2024/04/19 更新

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オグラ キンイチ
小倉 欣一
所属
文学学術院
職名
名誉教授
学位
博士(文学) ( 早稲田大学 )

学歴

  •  
    -
    1959年

    早稲田大学  

委員歴

  • 2000年
    -
    2002年

    社会経済史学会  理事

  •  
     
     

    比較都市史研究会  幹事・編集委員

所属学協会

  •  
     
     

    比較都市史研究会

  •  
     
     

    日本西洋史学会

研究分野

  • 経済史 / 基礎法学 / ヨーロッパ史、アメリカ史

研究キーワード

  • 西洋史 西洋経済史 西洋法制史

  • European History European Economic History European Legal History

 

論文

書籍等出版物

  • 西欧中世史事典Ⅲ―王権とその支配ー

    共訳 ミネルヴァ書房  2013年

  • ドイツ中世都市の自由と平和ーフランクフルトの歴史からー

    勁草書房  2007年

  • 西欧中世史事典Ⅱ―ー皇帝と帝国ー

    共訳 ミネルヴァ書房  2005年

  • ヨーロッパの分化と統合ー国家・民族・社会の史的考察ー

    小倉編 太陽出版  2004年

  • 近世ヨーロッパの東と西ー共和政の理念と現実ー

    小倉編 山川出版社  2004年

  • マンフレート・グローテン、ニコラウス・クザーヌス 学生から枢機卿へ-中世後期知識人の人生行路と活動世界(共訳)

    八巻和彦・矢内義顕編『境界に立つクザーヌス』知泉書館  2002年

  • Kardinal Nikolaus von Kues und die Reichs-Wahlsfadt Frankfurt am Main : Die Pfarreiteilung und Judendiskriminierung auf seiner dentscher Legationsreise

    (uebert.v..C.Y. Jobst) in: Nicholas of Cusa . A Medievall Thinker for the Modern Age, ed. by K. Yamaki ,Guildford and King's Lynn 2002.  2002年

  • ニュルンベルク都市法、ハンザ、ライン都市同盟の結成

    ヨーロッパ中世史研究会編『西洋中世史料集』東京大学出版会  2000年

  • 西欧中世史事典-国制と社会組織ー

    ハンス・K・シュルツェ

    共訳 ミネルヴァ書房  1997年

  • ヨハン・フィッヒァルト小伝-近世都市フランクフルト・アム・マインの法律家-

    『歴史における法の諸相』敬文堂  1994年

  • 都市フランクフルトの歴史ーカール大帝から1200年

    ( 担当: 共著)

    共著 中央公論社(中公新書)  1994年

  • 帝国都市フランクフルトの参案人裁判所とオーベルホーフ機能

    杉山晴康編『裁判と法の歴史的展開』(敬文堂)  1992年

  • 皇帝・聖職者・都市参事会-フランクフルトのユダヤ人ゲットー建設をめぐって-

    比較都市史研究会編『都市と共同体』上巻(名著出版)  1991年

  • 中世ヨーロッパ都市と市民文化

    フリッツ・レーリヒ

    共訳 創文社  1978年

  • ヨーロッパ―その歴史と精神

    オットー・ブルンナー

    共訳 岩波書店  1974年

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Works(作品等)

  • 東アジアの歴史 その構築

    ラインハルト・ツェルナー著, 植原久美子訳 

    2009年
    -
    2013年

     概要を見る

    李成市と共同監修
    明石書店 初版2009年 重版2013年

  • 小倉欣一 年譜・主要著作目録

    史観 

共同研究・競争的資金等の研究課題

  • ドイツ中・近世都市と「戦争と平和」

    その他の研究制度

  • ドイツ都市史

    その他の研究制度

  • German Urban History

    The Other Research Programs

Misc

  • フェリチタス・シュミーダー、フランクフルトとマインツー中世の「帝国都市」と「司教都市」を比較するー

    シュミーダー フェリチタス, 小倉 欣一

    小倉訳 比較都市史研究   25-1 ( 1 ) 17 - 27  2006年

    DOI CiNii

  • ウルリヒ・ジーク、ユダヤ系歴史家とドイツ歴史学

    共訳 早稲田大学『西洋史論叢』   ( 第26号 ) 37 - 47  2004年

  • Warum interesisiert sich ein japanischer Historiker fuer die Frankfurter Stadtgeschichte ? - Vortrag beim Colloquium Reichsstadt Frankfurt am 3.September 2003-

    Kinichi Ogura

    早稲田大学『西洋史論叢』   ( 第29号(創刊25周年記念号) ) 83 - 93  2003年12月

  • Feldbauer,P., Mitterauer,M., Schwentker,W.(Hrsg.), Die vormoderne Stadt. Asien und Europa im Vergleich. (Querschnitte 10). Wien:Verlag fuer Geschichte und Politik; Muenchen:Oldenbourg 2002, Rezension

    Hessisches Jahrbuch fuer Landesgeschichte   Bd.53, /,436-439  2003年

  • 神聖ローマ帝国改造運動と帝国最高法院のフランクフルト設置

    平成13年度科学研究費補助金(基盤研究B)報告書『ヨーロッパ史における分化と統合の契機』(研究代表者 前田徹)     39 - 48  2002年

  • 中世社会の不自由---アルカイック期から開花期への移行における---

    カ-ル・ボーズル著、平城照介・山田欣吾・三宅立監訳『ヨーロッパ社会の形成』東洋書林     97 - 127  2001年

  • 枢機郷ニコラウス・クザーヌスと帝国・選定都市フランクフルト ‐教皇特派ドイツ巡察旅行における教区分割とユダヤ教徒識別をめぐって‐

    比較都市史研究   20-1, 13-20  2001年

  • マンフレート・グローテン「ドイツ都市史研究の新動向」

    比較都市史研究   19-2   35 - 40  2000年

  • マンフレート・グローテン「ケルンの驚嘆すべき偉大さについて」

    比較都市史研究   19-2   41 - 53  2000年

  • 盗賊騎士の名誉と帝国都市の自由―中世ドイツの戦争と平和をめぐって

    ヨーロッパの市民と自由―その歴史的諸相の解明/アジア太平洋研究センター・ヨーロッパ思想史部会編   pp.85-117  1999年

  • G.ケブラー,『ドイツ法史』

    共訳 成文堂    1999年

  • 暴力・平和・法-ドイツ中世都市の内と外に見る-

    G.ディルヒャー

    共訳 比較都市史研究   18;1,pp.15-23  1999年

  • 盗賊騎士の名誉と帝国都市の自由-中世ドイツの戦争と平和をめぐって-

    早稲田大学アジア大平洋研究センター・研究シリーズ42『ヨーロッパの市民と自由-その歴史的諸相の解明-』     85 - 117  1999年

  • ウルリヒ・ジーク著、東洋大学井上円了記念学術センター大学史部会訳、大学と哲学-マールブルク大学における哲学史

    理想社    1997年

  • 中世都市フランクフルトの領域政策

    史観   132   4 - 16  1995年

  • 中世都市フランクフルトの成立と市民の自由

    仲手川良雄編 ヨーロッパ的自由の歴史 南窓社     112 - 137  1992年

  • 15世紀ドイツ職人蜂起に関する一史料-フランクフルト市立文書館所蔵文書から-

    小倉 欣一

    東洋大学『経済論集』   16 ( 1 ) 101 - 112  1990年

    CiNii

  • 親方の同盟か職人の連帯か-帝国都市フランクフルト・アム・マインの内と外-

    社会経済史学   53 ( 3 ) 97 - 114  1987年

  • ドイツ中世都市の特徴づけ―比較封建社会論のためにー

    史観   ( 96 ) 49 - 57  1977年

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特定課題制度(学内資金)

  • 神聖ローマ帝国改革と帝国都市フランクフルト・アム・マイン

    2004年  

     概要を見る

    神聖ローマ帝国改革は、ドイツ中世・近世国制史研究の焦眉の論題であり、本研究は都市史の視点から新たな知見を求めるものである。13世紀の大空位時代以後、皇帝・国王は、聖俗諸侯、中・下級貴族、帝国都市と抗争しつつ、ラント平和の盟約を重ねた。皇帝マクシミリアン1世は1495年ウォルムス帝国会議で譲歩し、永久ラント平和令,帝国最高法院,平和と法の司掌,帝国一般税を承認し、帝国改革は進展した。とりわけ帝国最高法院は国王の親裁する王室裁判所を変革し、諸侯が優位に立ち、スタッフの半数を専門法曹から任官する新機関であり、帝国都市フランクフルト・アム・マインに設置されたが、1半後に早くもウォルムスに移転した。その事由は、まだ十分に解明されていない。 わたくしは、この問題こそ帝国と帝国都市の関係に注目し、帝国改革の実状を究明しうる事件であると考え、フランクフルト大学および市立都市史研究所(文書館)に赴き、ドイツ側研究者の助言と助力をえて、2001,2002年の予備調査の後、2003-2004年度の本特定課題に採用され、本格的に参事会議事録をはじめ、公刊・未公刊の史料・文献を収集し、解読にあたった。現在の成果として、ラント平和はこの名高い大市都市にとっても商業交易上の要件であるが、帝国枢要機関は帝国都市の自由と自治を侵すおそれがあり、しかも財源不足から裁判官と職員の給与の遅配、欠配が続いてその運営が困難となり、都市当局や市民に援助が要請され、悪評であった。他方でウォルムスは、司教の都市支配から解放されるため、帝国との緊密な結びつきを求めてその移転を歓迎し、皇帝もそれを望んだと、いえよう。その研究の過程で、近世帝国国制の確立を30年戦争期まで探求する必要を痛感し、フランクフルトでは16世紀の宗教改革と、シュパイアーに再移転した帝国最高法院でマインツ大司教と争った宗教改革訴訟、17世紀にはマティアスの皇帝選出と戴冠を契機とした大規模な市民反乱(フェットミルヒ反乱)と、皇帝権力の介入によるその鎮圧の事情を立ち入って調査できるよう、2004年度には改めてその史料・文献の収集をあわせ行い、その解明を始めており、これらの成果をもまとめて公表したい。

  • ドイツ中世都市の平和政策

    1999年  

     概要を見る

     中世ヨーロッパの都市は、市場が開設され、農村との分業関係にたつ商工業の立地であった。とりわけドイツでは、シュタウフェン朝後期から王権が衰退し、聖俗諸侯と貴族が勢力を増し、戦乱・抗争が絶え間なく、都市の住民は、生命・財産の保全と生業の維持のために、互いに兄弟となる誓約を交わして団結し、都市領主から種々の自由を獲得し、市民権取得者による共同体の自治を実現し、積極的に平和政策を展開した。 このような市民たちは、対内的には、参事会という立法・行政・司法の機関と、都市によっては独立の都市裁判所を設け、自ら都市法を定め、都市領主に法人格を承認させた。シュトラスブルクは、すでに最古の都市法(12世紀後半)の冒頭に有名な平和規定「市外者たると市内者たるとを問わず、全ての者は当市において、あらゆる時にあらゆる者から平和を守らなければならない」を掲げ、他の都市も市内では、血讐、フェーデ、その他の暴力行使を禁止し、処罰することによって平和領域の実現に努めた。 また対外的には、市門と見張塔を繋ぐ城壁を巡らし、武装自弁で市民軍を編成した。ライン河流域、ヴェッタアウ地域、シュヴァーベン地域、ザクセン地域などでは、しばしば都市同盟が結成され、有力な都市になると、周辺農村に所領を獲得し、都市領域の拡大を図った。商工業の発展にしたがい、都市は経済的に富裕な政治勢力となり、なかでも皇帝と帝国に直属する帝国都市は、帝国会議に出席を求められ、第一の選定侯、第二の聖俗諸侯に次ぐ第三の部会を構成し、帝国ラント平和令の審議に与り、ラント平和軍の主要な要員となった。傭兵と火器(銃、大砲)の導入による軍備の強化が、それに伴っていた。 中世都市の研究は、平和政策に注目し、これまでの社会経済史と国制史・法制史の視点に、新たに軍事史・戦争史の視点を加えるならば、いっそうの発展が期待できる。

  • 中世都市フランクフルトとライン・マイン地域の平和盟約(ラントフリーデ)

    1998年  

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     中世期後期の神聖ローマ帝国では、皇帝・国王の「帝国ラント平和」(Reichslandfriede)政策と諸侯の領邦支配権の確立をめざす抗争が続いた。そのなかで諸侯は帝国直属の都市を支配下に組み込もうとし、これらの「帝国都市」(Reichsstadt)は「自由」(Freiheiten、諸特権)を護り、政治的、経済的権益を維持・拡大しようと努め、都市同盟を結成し、諸侯のみならず、下級貴族とも対決した。下級貴族は、14世紀の経済危機のなかで貧困化し、「名誉」(Ehre、対面)を保つため、騎士同盟に結集し、しばしば「盗賊騎士」(Raubritter)となって近隣農村で略奪、放火、殺害を働き、通商路を襲い、都市に対してもフェーデ(Fehde)権を行使したからである。 フランクフルト・アム・マイン(Frankfurt am Main)は、大市交易の繁栄によって帝国最大の商品市場となり、1356年カール4世の金印勅書で国王の選挙地と定められ、この皇帝が入質した都市代官職を1372年に請戻して自立性を高め、有数の「帝国自由都市」(Freie Reichsstadt)となった。しかし、1381年ライン・マイン地域を中心とする獅子騎士同盟の攻撃に対してライン都市同盟を更新し、シュワーベン都市同盟が諸侯と対決した「都市戦争」にも援軍を送ったが、1388年シュトゥットガルトとヴォルムスの郊外で敗退した。1389年国王ヴェンツェルがエガー帝国議会で盟約したラント平和令を発布し、都市同盟と諸侯・騎士同盟の廃止を決めた直後、タウヌス山地のクロンベルク城の奇襲を企て救済の騎士軍に惨敗し、市長をはじめ大勢の捕虜の身代金と多額の戦争損害賠償金の支払いに追われた。10年後の1399年、帝国ラント平和令を犯した騎士ハルトマン・フォン・クロンベルクの居城タンネンベルク(オーデンヴァルト)に対する諸侯の共同攻略に参加を求められ、市民軍が山上に運搬した「大火砲」が威力を発揮し、城を粉砕し、多数の捕虜を捉え報復を遂げた。それは、都市の経済力による強力な破壊兵器の導入の成果であった。これらのフェーデは、中世世界の二つの勢力の対決であり、騎士の「名誉」と市民の「自由」をかけた闘争は最終局面に入り、戦争と平和の問題は新たな次元を迎えるにいたった。

  • 中世都市フランクフルトとライン・マイン流域の研究

    1997年  

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    中世都市は、市民社会と市場経済の原理が先駆的に実現した場であり、近代民族国家の枠を超えた現代ヨーロッパの統合運動のなかで歴史的意義が増しています。わたくしは、前任校に在職中から、ドイツの代表的商業・金融都市であり、最近ヨーロッパ連邦中央銀行の所在地となったフランクフルト・アム・マインを事例として経済史・社会史および政治史・法制史の両観点からの研究を続けてきました。1995年早稲田大学に着任して以後、1996年度の本助成費によって既発表の諸論文の補訂にかかるとともに、フランクフルトとそれを取り巻くライン・マイン流域との関わりに視点を移し、中世後期の「封建的危機」といわれる状況のなかで、大市特権により繁栄するこの「帝国自由都市」と、街道で隊商への略奪を繰り返す、近隣の貧困化した「盗賊騎士」との闘争(フェーデ)についての研究を開始しました。 1997年度の助成費では、夏休みに早大ヨーロッパ・センター(ボン)を利用しボン大学の図書館、ライン地域史研究所、フランクフルト市立文書館にてこの問題に関する多くの文献・資料を収集し、とりわけフランクフルト市民軍による1389年のクロンベルク城と1399年のタンネンベルク城に対する攻略について実踏調査をおこない、比較考察を進めております。その際、従来の中世都市研究いは欠けていた戦争史・軍事史の観点を導入してみると、前者では火器(銃、大砲)という新たな軍事技術がほとんど利用されていなかったのに比べ、10年後の後者ではまさにこの新兵器の性能が勝敗を決したことがわかりました。これが最大の成果であり、さらに皇帝・諸侯と都市による平和の盟約(ラントフリーデ)という中世国制史上の重要な課題に迫りたいと思っております。研究成果の発表1997年10月31日 早稲田大学アジア太平洋研究センター(旧社会科学研究所)ヨーロッパ思想史部会にて口頭報告「盗賊騎士の名誉と帝国都市の自由――中世後期フランクフルト市民の二つのフェーデ――」

  • ドイツ中世都市フランクフルト・アム・マイン

    1996年  

     概要を見る

     わたくしは、本研究助成費により、神聖ローマ帝国有数の都市フランクフルト・アム・マインを事例とするドイツ中世都市の研究をさらに発展させ、これまでの成果を増補するとともに、集大成する作業を開始した。中心となるモティーフは、ヨーロッパ都市の特徴をなす、都市と市民の自由と自治であり、都市共同体の成立と発展の道筋を解明しようと努めた。 古代ローマ帝国の都市生活が中世に復活したライン川岸の司教都市ケルン、マインツ、ヴォルムスなどと異なり、フランクフルトは、フランク時代の王宮所在地であり、シュタウフェン朝諸王の帝国領域政策の拠点としてフリードベルク、ヴェッツラー、ゲルンハウゼンと並んで国王都市の誕生をみた。大市(メッセ)の保護をはじめ諸特権を与えられ、商業交易が興隆したが、大空位時代の不穏な政情のなかでライン、ヴェッタラウ都市同盟に参加し、自立性を高め、帝国都市と自称した。しかし、諸侯の領邦形成が進につれ、新たに王権と結びつきながら、獲得した自由と自治を維持しつつ繁栄をはかる道を求めた。この点で、諸侯に従属した多くの領邦都市とも、明らかに相違している。 中世後期の「封建的危機」の時代になると、フランクフルトは富裕な商人層と手工業者層の市政をめぐる対立を抱え、国王選定地として帝国政治に深く係わり、周辺村落に対する領域支配をめざして諸侯や騎士と抗争した。シュワーベン、ライン都市同盟の諸侯との戦争に従軍し、1389年近隣のタウヌス山地のクローンベルク城の攻略で大敗し、市長を含む多数の市民の身代金と賠償金の支払いに財政が破綻し、市政改革がおこなわれた。折りから、新兵器(火器)の開発の時期に当たり、城壁や防塁の補強、傭兵の広範な起用と合わせて都市の重要な課題となり、中世都市から近世都市への移行がはじまった。