後藤 乾一 (ゴトウ ケンイチ)

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所属

国際学術院

職名

名誉教授

経歴 【 表示 / 非表示

  •  
     
     

    早稲田大学 国際学術院   教授

所属学協会 【 表示 / 非表示

  •  
     
     

    植民地研究学会

  •  
     
     

    日本国際政治学会

  •  
     
     

    アジア政経学会

  •  
     
     

    東南アジア史学会

 

研究分野 【 表示 / 非表示

  • アジア史、アフリカ史

研究キーワード 【 表示 / 非表示

  • Modern History of Southeast Asia [Oriental History]

Misc 【 表示 / 非表示

  • 新南群島をめぐる1930年代国際関係史

    社会科学討究   42-3  1997年

  • Modern Japan and Indonesia

    Japan,Indonesia and the War(Peter Post ed.)/KITLV Press Leiden    1997年

  • Decolonization in Indonesia and Malaysia

    50 years after: The Close of the Pacific War Reexamined/ベルリン日独センター    1996年

  • 東南アジアの脱植民地化と地域秩序

    「終戦とアジア太平洋」国際会議/国際文化会館    1996年

  • 東南アジアにおける脱植民地化の比較考察

    社会科学討究/早稲田大学   41-3  1996年

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共同研究・競争的資金等の研究課題 【 表示 / 非表示

  • 日本のアジア認識・戦争認識

  • 戦後日本・東南アジア関係史

  • 東ティモール国際紛争史

  • 近代日本のアジア認識 戦後アジア太平洋国際関係史

特定課題研究 【 表示 / 非表示

  • インドネシア九月三○日事件をめぐる総合研究

    2012年  

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    本研究プロジェクトは発足以来、夏季および冬季休暇を除き以下のような形で月例研究会を実施してきた。大別すると本プロジェクトメンバー(協力者を含む)による研究成果報告、および外部関係者の講演・聞き取り調査からなる。以下では定例研究会の報告一覧、次いで全体的な所見を記しておきたい。2012年4月28日(土)報告:高地薫「インドネシア文学にみる9月30日事件」5月28日(月)報告:山本まゆみ「オーストラリア国立公文書館所蔵 9・30事件関係資料」6月22日(金)報告:山﨑功「いわゆる“3.11命令書”、"SUPERSEMAR"をめぐる近年の状況」7月27日(金)報告:吉野文雄「9・30事件の経済的意義:スカルノの理念とスハルトの政策」 日本・アジア関係研究部会と合同研究会9月29日(土)各メンバーの研究進捗状況報告10月19日(金)報告:Th. J. エルリーナ(インドネシア社会史研究所研究員)「村落近代化構想の破壊:北ボヨラリにおける1965年事件」11月10日(土)報告:高地薫「レフォルマシ以降の歴史教育における9月30日事件」12月19日(水)報告:波多野澄雄筑波大学名誉教授「佐藤政権のインドネシア援助と9・30事件」2013年1月12日・13日合宿(伊豆畑毛温泉 大仙家)各メンバーの研究進捗状況報告李榮端氏(台湾在住インドネシア華人知識人)講演「インドネシア華人としての個人史」3月30日(土)お話:大鷹正氏(元駐オランダ大使、9・30事件当時在インドネシア日本大使館勤務)以上にみるように、本研究プロジェクトは、インドネシアのみならず東南アジアひいては第3世界の国際関係に決定的ともいえる重要な変化要因を引き起こした1965年9月30日事件を、国内的諸要因、国際環境の中での事件の把握、の2方向から分析することを目的として発足した。最終的には2015年すなわち事件発生50周年に本テーマにかかわる国際会議を開催することを課題としているが、今年度は同事件が現代のインドネシア社会においてどのように歴史化・思想化されているかに着目した研究に重点を置いた。またそれとの関連で事件後大量の華人系インドネシア人が中国あるいは台湾に出国(亡命)したが、その間の事情を考察するため台湾在住の華人知識人を招へいし、長時間に及ぶ詳細な聞き取りを行った(ただし、まだ関係者が数多く存命するため本ヒアリングの成果は公表を控える前提でなされた)。それを受けて2013年度はアジア太平洋研究センター原口記念アジア基金を活用し春の連休を使い2名のメンバーが中国福建省の「華人村」に調査に出向くことが合意を見た。 9月30日事件は、日本のアジア外交にとっても大きな画期をなす事件であったが、この点については日本外交史の権威である筑波大学名誉教授・外務省外交史料館外交文書編纂委員会委員長の波多野澄雄氏から当時の佐藤政権の事件への対応について新公開の外交文書を用いての詳細な報告を受けるとともに、事件当時駐ジャカルタ日本大使館政務担当書記官であった大鷹正氏から臨場感あふれる講演をいただくことができた。これら日本との関係については、上記2報告を踏まえ現在さらなる研究を進めている段階である。 なお9月30日事件については、ジャカルタに拠点を置くインドネシア社会史研究所(ISSI)と密接な連携を図ることに先年合意ができている。同研究所は、インドネシアの社会史、特に口述資料を用いた研究の推進を目的として、2003年にジャカルタで設立された民間の研究機関であり、①研究・出版、②資料室、③教育の3活動を中心に取り組んでいる。特に、9・30事件に関しては世界的に最先端の研究を行っており、相互訪問による研究内容や資料の共有など本研究プロジェクトとの協力関係を築いているが、今年度はエルリーナ研究員が10月に日本を訪問し、本研究プロジェクトからは8月に倉沢・馬場の両メンバーが、9月には高橋がそれぞれジャカルタのISSIを訪問し、研究交流と資料の探索をおこなった。

  • 「大正デモクラットの国際交流」に関する予備的考察―大島正徳の事例研究―

    2003年  

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    大正デモクラット大島正徳(1880-1947)の思想と行動を一校校友会誌、内外教育評論、丁酉倫理講演集、帝国教育などの雑誌を利用し分析した。大島は哲学、倫理学の分野では知られているが、国際文化交流面での活動はほとんど知られることがなかった。とりわけ1937年7月東京で開催された第7回世界教育会議では事務総長として会議を成功に導いたが、この会議は日本が国際的な孤立化に進む中で開かれた最後の国際会議であった。欧米、アジア諸国など世界各国から900名近い教育専門家が参加し、教育を通じての世界平和の構築を議論した事実は、戦間期日本の国際交流を再検討するうえで貴重な意味を有している。本研究ではこの会議に関する一次資料を読み込むとともに、1923年以降の世界教育会議を跡ずけ、国際交流史におけるその位置ずけを試みた。また大島は、1935年に国際文化振興会の委嘱でフィリピンとの文化交流促進を協議すべくマニラを訪問している。アメリカからの一定の自治を認められた同国との文化面での交流は、日本の南進政策とも深い関係を持っていたが、日本・東南アジア交流史の中で特異な意味を有していることも無視できない。このような戦前期からのフィリピンとの関係を背景に、大島は開戦とともに蝋山正道、東畑精一、末川博ら当時の第一線の学者とともに比島調査委員会の一員としてマニラに長期にわたり滞在する。本研究では、このときの膨大な調査報告書を分析し、その歴史的な意味を探るとともに、大島のフィリピン認識の特質についても考察した。大島は、1925年に東京帝国大学教授を辞した後、東京市学務局長、帝国教育会専務理事などを歴任するが、その傍ら思想、文化、国際交流などの分野で膨大な量の著書、論文を発表している。これらの著作を分析し、忘れられた大正デモクラットとしての大島の役割とその時代的定位を考察することが出来た。

  • 「南方派遣宣教師」宮平秀昌の研究

    1996年  

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     本研究は沖縄県座間味島出身のキリスト者宮平秀昌の思想と行動を、次の二点から解明しようとするものである。(1)沖縄出身の一知識人の宗教観、国家観、アジア観、(2)日本・インドネシア関係史の中での「南方派遣宣教師」の役割とその評価 研究に際しては、宮平が一般的には無名の人物であるため御遺族や関係者とコンタクトをとることから着手した。幸い宮平夫人が病弱ではあるが記憶力も鮮明で、かつ相当な量に及ぶ関係資料を所蔵されており、その閲覧複写を許されたことは貴重な成果であった。なお宮平については同志社大学神学部の原誠教授の秀れた序説的先行研究があるが、同氏からはその他にも種々の御助言を頂くことができた。現在までに明らかにされた諸点について以下に個別に記しておきたい。 (1)昭和初期に蘭領東インド(現インドネシア)に伝道のため渡南した宮平は、キリスト者であると共に熱烈な日本主義者であり、そのことが主因となりオランダ植民地政府より追放処分を受ける(1938年)。沖縄出身であること、キリスト者であること、そして日本主義者であることとの関係を今後どのように解明していくか、大きな検討課題である。 (2)前大戦中の日本占領期に、宮平は海軍の委嘱を受けてキリスト教徒宣撫工作のためセレベス(現スラウェシ)に派遣される。ここでも、一方において軍部への協力という側面とキリスト者として現地キリスト教徒を日本軍の圧迫から保護するという役割の二重性を見出すことが可能である。 このように宮平秀昌はある意味で「矛盾」にみちた人物であり、今後はこれまで入手し得た資・史料を分析しながら、彼について複眼的な視点から考察を深めたいと考えている。