『賢治とエンデ : 宇宙と大地からの癒し』

    長谷正人

    社会学評論/日本社会学会   49 ( 1 ) 138 - 140  1998年06月

  • 現代若者考②カラオケ

    長谷正人

    カルチャーちば/千葉市文化振興財団   ( 39 ) 82 - 83  1998年03月

  • 映画観客の「笑い」について

    長谷正人

    現代風俗学研究   ( 4 ) 74 - 76  1998年03月

  • Cinemaphobia in Taisho Japan :Zigomar,Delinquent Boys and Somnambulism

    Masato Hase

    ICONICS   4 ( 4 ) 87 - 101  1998年03月  [査読有り]

    CiNii

  • 社会学文献辞典(クラカウアー『カリガリからヒットラーまで』の項を執筆)

    見田宗介他編

    弘文堂    1998年02月  [査読有り]

  • 現代若者考①プリクラ

    長谷正人

    カルチャーちば/千葉市文化振興財団   ( 38 ) 82 - 83  1997年09月

  • <シリーズ対談=人間と看護を考える>こころとからだ 遊びと効用(1)(2)

    藤村正之, 長谷正人

    看護展望(メチ”カルフレンド社)    1997年07月  [査読有り]

  • 現実性のスペクタクルとドキュメンタリー映画

    エリザベス・カウイ

    Documentary Box(山形国際ドキュメンタリー映画祭事務局)   ( 10 ) 1 - 8  1997年06月  [査読有り]

  • 書評 加藤幹郎『映画ジャンル論』・『映画 視線のポリティクス』

    長谷正人

    映像学/日本映像学会   ( 58 ) 110 - 115  1997年05月

    CiNii

  • 社会学小事典・新版(「意図せざる結果」「ベートソン」「ミミクリー」を執筆)

    濱嶋朗, 竹内郁郎, 石川晃弘

    有斐閣    1997年01月  [査読有り]

  • リュミエールの考古学

    長谷正人

    映像学(日本映像学会)   55号  1996年11月

  • 映像のオントロギー(1)−(40)

    長谷正人

    Internet photo Magazine(http://www.ipm.jp/ipmj/back.html)に毎月連載    1996年08月  [査読有り]

  • ブックガイド 20世紀のアート&テクノロジー50冊(ベイトソン『精神の生態学』の項目を執筆)

    長谷正人

    intercommunication/NTT出版   ( 17 )  1996年07月

  • 眼の規律

    長谷正人

    imago(イマーゴ)/青土社   5 ( 10 ) 284 - 285  1994年09月

  • 第二次世界大戦下のアメリカ映画と映画の情報メディア化;『われらなぜ戦うか』をめぐって

    長谷正人

    平成5 年度科学研究費補助金( 総合研究A) 研究成果報告書『芸術表現におけるイデオロギー;全体主義と文化』     41 - 54  1994年03月  [査読有り]

  • ヴァーチャルじいさん笠智衆

    長谷正人

    imago(イマーゴ)/青土社   5 ( 10 ) 187  1994年01月

  • フーコー・ドゥルーズ・ユーモア

    長谷正人

    ブリーフサイコセラピー研究/亀田書店   ( 2 )  1993年07月  [査読有り]

  • 書評 井上俊『悪夢の選択』

    長谷正人

    ソシオロジ(社会学研究会)   38 ( 1 ) 79 - 86  1993年05月

    DOI CiNii

  • 新社会学辞典

    森岡清美, 塩原勉, 本間康平編

    有斐閣    1993年02月  [査読有り]

  • 『主体』のパラドックスと『遅れ』の意識・・・近代の時間意識をめぐる一考察

    長谷正人

    ソシオロジ(社会学研究会)     3 - 12  1993年02月  [査読有り]

  • 視姦された映画とマゾヒズムのまなざし・・・バルト/ ドゥルーズの映画鑑賞

    長谷正人

    imago(イマーゴ)/青土社   3 ( 12 ) 188 - 196  1992年10月  [査読有り]

  • 書評・盛山和夫,海野道郎編『秩序問題と社会的ジレンマ』

    長谷正人

    理論と方法(日本数理社会学会)   7 ( 2 ) 141 - 144  1992年

    CiNii

  • ユートピア世界としての「男はつらいよ」

    長谷正人

    『男はつらいよ 寅次郎の告白』劇場用パンフレット    1991年12月

  • 言語行為論、現実構成主義、家族療法

    長谷正人

    現代のエスプリ(至文堂)   ( 287 ) 41 - 48  1991年06月  [査読有り]

  • 行為の意図せざる結果 (2)

    長谷正人

    千葉大学教養部研究報告   ( A-22 ) 173 - 202  1990年03月  [査読有り]

  • 行為の意図せざる結果 (1)

    長谷正人

    千葉大学教養部研究報告   ( A-21 ) 107 - 135  1989年03月  [査読有り]

  • 書評 作田啓一・井上俊編『命題コレクション・社会学』

    長谷正人

    ソシオロジ   32 ( 1 ) 98 - 101  1987年05月

    DOI CiNii

  • &lt;死&gt; の象徴論的考察

    長谷正人

    年報人間科学(大阪大学人間科学部)   ( 8 ) 97 - 112  1987年03月

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現在担当している科目

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特別研究期間制度(学内資金)

  • 映像文化の比較社会学的研究

    2007年04月
    -
    2008年03月

    アメリカ   なし

他学部・他研究科等兼任情報

  • 商学学術院   商学部

  • 文学学術院   大学院文学研究科

  • 附属機関・学校   グローバルエデュケーションセンター

特定課題制度(学内資金)

  • デジタル化時代における映像文化の日常的変容

    2014年  

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     本研究の目的は、映像テクノロジーの出現が人間の社会生活をいかに文化的に変容させたかを多角的に明らかにすることである。従来の映像文化研究や映像メディア研究は、写真、映画、テレビの諸作品をメディウムごとに分析するか、それらがいかに社会を表象しているかを分析するものが多かった。&nbsp; しかしデジタルカメラやその周辺機器の出現と普及は、映像文化と人間との関係を根本的に変化させ、社会のなかに、日常生活を自ら映像で記録し、保存し、インターネットを通して交換しあうといった、新しいパーソナルな映像文化を生じさせつつある。 従って映像文化の分析は、人間がいかに映像を「見る」のかという従来の問題だけでなく、いかに映像を自ら「撮る/撮られる」のかをも分析の対象に加えなければならないだろう。本研究はそうした新しい映像研究を社会学的に展開していくための、基礎的な理論研究と現状の分析を目指して行われ、本年度はとくに基礎研究にウェイトを置いて、トムガニングの「動き」をめぐる研究と、ハンセンのベンヤミン論を中心に検討した。

  • デジタル技術時代の映像文化に関する研究

    2011年  

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     デジタル映像時代の映像文化とは何か。私は、その問題を主としてテレビやインターネットの映像の現況を調査することによって明らかにした。ちょうど2011年3月11日には、東日本大震災が起きた。この震災とは何かをいま考えるときに、社会的に普及したパーソナルなデジタルメディアによる無数の津波映像を抜きにして考えることはできないだろう。私たちは津波から避難しようとする人々が、自からその逃げる途中でデジタルビデオカメラを回して捉えた、リアルな津波の映像を見たのだ。そこには、津波のザーッという音、木材が何かにぶつかって折れながら立てるメリメリっといった音、周囲から上がる悲鳴や叫び声などが収められていた。それは、客観的・俯瞰的な視点から見た津波ではなく、ごくパーソナルな視点から体験された見たことのないような迫力ある映像だった。 それは、デジタル技術時代の映像文化とは何かを教えてくれる、きわめてシンボリックな映像だったと思う。従来における事件や災害や出来事の体験は、一般性と個別性に分けることができた。今回でも基本的にはそうだ。個々の被災者にとっての津波体験は、それぞれにとって固有の避難所生活や津波の恐怖や肉親や知人の死であった。もしテレビジョンやネットが見られない状況であれば、助かった被災者は津波の全体像を知らずに、たいした津波ではなかったなと思うかもしれない。それに対して、マスメディアは客観的な映像で出来事を知らせる。911のツインタワーの映像のように、ビルへ飛行機が突っ込む瞬間を遠くから傍観するのが、一般性を持った出来事の映像だった。例えばヘリコプターから捉えた津波が畑を飲みこむ映像が今回の一般的津波映像だった。 しかし今回私たちはそれだけでなく、テレビの報道を通して、東北の様々な地域の人々が、それぞれにデジタルカメラで捉えたパーソナルな映像を、東日本大震災という抽象的な出来事の概念に沿って組み立てて、被害の全体をイメージするような新しい体験をした。それは、津波の個別的な体験をモザイク状に組み合わせて作られる一般的な津波イメージと言えるだろう。このようなパーソナルな映像が組み合わさって出来事の一般的なイメージを構築するのが、デジタル技術時代に映像文化の一つの特徴であろう。

  • テレビ・メディアへの文化論的アプローチ

    2006年  

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    現代社会は、テレビ・メディアの作り出すイメージに覆われている。2006年の不二家問題で彼らの衛生管理の不備を嘆いた人間は、誰一人として不二家のケーキをまずいと思ったり、不二家のケーキでお腹を壊したりしたような具体的経験を持ったわけではないだろう。自らの生活のなかで具体的に困ってもいないことを、メディア空間の情報を通して「けしからん」と道徳的に語ることほど、抽象的で空疎な事態はないのではないか。しかし間違いなく、そのような空疎なメディア空間によって私たちの現在の生活は作られている。このようなシミュラークルとしてのテレビ生活空間が成立しはじめたのが1970年代である。だからこそ、この時代のテレビ(製作者も視聴者も出演書も)がいかなる変容を起こしてシミュラークル化したかを見直さなければならないのだ。60年代まではアメリカのテレビドラマなどを通して、自分たちの生活の外を夢を見るメディアであったはずのテレビが、70年代になると自分たちの日常生活それ自体を夢として作り変えるような倒錯的な作業を行うようになる。たとえば脚本家・山田太一によるドラマ『岸辺のアルバム』という傑作では、変態的ないたずら電話を通して主婦・八千草薫は、未知の男、竹脇無我との不倫の世界へといざなわれていく。そこには一軒家で孤独に送る日常生活労働の反復退屈さを否定し、逆に生活をファンタジー化しようとする彼女の欲望が渦まいていただろう。そして事実私たちは山田太一の予言した道を通って日常生活を抽象的なファンタジー空間(シミュラークル)にしてしまった。そのとき私たちはそこで「退屈な日常生活」を失ってしまったのではないか。退屈という贅沢の喪失。いつも面白いことが起きてないといけないという強迫的観念。テレビメディアを分析することは、この閉塞空間を打ち破って、「退屈な日常生活」を思い出すことでなければなるまい。

  • ドキュメンタリーバラエティー番組におけるリアリティ感覚の変容

    2001年  

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    ドキュメンタリー・バラエティ番組は、テレビというメディアを新しい段階へと押し進めつつある。これまでのテレビは「映画」のフィクション性に対する未練のようなものを持っていた。だから「ドラマ」が重要な地位を占めてきたわけだし、クイズ番組などのバラエティ番組やニュース番組からドキュメンタリー番組においても「台本」による構成が重要な役割を果たしてきた。しかしここに来てテレビというメディアは大きな変容を見せつつあるといえるだろう。いまやテレビにおいて中心的な役割を占めているのは、スポーツ中継や地震情報などの生放送による映像伝達番組である。つまりテレビはいま「フィクション」であるという見せかけを取り払って、ただの通信機械であるという本性をあらわにしつつあるのだ。しかしでは全てを生放送にするかというと、そのように単純な変化が起きているわけでもない。メディアであるということは、ただの単純な伝達ではなく(監視カメラ映像の生中継では視聴率はとれない)、必ず何らかの人為的な構成を伴って視聴者にメッセージを届けなければならない。あるいは事実として届いてしまうものだ。そこで情報バラエティ番組という奇怪な番組が成立することになる。かつてのワイドショーとも少し違って、芸能ネタもスポーツも政治・経済も全てが同じ「情報」として伝達されるような番組である。いわゆるニュースショーとワイドショーはほとんど区別がつかない同じこのジャンルを形成しつつある。 このようなテレビの動向をバラエティ番組において実践しつつあるのが、『ガチンコ』、『学校へ行こう』『鉄腕ダッシュ』『あいのり』などなどのドキュメンタリー・バラエティ番組といえるだろう。本研究においてはTBS系列の『ウンナンの気分はホントコ』という番組の1コーナーである『未来日記』に焦点をあてて分析した。われわれの分析によれば、この番組はテレビメディアが孕み持つ暴力性自体を主題にしたものである。まず素人の出演者たちは日記の指示に従うのだが、それは崖を100メートル登ったり、東京から軽井沢まで自転車で走らされたり、他の出演者を傷つけることを言わされたりといった酷い「暴力性」を帯びたものなのだ。この「暴力性」に苦しんだり、葛藤したりする出演者たちの姿に視聴者たちは否応なく自分の感覚を揺さぶられてしまう(ドラマに感動するのとは違う)。すると最後には製作者までもが、出演者の過剰な反応に感動して番組の方向性をますます暴力的なものに変えていく。それはとうとう元カップルを強引に復縁させるところまで行きつく。このような暴力性をメディアに振るわせることで、そのシステムに人々が従属していくのが『未来日記』をめぐる大衆文化現象だったといえよう。つまり人々はメディアにリアルな感覚を求めていったはてに「暴力」の問題に行きついたのだ。詳しくは下記報告書を参照されたい。

  • 1930年代日本映画の歴史社会学的研究

    2000年  

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     1930年代の日本映画を象徴するものは、いわゆる「明朗時代劇」と呼ばれるような、稲垣浩、伊丹万作、山中貞雄らの新しい時代劇の運動だったと言えよう。20年代後半には伊藤大輔らの悲愴な反英雄的時代劇や傾向映画的な趣を持った作品が隆盛だったのに対して、30年代には小市民的で庶民的な明るい時代劇が流行ったわけである。この劇的とも言える変化には、「検閲」の問題が絡んでいると思われる。むろん公権力は百姓一揆に仮託して反権力のメッセージを持った傾向映画をずたずたに切り裂いた。映画作家たちにとって、そのような抑圧的状況は表現の障害になったに違いあるまい。しかしこのような権力による目に見える抑圧だけでなく、映画作家の表現方法にとってより内在的な「検閲」もあったのではないか。それはチャンバラという暴力シーンに対する「検閲」なのだ。だからたとえば伊丹は、それまでの時代劇を「殺人映画」と呼んで批判しているし、稲垣はチャンバラは時代劇にとって盲腸のようなものだと否定している。つまり彼らは、それまでの時代劇がヒーローのアクションを売りにする「視覚性」の強い芸術だったのを否定して、セリフと人間心理を中心としたドラマへと変更させようとしたのである。したがって「傾向映画」から「明朗時代劇」への流れはたんに映画の「保守化」とだけ捉えられるべきものではない。たとえば「傾向映画」は強い視覚的効果によって観客をコントロールしようとした。メッセージとしては左翼的だったとしても、観客を統制したい欲望が孕まれているという意味では、それは全体主義的だったのではないか。したがって「明朗時代劇」は、20年代と40年代に挟まれて、観客をメディアによってコントロールしたいという欲望を宙づりしてみせた貴重な試みだったとも言えるのだ。むろんその試みは、40年代になって全体主義によって簡単に圧倒されてしまったとはいえ、そこにあった政治的可能性についてさらに考える必要があるだろう。