2024/04/26 更新

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ワダ シュウイチ
和田 修一
所属
文学学術院
職名
名誉教授

経歴

  • 1988年
    -
    2001年

    助教授、教授

  • 1974年
    -
    1988年

    厚生技官、室長

学歴

  •  
    -
    1974年

    東京教育大学文学研究科   文学研究科   社会学  

  •  
    -
    1971年

    早稲田大学   文学部   哲学科(社会学専修)  

所属学協会

  •  
     
     

    早稲田社会学会

研究キーワード

  • 社会学(含社会福祉関係)

 

論文

  • A paradigmatic analysis of rationality from the perspective of 'ikigai'.

    Shuichi Wada

    早稲田大学大学院文学研究科紀要   50輯・第1分冊   71 - 81  2005年03月

    CiNii

  • WASEDA CONFERENCE OF 'MODERNITY': COLLECTED WORKS ON CULTURAL AND SOCIOLOGICAL CONCEPTUALIZATION OF 'RATIONALITY'

    Shuichi Wada

       2004年03月

  • Waseda Conference of 'Modernity': Collected Works on Cultural and Sociological Conceptualization of 'Rationality'

    Shuichi Wada

    A Technical Report for the Special Research Projects, Waseda University    2004年03月

  • "Three cases of non-instrumental raionality: communitarian ideals, x-efficiency, and 'ikigai'"

    Shuichi Wada

    Waseda Journal of Asian Studies   23   1 - 52  2002年

  • 'A sociological inquiry into Communitarian ethos in American society in and after the 1980s'

    Shuichi Wada

    TCS International Conference 'METROPOLLIS'    2000年07月

  • 高齢者の生きがいと経済

    和田修一

    都市問題研究   56 ( 1 ) 48 - 60

  • 「近代社会における自我と生きがい」

    和田修一

    『社会学年誌』   41   3 - 14

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書籍等出版物

  • 「社会学者としてのエリアス−エリアス社会学の魅力」

    大平章編, ノルベルト・エリアスと, 世紀』

    成文堂  2003年

共同研究・競争的資金等の研究課題

  • 生きがいの意味の歴史的変化とわが国における近代的自己の形成過程

    科学研究費助成事業(早稲田大学)  科学研究費助成事業(基盤研究(C))

    研究期間:

    2006年
    -
    2007年
     

    和田 修一

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    H18年度における本研究では、(1)「生きがい」という語の用例採取を主として中期から末期の江戸時代の文学作品等に関して行い、さらには、(2)生きがいという語の意味変化に代表される日本人の価値意識の歴史的変化を定式化するための理論的枠組みを、西洋社会に関わる分析理論に依拠しつつもわが国独自の文化・歴史文脈の上で構築すべく試みた。そしてさらに、H19年度においては、それらの研究を引き継いで、(1)新たに明治初期の翻訳文学における「生きがい」の用例において意味の変化を捉え、その変化を促した要因を明らかにすべく、原著との比較を行った。(2)近代化の歴史をひとびとのアイデンティティの変化過程として捉える理論構築を、いわゆる「理念と利害の社会学」という視点から再定式化することを試みた。近代(modernity)という歴史概念を理解するためには、社会の近代的構造特性を明らかにすることに加えて、近代社会の構造を構築する(そしてまた、構築された近代的社会に適応しうる)人間類型の形成という側面からのアプローチも不可欠であることもまた周知の事柄である。本研究では、日本人の「いきがい」観念の変化に現れた内面性の変化を通して、この第二のタイプの近代社会論へ新しいパースペクティヴとしての「生き甲斐の社会学」構築を目指したものである。その社会学的理論構築のポイントは、社会構造と行為主体(の内面性)との間の関係を整合的に説明するための「論理」構造を見出すことに収斂されるのであるが、生き甲斐という日本的倫理観(それは、what makes life worth livingという倫理価値とも共有構造をもつのであるが)こそが正にこの論理構造を示唆しているのである。

  • アメリカ社会における「共産社会」思想興隆の社会・歴史的背景に関する研究

    科学研究費助成事業(早稲田大学)  科学研究費助成事業(基盤研究(C))

    研究期間:

    1998年
    -
    1999年
     

    和田 修一

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    コミュニタリアニズムは「哲学的・倫理学的理論」と「社会的イデオロギー」の2つに分けて考えることができる。前者の主たる対抗理論は「自由主義」思想であり、後者のそれは「リバタリアニズム」と呼ばれる社会・政治的イデオロギーである、と一応区分することが可能であろう。アメリカ社会におけるコミュニタリアニズム思想が1980年代に顕現化してきた社会・歴史的背景を、(比較)社会学の視点から明らかにするということが本研究の基本的問題関心であるが、特に「企業経営の思想」と「人生観」という2つの事象からその問題にアプローチしてきた。企業経営のイデオロギーの構成要因であるヒューマン・ファクターの取り扱い方に関しては、20世紀の企業社会においても時代に応じていくつかの変化の道筋を辿ることができるが、いずれの道筋も「自由主義」対「コミュニタリアニズム」という対抗関係として一般化しうる思想上の葛藤の影響を読み取ることができるのである。工業化の進捗にともなう企業規模の拡大が顕著になってきた19世紀から20世紀初頭にかけて、アメリカにおける企業経営の理想的思想は労働者の福祉をも保障しうる企業コミュニティを建設することに求められたといってよいだろう。こういった福祉企業主義の思想は、1930年代以降のマルクス主義的労働運動の脅威に晒されるものの、1940〜50年代に至るまでしぶとく生き残ったが、その後の経済・社会変動の中で福祉企業思想に代わって個人・自由主義が社会的影響力を増大してきたのである。今日のアメリカ社会の自由主義的傾向は(その歴史的・文化的起源を別にすれば)この時代に強化された結果なのであり、その行き過ぎを咎める社会的イデオロギーとしてのコミュニタリアニズムは、この時代に少年期を過ごした世代(いわゆる、ベビー・ブーム世代)の価値観・人生観を問い直すという性質をも有しているのである。

  • 「老い」のイメ-ジを決する社会・文化的背景に関する研究

    科学研究費助成事業(早稲田大学)  科学研究費助成事業(一般研究(B))

    研究期間:

    1990年
    -
    1991年
     

    和田 修一, 森 元孝, 犬塚 先, 山嵜 哲哉, 海野 和之

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    「老い」についての社会意識を分析する本研究においては、国際比較の視点から、わが国における「老い」イメ-ジの構造特性を明らかにした来た。1つには、わが国の文化的特性にもとづいてそれを見るとき、特に「パタ-ナリズム」の社会的位置づけの肝要であることを見出した。パタ-ナリズムは、部族長の有すべき1つの特性として、かつてはいすれの社会においても汎く見出された社会的価値であるが、近代化や工業化のプロセスの中で消滅もしくは変容せられて仕舞ったということが欧米社会の歴史的経足である。しかしわが国においては、その社会的基準のもつ影響力が依然として大きいことが、最大の特徴となっているのである。このことが「老い」についても極めて重大な性格づけを行っており、老人が示すべき特性としてのある種の人性特性を形作っているのである。2つには、リタイアメントの制度もまた汎く全世界において見出されるのであるが、わが国においては、かつての隠居制度を支えていた理念が残存していることがうかがえるのである。欧米社会においては、今日のリタイアメント制度は、人生の中で行われて来た労働奉仕に対する報酬として互酬に基づく制度となっているのであるが、わが国では経済水準での合理性では分り切れない敬老思想と不可分に結びついているのである。これ等はわれわれが明らかにしえた事柄のほんの一端であるが、われわれはさらに、こういったわが国社会の文化特性が、日本の日常生活の中で、どういう形態を伴って表われて居るかについて詳しく検討したのである。
    しかし一方で、いくつか取残し部分のあることも認めざるをえないのであるが、たとえば、デ-タ・ア-カイヴの構造を効率的なものにする工夫もさらに検討していかなければならない。また女性の老いについての研究も充分ではないであろう。

  • 社会構造および社会過程分析への教理的アプローチ

    科学研究費助成事業(東北大学)  科学研究費助成事業(総合研究(A))

    研究期間:

    1985年
    -
    1987年
     

    海野 道郎, 盛山 和夫, 白倉 幸男, 小林 純一, 和田 修一, 原 純輔, 山口 弘光, 平松 闊, 高坂 健次

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    社会構造モデル班と社会過程モデル班を基礎に後述のような研究課題を設定し, 研究分担者以外の協力も得て研究をおこなった. その成果は, 数理社会学会の機関誌『理論と方法』への投稿論文や, 論文集『数理社会学の展開』の収録論文となっている. 得られた主な知見などは, 次の通りである.
    1.理論と概念のフォーマライゼイション:階層意識の形成, 社会的分業, 結合定量の法則などについて, 定式化と検討をおこなった.
    2.社会的ジレンマの数理解析:共有地のジレンマに対する2種類の定式化が提唱される一方, 社会的ジレンマ(SD)に関する既存のモデル間の関係も明らかにされた. また, 実験研究によるSD解決の要因の探索や, 入会い地におけるSDの処理法に関する検討など, 実証的研究も進められた.
    3.社会的決定と公正:社会的決定(SDM)の歴史や社会学的意味, SDMの基礎となる公正の問題などについて, 理論的検討を加えた. また, 投票制度や入試制度の持つ問題点について, 具体的検討をおこなった.
    4.権力現象の数理的解析:権力現象一般を解明するための基礎的作業(概念や成立基盤など)をおこなった. また, 具体的な社会事象(組織内権力関係, 地域権力構造)についても数理モデルによる解析ないしその基礎作業をおこなった.
    5.社会ネットワークの理論と応用:社会構造解明のための理論的分析が, ネットワーク(とくに, 偏ネットモデルと交換モデル)を利用しつつおこなわれた.
    6.データ処理基礎論:従来の統計解析をただちには適用できない, ソフトデータ・非定型データ・歴史的データについて, 分析の可能性を検討した.

  • 現代日本のリスク社会化環境における共生社会論のあり方と実践方法に関する実証的研究

    科学研究費助成事業(早稲田大学)  科学研究費助成事業(基盤研究(C))

 

特定課題制度(学内資金)

  • ミクロ・マクロ・リンク説明論理に関する社会学的研究―世代階層論を中心に

    2013年  

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    社会学的分析方法論に関わる基本的な問題が、いわゆるmicro-macro linkであるが、この領域における新たな理論形成を目指す本研究は、J.コールマンの理論の問題点を補修することでその作業を進めている。すなわち、「任意の社会組織[制度]の成立、成長を説明するために必要なのは、人がそうするように動機付けられるにいたった経緯であり、そして、この誘因の相互依存システムが存続可能となった経緯である」(下線は和田。以下同様)という認識から出発し、ミクロな社会的交互作用の過程から創発的特性(パラメータ)である「規範」の生成過程を論じるというコールマンの理論構成である。すなわち、「規範は…ミクロ水準での目的的[効用の極大化]行為にもとづいていたものが、ある条件のもとでミクロからマクロへと移行して存在するようになったもの」であり、「規範が発生するためには、単純な二つの条件が揃って充たされれば十分である」とした上で、その条件としては、「効果的な規範に対する需要が生じるための条件」[いうなれば、創発的特性生成の必要条件]であり、そして「その需要が充たされるための条件(すなわち、効果的な裁可が働くための条件)」[同じく、十分条件]である、というアイデアである。この発想は、従来社会学の中で等閑視されがちであったspontaneous orderの発生機序から社会秩序の構造化を説明することを試みている点で魅力的なものであるが、しかしここで問題とすべきは、上記の「規範に対する需要が生じるための条件」(必要条件)と「効果的な裁可が働くための条件」(っ十分条件)のふたつの条件は次元のことなる事柄である、という認識が欠落していることである。すなわち、上記でいう必要条件は個別の動機づけから行われる主体間の相互行為の内的プロセスから生まれる要因(spontaneous order)であるが、十分条件は意図的に作られる制度(made order)であらねばならないということである。本研究では、このふたつの要因を連結する理論構造を、反事実的条件法の論理を適用することによって明らかにすることを試みた。 その際に着目した点は、A.スミスがspontaneous orderの成立条件として想定した要件がsympathyであり、その個人の内的・心理的要因がfair and impartial spectatorの存在条件へと転換する創発的プロセスの構造を明らかにする、という点である。そしてその際、この創発的プロセスには、全体社会に一般的適応されるような論理はありえずに、「市場」「組織」「コミュニティ」という少なくとも3つの社会的環境の中で特定化されていく必要がある、ということに着目した。特に、組織における権力による秩序形成論理ならびにコミュニティにおける親密性を媒体にした、fair and impartial spectatorとしてのwe-feelingの形成論理の構造を明らかにすることを試みた。

  • 「人生の意味」パラダイムによる社会学的合理性論の理論的検討と歴史分析への適用

    2005年  

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    ここでいう「人生の意味」パラダイムとは、行為論におけるひとつのパラダイムを意味する。パラダイムということばは従来、学術分析における理論的枠組みという意味で用いられてきたのであるが、本研究ではそれは同時に行為主体(エイジェント)が主観的に構成する(自他の)行為の意味解釈の枠組みという意味でも用いられている。こうした論点を意図的に採用する理由は、不確定な将来という状況におかれたエイジェントは、明確な形で定式化された目的関数の極大化を目指して行為するというよりは、自らの所有するパラダイムの中で価値整合的な決定を下していくものだ、と考えるからである。すなわち、不確定性の小さな状況に限って局所的に見れば人々は、追求する目的を達成する上で合理的な決定を行うと見なすことも可能ではあるが、しかしより一般的な行為状況は一定の条件化での目的関数の極大化として抽象化するためには余りにも不確定であり、こうした不確定性を想定することによってはじめて(利害関心とは矛盾することもある理念の追求動機とか倫理・道徳といった拘束要因の社会的必要性といった)社会学的現象を説明しうるのである。わが国の文化的文脈においては、こうした「人生の意味」パラダイムは「生きがい」ということばによって代表される価値、あるいは日本人の精神構造として理解されてきた。しかしながら、生きがいということばの特性やそれが指示すると考えられる日本人の精神構造に関しては、ある種の「哲学的」議論は少なからず行われてきたものの、行為論的な視点からする議論はほとんど皆無である。ましてや、それを上記のごとき行為のパラダイムとして位置づけるという試みはなされたことはない。そこで、本研究では、生きがいという日本人の精神構造を行為論の視点から明らかにするとともに、それを社会学的行為論のパラダイムとして想定したときの、その論理的構造について明らかにすることを試みた。

  • 「人生の意味」概念を中心とした再帰的近代化論の社会学的考察

    2004年  

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    本研究は「近代化」および「脱近代化」と呼ばれる歴史プロセスにおいて生じた・生じつつある、〈社会の制度的構造(変化)〉と〈価値イデオロギーの構造(変化)〉という2つの事象間の連関を因果的に説明する理論図式を構築することを目的にしている。この研究テーマは社会学において中心的な課題であると指摘されながら、(おそらくは、その難しさのゆえに)たとえばK.マルクスやM.ヴェーバーといった巨星の提示した古典的な社会学理論を大きく転換するような研究成果が必ずしもあがっていない領域である。ほとんど唯一の例外は、J.ハバーマスの「コミュニケーション的行為の理論」である。しかし、ハバーマスの理論は(広い意味での)経済活動と親和的である道具的合理性の価値基準の社会的位置づけを相対化し、それ以外の合理性基準として位置づけられる価値の類型を明らかにする上において優れた成果をあげているが、しかし一方でハバーマスは個人の意識の中で形成される〈合理性への個的指向性〉と全体社会において制度化される際の〈制度化原理としての合理性〉との間に生まれるパラドクスについて論じることがなかった。つまり、道具的合理性と非道具的合理性(ハバーマスの理論では〈コミュニケーション的合理性〉と呼ばれる)の間に生まれるパラドクスが、それらふたつの合理性基準の質的パラドクスから生じるものなのか、あるいはそれ以上に、いわゆる〈個と全体〉問題として概念化される問題構造に起因するかの判断が回避されているように思われるのである。つまり、道具的合理性と非道具的合理性の間のパラドクスは、個としての主体(エイジェント)が追求する道具的合理性と制度化の原理として制度構造の中に組み込まれた社会的次元での道具的合理性との間のパラドクスであるともいえるのである。というのは、個的主体が追求する道具的合理性はその主体の認識論理の全体を覆うものではありえず、彼は非道具的合理性という認識論理との間を行き来するからである。 この理論的問題は、米国と英国から社会学者を招いて5月に開催される研究会の中でさらに深く追求される。

  • 「人生の意味(生きがい)」論からする比較文化的アプローチ

    2003年  

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    本研究は、近代社会・脱近代社会を支える最も基本的な価値イデオロギーである「合理性」の解釈図式が、異なった文化的文脈の中で歴史的にどのように変化・変容してきたかについて比較文化社会学並びに歴史社会学の視点から明らかにすることを企図したものである。その研究の一環として本年度は、英国・米国・韓国・日本の4カ国から研究者の参加を仰ぎ、当該テーマに関する研究発表並びにそれに関する討論を行うべく会議を、2004年3月24日から26日にかけて、早稲田大学国際会議場第七共同研究室において開催した。発表者は、酒井直樹(米国、コーネル大学)、J. Gubrium(米国、ミズリー大学)、R. Boyne(英国、ダーラム大学)、J. Hughes(英国、ライセスター大学)、鄭昌秀(韓国、成均館大学)、朴吉清聲(韓国、高麗大学)、大平章(早稲田大学)、川崎賢一(駒澤大学)、岡本智周(早稲田大学)、和田修一(早稲田大学)の10名であった。発表された内容は以下のごとくである(発表の順序)。Modernity and the Specter of the West - Naoki Sakai, The Confucian Thought on Human Nature and Non-instrumental Rationality - Chang-Soo Chung, Modernity/Postmodernity in Context of Cultural Globalization: Reflexivity as Cultural Policies & NPO Information Strategy - Ken'ichi Kawasaki, Globalized Style of Historiographical Narration of Modernity - Tomochika Okamoto, Narrative Coherence in a Postmodern World - Jaber Gubrium, Reflexivity and Rationality - Roy Boyne, Enculturation of Korean Modernity in Hard Time - Gil Sung Park, Rationality as Coorination of Subjective and Objective Value Concsiousness: Its Japanese Case Viewed in a Perspective of Making Sense of Individual Life, 'Ikigai' - Shuichi Wada, The Sport of Japan in the Civilizing Process: Sportization and Pacification - Akira Ohira, Tobacco Use as a Civilizing Process: From Panacea to Pandemic - Jason Hughes。 討論内容で印象的な事柄をひとつだけあげれば、近代社会においてひとびとの内面性を理解するうえでの「心理学化」が共通理解の手がかりとして行われた結果、逆に「西洋的」「東洋的」価値的思考・志向への理解が希薄になったという現象への指摘である。

  • 「福祉資本主義」経営制度の盛衰と社会的性格の変容

    2001年  

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    1956年、W. H. Whyte Jr.はThe Organization Manを出版した。この著書は日本語にも翻訳され、『組織の中の人間』という名前で広く知られている。周知のごとく、この著述の中でホワイトは、(恐らくは、自分自身をも含めて)彼が見聞したアメリカ人の多くが大きな組織に雇われた勤労者として職業生活を過ごすことを余儀なくされており、そしてその結果として彼らの性格特性がオーガニゼーション・マンという言葉で代表されるような一様性を有しているのだ、ということを指摘している。ホワイトが観察したアメリカ人という存在は、第一次正解大戦や大恐慌の時代に少年時代をすごし、第二次世界大戦に従軍するという歴史的体験を経て、そして戦後のアメリカ社会に生活を営んでいた人々(世代)である。そして、ホワイトのオーガニゼーション・マンの出版から35年ほど経た1991年、P. LeinbergerとB. TuckerというふたりがThe New Individualism: The Generation After the Organization Manという著述を出版した。ラインバーガーとタッカーの本書は、その副題としている「オーガニゼーション・マンに続く世代」という表現から分るように、ホワイトが観察し分析したアメリカ人、「オーガニゼーション・マン」という表現によって表されたアメリカ人、の子どもの世代を論述の対象としたものである。オーガニゼーション・マンという特性を備えたアメリカ人を父親として生まれた次世代のアメリカ人が、その父親の世代と比較してどのような特性を示しているかについて論じたものである。オーガニゼーション・マンの子ども世代のなかには戦前・戦中生まれのアメリカ人も含まれるが、その多くは終戦直後のベビー・ブームのなかで生を受けた、いわゆる「ベビー・ブーム」世代のアメリカ人である。この世代のアメリカ人を特徴付ける事柄としてふたりの著者があげているのが、そのタイトルにある「新しい個人主義」という価値観である。そこで「新しい個人主義」という観点のもとに論じられている事柄は、それまでの個人主義とは質的に異なった価値イデオロギーが生まれたというよりも、従前の個人主義的価値をより一層極端化したという程度の問題であるが、しかし著者達は個人主義がさらに徹底することによって新しいアメリカ人の類型が誕生したのだと主張している。本研究では、こうしたアメリカ人の価値意識に関わる研究動向を、他の著述を参照することによって、より一層幅広く捉えることによって、その歴史的研究方法のもつ重要性を確認しかつこの視点から日本人の価値観の歴史的変遷について考察した。この研究の中で特に注目すべきは、彼らがアメリカ人の価値観の変化を企業組織の経営思想並びにそのスタイルの変化から説明しようとしていることである。上述したアメリカ人の有する価値観の変化の背景には、福祉資本主義という経営から市場原理に忠実な経営への変化が存在するということである。ラインバーガーとタッカーは、オーガニゼーション・マンの世代は戦後のアメリカ企業で起きた企業経営者の変節(福祉資本主義の放棄)によってその期待を裏切られたのであり、その息子たちにはこの裏切りを教訓としてその職業生活を設計するよう薫陶したのだ、と主張する。自らの生活を守るのは自らの力量に頼る以外にはないという思想が、今日のアメリカ人をさらに個人主義へと移行せしめたという主張である。いま、同じような現象が今日、日本の企業組織のなかで生じている。わが国の若い世代に見られる「個人主義」化もまた、これと同じ歴史的変化として捉えられる側面を有しているのである。

  • 戦後日本人の価値意識の変化と「生きがいブーム」

    2000年  

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     生きがいということばが今日のように人口に膾炙するようになったのは、決して古いことではない。それは、古く見積もったとしてもせいぜいが明治以降であり、しかも「ブーム」といってよいような広がりを見せた時期は終戦後のことである。そこで本研究では、生きがいということばの大衆化が戦後のわが国で生まれた歴史的ならびに文化的要因を明らかにした。 戦後わが国で生きがいということばが盛んに使われるようになった背景には、ひとつには、占領軍による日本社会の「民主化」がある。わが国に個人主義思想(あるいは、個人主義的な考え方)が本格的に移入されたのは明治以降である。しかし、その個人主義的思想はあくまでも外来の思想であり、そういった思想がわが国において一般化するためには戦前の日本人の志向性はあくまでも伝統墨守的であり、そしてまた政治制度をはじめとして諸種の制度はあまりにも集団主義的あるいは国家主義的であった。戦後、わが国の諸制度は占領軍による「民主化」と呼ばれる一方的改革を経て再構成されたのである。そしてこの改革が、その下で生活する日本人の価値志向生を、個人的自由の尊重や個人的価値判断の優先といった個人主義的思想基盤を日本人の意識の中に徐々に埋め込んでいったことは周知の事柄である。こういった個人主義的志向性が、自らの人生の意味を自らの欲求充足という視点から再確認する社会的許容性を生み出したのであり、その日本人の価値志向性の再構造化が「生きがいブーム」という社会現象として現出したのである。ふたつには、われわれは戦後の高度経済成長が日本人の生活意識に余裕を生み出したことを看過することはできない。生きがいブームが、1960年代というわが国の高度経済成長期に現われてきた現象であること、そして生きがいにかかわる内省的意識の働きは取敢えずは明日の食餌を煩う必要のない経済的ゆとりの存在を前提としていることを考慮するならば、戦後の高度経済成長によって日本人の経済生活に生まれたゆとりが大きな要因となっていることは容易に理解できるであろう。その後わが国の生きがいブームは、しかしながら、日本人一般の人生観の問題というよりは、高齢者の生活問題として社会的に規定されることになる。すなわち、70年代以降自治体の高齢者施策の柱として、老後の生きがいが行政施策の対象としてクローズアップされてきたのである。高齢者の生きがいへの関心は、第二の生きがいブームであったといってよいだろう。 生きがいという事柄がわが国においては社会的ブームとなったことにわが国の文化的歴史的特長が現われているように思われるのである。すなわち、生きがいが個人の自由で主体的な選択によって導かれる個人的人生の意味の確認と充足であるとするならば、それがブームとなり、また行政施策の柱とされるのは、わが国文化の中に定着した集団志向性あるいは集合的価値への一体化価値を背景として生まれた現象だからである。この点にもわが国文化の特性を明らかにするひとつの鍵が見出されるように思われるのである。

  • 自由論の文脈からする日本人の『生きがい』

    1999年  

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     「生きがい」という日本語のもつ意味的特性について、わが国における自由主義的理念の社会化という文脈に焦点を当てて、社会学の見地から考察した。その際、次の諸点に注目した。①1960~70年代の戦後日本では「生きがいブーム」が生まれていること。その生きがいブームが生まれるきっかけには、行政の「生きがい施策」(一種の福祉政策)の影響を指摘することができるが、そのブーム以降、生きがいという日本語が極めて大衆的なことばになったといってよいだろう。②日本人は、だれでもが生きがいということばの意味を理解し、かつ生きがいを持つことが自らの人生において価値あることだということを諒解していること。しかも、(今日の)生きがいの語義からして、何を生きがいとするかは個人の主体的な自由選択に委ねられていると理解されていることである。③日本語の生きがいということばは、『太平記』の中に用例が見出されるごとく、比較的古いことばであること。④生きがいの語義を歴史的に辿って検討するとき、そこには「ある個人の人生の(社会的な)価値」(意味A)と「個人の生きる張り合い(を感じる対象)」(意味B)という意味上の2つの中心点が含まれていること。以上の諸点である。 本研究から明らかにされたことは以下のごとくである。(a)日本語の生きがいは、明治以前と以降において、大きな意味的変換(Aの意味のみを有することばから、Bの意味を主たる意味とすることばへの変換)を経ていること。(b)生きがいの意味的変化は日本人の思考様式において大きな変化が生じた結果であると思われること。何故ならば、この意味的変化が生じたという歴史的事実は、Bの意味内容を表現する必要性が日本人の意識の中に新たに生じたことを推察させるからである。そして、この日本人の意識の変化は、日本社会の近代化過程の中で行われた西洋思想の移植に伴う日本人の個人意識の昂揚を背景にした価値観の変化なのである。

  • 先進社会における価値思想の変動と「福祉危機」に関する比較制度・文化的研究

    1998年  

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    福祉国家が今日その存立基盤をめぐる大きな歴史的転換点に直面していることは大方の指摘するところである。先進工業社会における福祉政策に見直しが迫られている最も直接的な原因は従来の福祉国家を支えてきた財政基盤が脆弱性を露呈し始めたことが指摘されているが、今日の福祉国家の直面する問題は単に経済状況が好転すれば自ずと解消されうるといった実行可能性(feasibility)に関わる性質の問題だけではない。それは優れて、社会正義に関わる「社会認識論」(social epistemology)という性質の問題でもある。つまり、そこで問われている問題は、社会正義の実現を与件としたうえでの個人の権利と責任性を問い直す(問題が「個人の権利と責任性を与件とした場合の社会正義」ではないという点に留意する必要がある)という問題である。福祉問題における社会正義とは分配正義のことに他ならないが、今日的な問題は、従来の経済拡大時代に当然視されてきた分配正義の理念(想)的基準(idealism)が経済効率等の機能的基準からする批判にさらされているという点に求められるだろう。たとえば年金問題において高齢者に配分される年金額の保護と釦ATG/]$G$"$j!"$=$N2者のあいだで行われる線引きを確定するうえで採用される基準は、高齢者の生活保障という理念的基準により重みを置いたものであるべきなのか、あるいは釦ATG/<T$NIiC4$N7Z8:$H$$$&5!G=E*4p=`$K$h$j=Eきを置いたものであるべきなのか、という決定の問題である。本研究では特に社会思想の歴史的変化の方向という文脈のなかで市民の合意形成をより容易にする制度のあり方に関する比較社会学的論点にたって問題を分析した。今回、日本とアメリカとのあいだの比較に焦点を絞ったが、アメリカにおける「コミュニタリアン」(共産社会主義運動)の考え方をわが国の福祉思想と比較した。

  • わが国における組織文化と階級構造に関する歴史社会学的研究

    1996年  

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     近代工業社会における階級・階層構造は、巨大企業組織内における階梯構造並びに組織間関係を律する市場構造に大きく依存することは大方の認めるところであるが、わが国におけるこの階級の構造原理を明らかにするためには、大規模組織の運営イデオロギーである「会社本位主義」ならびに「労使一体主義」という2つの社会的イデオロギーとの関連の中で考察する必要があるように思われる。なぜならば、ひとつの階級はそれ独自の階級文化(イデオロギー)を生み出すとするならば、わが国の場合には「社会的機能の面で、組織文化を凌駕しうる階級文化が存在するか否か」という存在問題がまず問われなければならないからである。 この問題に関して着目すべきいくつかの事柄が指摘できるが、ここでは「職業文化と組織文化の社会的影響力における相互連関」をみることによって得られた知見を述べる。あるひとつの組織が有する組織文化に対して職業文化は、市場構造の直接的な影響を受けたかたちでその内容が確定するユニバーサリスティックな特質・機能を有する文化であるわけだが、その相対的影響力は組織内の権力構造を正当化するためのイデオロギーの存在、並びにその機能の状態に依存している。さらに、その権力構造の正当化イデオロギーの存在・機能は、経済効率を高めるための勤労者労働の強制使用(expropreation)を正当化しうるイデオロギーの存在・機能に依拠している。わが国の歴史的文脈の中でとらえた場合、労使一体思想の成立と定着は単に文化的文脈の中だけでとらえきれるものではないが、たとえば英国・アメリカ等の社会ではその思想が戦後急速に衰退してきた事実と合わせて考えるとき一定の文化的背景を抜きにしては正しくとらえられないことも事実であることが問題とされた。

  • 家族主義イデオロギーの思想構造と社会的機能に関する歴史社会学的研究

    1995年  

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    わが国の近代化の歴史的プロセスのなかで官制のイデオロギーとして国民の思想・行動を全面的に支配してきた,いわゆる「家族主義的イデオロギー」に関して,その成立の歴史的背景・思想構造の特徴・わが国の近代化に及ぼした影響等を中心にして,かつアングロ・サクソン文化圏のなかで「パターナリズム」として同定されている価値思想の思想構造と社会的機能との議論を手がかりにして,歴史社会学の理論枠を用いて分析した。わが国の「家族主義イデオロギー」の社会的位置づけを英国におけるパターナリズムのそれと比較して考察するとき,次のような特性を指摘できることを明らかにした。いずれの場合にも,近代化のブロセスの中で助長されてきた社会・経済上の階級分化を「家父長制」を基礎にしたイデオロギーによって統合を計るという社会的役割期待に関しては共通しているのであるが,近代化の歴史的プロセスが大きく異なっていたことによって(わが国は英国から,例えば社会有機大説などを通して,そのイデオロギー形成においては非常に大きな影響を受けたにも拘わらず),社会通念として望ましい権威関係のあり方に関わる社会意識の構造上において,その後の社会構造化に関して無視しえない相違点を生み出した,ということである。 勿論,今時の大戦を境にして戦前の超精神主義的・超国家主義的家族主義イデオロギーはその制度的存続基盤を完全に失ったのではあるが,戦前の日本人の社会意識のなかに育まれた「権力へもたれ掛かることによって権力関係を望ましい方向へ誘導する」という支配構造における人間関係形成の戦略は、ある種の「国民性」として維持され続けているように思われるのである。こういったイデオロギーが,わが国の戦後の右肩上がりの経済成長を可能にしたひとつの要因でもあり,またその経済成長のなかで,内容の修正を迫られているというよりはむしろ強化されてきた,という側面も看過できない,ということも指摘しておきたいと思う。

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