2022/12/08 更新

写真a

オオハシ カツアキ
大橋 一章
所属
文学学術院
職名
名誉教授

学歴

  •  
    -
    1976年

    早稲田大学   文学研究科   芸術学(美術史)  

  •  
    -
    1976年

    早稲田大学  

  •  
    -
    1966年

    早稲田大学   第一文学部   文学科・美術  

  •  
    -
    1966年

    早稲田大学  

学位

  • 立正大学   文学修士

  • 早稲田大学   博士(文学)

経歴

  • 1986年
    -
     

    - 早稲田大学教授

  • 1986年
    -
     

    - Professor

  • 1981年
    -
    1986年

    早稲田大学助教授

  • 1981年
    -
    1986年

    Associate Professor

  • 1978年
    -
    1981年

    早稲田大学専任講師

  • 1978年
    -
    1981年

    Assistant Professor

  •  
     
     

    早稲田大学 文学学術院   教授

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所属学協会

  •  
     
     

    史学会

  •  
     
     

    日本建築史学会

  •  
     
     

    美術史学会

 

研究分野

  • 美術史

  • 文化財科学

  • 博物館学

  • 美学、芸術論

研究キーワード

  • 美術史(東洋美術史/奈良美術)

  • History of art

書籍等出版物

  • 南朝仏教美術の伝播―クスノキ像の登場―

    『文化史学の挑戦』  2005年

  • 盧舎那大仏及び大仏殿の造立

    『東大寺-美術史研究の歩み-』  2003年

  • 『東大寺-美術史研究の歩み-』

    里文出版  2003年

  • 隠された聖徳太子の世界―復元・幻の天寿国―

    NHK出版  2002年

  • 博物館実習提要

    早稲田大学會津八一記念博物館  2001年

Misc

  • COEプログラム

    朝日新聞夕刊 こころの風景    2005年

  • 秋艸道人會津八一

    朝日新聞夕刊 こころの風景    2005年

  • 法隆寺論争の百年

    朝日新聞夕刊 こころの風景    2005年

  • 「X線CTスキャナーと仏像彫刻

    『奈良美術研究』   ( 創刊号 )  2004年

  • 廃仏棄釈と日本人

    『古都の森』   ( 創刊号 )  2004年

  • 法起寺の発願と造営

    『早稲田大学大学院文学研究科紀要』   第49輯第3分冊  2004年

  • 會津八一の東洋美術史

    『會津八一 中国へのまなざし』    2004年

  • 古色蒼然

    『神仏研究』   第1輯  2004年

  • 鶴林寺新薬師堂薬師三尊像調査報告書(CD-R)

    早稲田大学奈良美術研究所    2003年

  • 仏教美術の伝播

    国際シンポジウム 東アジア世界の文化交流    2003年

  • 盧舎那大仏造立の意義について

    『會津八一記念博物館研究紀要』   ( 第4号 )  2003年

  • X線CTスキャン法を用いた文化財の3次元コンテンツ制作と利用技術に関する研究

    日本歴史文化学会フォーラム    2003年

  • 東アジアにおける仏教美術の伝播

    『国際シンポジウム報告書・東アジアの文化交流』    2003年

  • CTスキャンによる仏像彫刻史研究の可能性

    『風土と文化』   ( 3 )  2002年

  • 法隆寺五重塔心柱伐採年の意義

    『早稲田大学大学院文学研究科紀要』   第47輯第3分冊  2002年

  • 會津八一の学問と芸術

    春日井市道風記念館春の講演    2002年

  • 會津八一の学問

    建築史学会2002年度大会    2002年

  • 會津八一の学問と芸術

    『道風記念館だより』   ( 36 ) 2 - 5  2002年

  • 會津八一の書

    『春の特別展 會津八一の書』     1 - 5  2002年

  • 會津八一と早稲田大学の美術史

    『建築史学』   ( 39 ) 14 - 24  2002年

  • 中宮寺の創立について

    早稲田大学大学院文学研究科紀要   第46輯第3分冊  2001年

  • 四天王寺創立時の仏像について

    佛教藝術   254  2001年

  • 亀の造形

    日本歴史文化学会公開講演    2001年

  • CTスキャンによる仏像彫刻史研究の可能性

    日本歴史文化学会フォーラム    2001年

  • CGで復元 天寿国繍帳

    『歴史街道』   ( 12月 )  2001年

  • 四天王寺の発願と造営

    風土と文化/歴史文化学会   第1号(pp2-10)  2000年

  • 敦煌

    河出書房新社    2000年

  • 法隆寺の創立と再建について

    韓国仏教美術研究所    2000年

  • 薬師如来のスペイン出前

    早稲田学報   5  2000年

  • 中国新彊の仏跡

    文化遺産   10  2000年

  • 新発見の石造亀形水盤について

    佛教藝術   250  2000年

  • 薬師寺千三百年の精華─美術史研究のあゆみ─

    里文出版    2000年

  • 薬師銘の成立と創建法隆寺

    東洋美術史論叢/雄山閣   P289~P311  1999年

  • 美術史学者としての會津八一 聞き手;上越教育大学 川村知行助教授

    新潟市會津八一記念館一周年記念講演会   於 新潟市民プラザ  1999年

  • 薬師寺の薬師如来像

    バーチャルリアリティ「日本仏教文化への立体的接近」   バルセロナ自治大学バルセロナ民族博物館ヴァレンシア工科大学  1999年

  • 法隆寺の再建と二つの本尊

    『早稲田大学大学院文学研究科紀要』   第43号第3分冊  1998年

  • 美術史における文化伝達の道―仏教美術の伝えられた道

    1998年度秋期歴史文化学会フォーラム「道」と考証    1998年

  • 法隆寺美術理解のために

    法隆寺美術 論争の視点/グラフ社   P13~P78  1998年

  • 法隆寺美術 論争の視点

    グラフ社    1998年

  • CD-ROM『會津八一コレクション 明器編』

    早稲田大学會津八一記念博物館・早稲田大学文学部    1998年

  • 會津八一と博物館

    開館記念名品図録/早稲田大学會津八一記念博物館   P10~P11  1998年

  • 開館記念名品図録

    早稲田大学會津八一記念博物館    1998年

  • 創建法隆寺の建立年代について

    第51回美術史学会全国大会(於早稲田大学)    1998年

  • 薬師寺の薬師三尊像

    ヒューマンサイエンス/人間総合研究センター   9;2  1997年

  • 飛鳥寺の発願と造営集団

    文学研究科紀要/文学研究科   42  1997年

  • シルクロードと日本仏教美術

    季刊『考古学』/雄山閣出版   第61号  1997年

  • 西域の仏教美術

    『文化遺産』/(財)島根県並河萬里写真財団   Vol.4  1997年

  • 『飛鳥の文明開化』のこと

    吉川弘文館   NO.11  1997年

  • 『会津八一 その人とコレクション』

    早稲田大学出版部    1997年

  • 『飛鳥の文明開化』

    『本郷』吉川弘文館    1997年

  • 大寺考

    早稲田大学大学院文学研究科紀要/大学院文学研究科   41  1996年

  • 再建法隆寺と釈迦三尊像-太子信仰の成立

    佛教藝術/毎日新聞社   224  1996年

  • 蘇我石川麻呂と山田寺

    東アジアの古代文化/古代学研究所   88  1996年

  • 「中国歴史博物館名品展」に寄せて

    日中文化交流/日本中国文化交流協会   584  1996年

  • 奈良の宿日吉館のおばさん

    早稲田学報   1058  1995年

  • 美術史のなかの薬師三尊像

    ボン大学   1995.11.29  1995年

  • 白鳳彫刻論

    佛教藝術/毎日新聞社   223  1995年

  • 勅願寺と国家官寺の造営組織

    佛教藝術/毎日新聞社   222  1995年

  • 奈良大和路

    保育社    1993年

  • 大和路のみ仏たち

    グラフ社    1987年

  • 聖徳太子への鎮魂

    グラフ社    1987年

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産業財産権

  • 仏像の仮想修復システム

    特許権

     概要を見る

    特開2002-216102

共同研究・競争的資金等の研究課題

  • CTスキャンによる仏像の断層撮影

  • 聖徳太子関係の美術

  • 飛鳥白鳳時代の仏教美術

  • 飛鳥・白鳳時代の仏教美術成立の研究

  • -

学内研究費(特定課題)

  • 法起寺の発願と造寺造仏について

    2000年  

     概要を見る

     法起寺(ほっきじ)は奈良県生駒郡斑鳩町岡本の地にあり、創建当初の建造物としてはわずかに三重塔一基がのこるだけで、したがって当初の本尊は伝わらない。一般には法起寺と呼ばれるが、ほかに池後つまり池のしり(尻・後)、うしろという地名による池後寺(いけじりでら)、また聖徳太子が法華経を講じたと伝えられる岡本宮を寺にしたともいわれ、岡本寺(おかもとでら)の名も使われていた。三つのうち法起寺が法号で、池後寺と岡本寺が俗号ということになる。 法起寺の創立を伝える文献史料には、鎌倉時代の法隆寺僧顕真の撰した『太子伝私記』に引用されている「法起寺露盤銘」がある。法起寺の三重塔の露盤(相輪部)に陰刻された銘文だが、当初の露盤がすでに失われているため実物の露盤銘を実見することはできない。そこで『太子伝私記』引用の露盤銘の真偽問題をふくめた研究が明治以来の法起寺研究の主流であった。その結果、現在では曾津八一氏の研究がほぼ認められているが、それによると法起寺の草創は推古三十年(622)の聖徳太子の遺願によって岡本宮をそのまま寺としたが、16年後の舒明十年(638)に福亮僧正によって彌勒像と金堂がつくられることになった。さらに47年後の天武十四年(685)に恵施僧正が太子の遺願を成就すべく塔を建てることになり、21年後の慶雲三年(706)に完成したというのである。 発願から完成まで84年の長期にわたっているが、私見によると、20・30年を要した上代寺院の造営期間と比較してもずばぬけて長い。もっとも法起寺は当初太子の岡本宮、つまり住宅建築をそのまま寺に転用しただけであったが、その後本格的な仏教建築を擁した伽藍を計画したため、発願から完成まで長期間となったことも事実である。しかしながら法起寺は尼僧による尼寺として出発したため政治力・経済力に劣っていた。それ故、福亮・恵施が援助したのである。飛鳥時代の造寺造仏では崇仏の有力者たちがその政治力・経済力によって、かつて日本人が見たこともなかった巨大木造建築を建立し、金色燦然と輝く金銅仏を制作したのであった。法起寺はその出発点から他の寺院とは異なる特殊性があった。発掘調査によると本格的仏教寺院とはいえ同時代の飛鳥寺・法隆寺などと比較するとその規模は小さい。 本研究では法起寺の特殊性が造営期間を長期にしたことを明らかにし、また本尊彌勒と他の太子建立寺院の本尊との関係についても言及したい。

  • 中宮寺の半跏思惟像の制作年代について

    1999年  

     概要を見る

     奈良斑鳩の中宮寺は創建以来尼寺として1400年近い法灯を守ってきた。今の中宮寺は江戸時代の直前に焼失したため、法隆寺東院の東端の現在地に移転してきたものである。中宮寺本尊の半跏思惟像は一見して飛鳥仏の様式を呈し、また今の中宮寺の地より400メートル東の創建地から出土する瓦の編年は創建法隆寺たる若草伽藍から出土した瓦とほぼ年代が同じであると言われている。したがって、中宮寺の創建は飛鳥時代ということになるが、具体的にいつごろ造営されたのであろうか。 わが国第一号の本格的伽藍の飛鳥寺は用明二年(587)に発願されたが、私見によると推古十七年(609)には回廊内の堂塔と本尊丈六釈迦三尊像が完成していた。飛鳥寺の造営工事が峠を超すころ、すなわち推古十五年(607)に聖徳太子がわが国第二号の本格伽藍の法隆寺を発願した。聖徳太子は推古三十年(622)に薨去するが、このときまでに金堂と本尊、さらに五重塔は完成していた。このころ第三の本格的伽藍の四天王寺が発願・造営される。 わが国で本格的伽藍を造営するようになった時代にはまだまだ工人数が少なく、同時進行的に複数もの伽藍を建てることはできなかった。徐々に工人は増えていったが、第二号法隆寺を造営した時点ではまだまだ少なかった。中宮寺は発掘の結果、中門・金堂・講堂が南北に一直線に並ぶ四天王寺式伽藍配置であったが、堂塔の規模は飛鳥寺や法隆寺のそれより小さく、回廊の代わりに築地塀があった。少ない工人で長期にわたって造営したのであろうが、法隆寺の工事が峠を越すと主力工人たちが四天王寺造営のため斑鳩を去ったあと、法隆寺を完成させた工人がそのまま中宮寺を造営したのであろう。瓦は法隆寺のものをつくるとき同時につくっていたものを使ったのであろう。飛鳥寺・法隆寺の金堂は丈六仏用の大きなものだが、半跏思惟像は等身であるから、規模の小さい中宮寺金堂にはふさわしい。 以上を考えると、半跏思惟像は中宮寺造営において六世紀半ばころの制作であろうか。

  • 四天王寺・中宮寺の造営について

    1998年  

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     大阪市天王寺区にある四天王寺と奈良斑鳩町にある中宮寺は、わが国仏教興隆期の飛鳥時代に、それも比較的はやい時期に発願・造営された寺院である。本格的伽藍を擁した寺院の第一号として飛鳥寺が造営されると、つづいて聖徳太子の法隆寺がつくられたが、私見によると四天王寺はわが国三番目の本格的伽藍の寺院として建立された。一方、中宮寺は四番目の本格伽藍の寺院ではないかと推測されるが、法隆寺の造営につづく工事が中宮寺でも行われたことは、発掘された瓦の編年からもいえることである。 七世紀末には成立したといわれる聖徳太子建立七か寺の中に四天王寺も中宮寺も含まれているが、太子信仰成立期における四天王寺・中宮寺と聖徳太子の関係を強調する説話をにわかに信ずることはできない。もっとも太子と四天王寺・中宮寺がまったく関係なかったと言い切ることもできないが、両者は太子の法隆寺につづく、それも法隆寺の建立期間とある時期は重なるような関係であったと推測できる。また私見によると、両寺院とも飛鳥寺や法隆寺と比較すると造営期間は長期に及んだようである。 四天王寺・中宮寺両者の共通点というと、ともに本尊は半跏思惟像の弥勒菩薩であった。この弥勒信仰と聖徳太子との関係、また飛鳥寺・法隆寺の造営集団と四天王・中宮両寺の造営集団との関係を明らかにしながら、四天王寺は七世紀後半の半ば、中宮寺はそれよりも遅れるころに完成したことを結論としたい。

  • 飛鳥時代の寺院造営組織と造寺造仏について

    1997年  

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    6世紀末から7世紀半ばごろの飛鳥時代の寺院はおよそ50か寺が造営されたといわれている。その第一号としてつくられたのは飛鳥寺であった。私はこの飛鳥寺の造寺造仏についてはほぼ明らかにし得たと思っているが、飛鳥寺につづいて建立されたのが法隆寺である。法隆寺は白鳳時代の天智9年(670)に焼失し、その後再建されたものが現法隆寺西院伽藍である。 本研究は焼失前の法隆寺、つまり飛鳥寺につづいて建立された創建法隆寺の造寺組織を検討することによって、わが国第二号の法隆寺の建築と仏像がいつ、どのようにつくられていったかを明らかにすることであった。 従来、法隆寺の創立については天平19年(747)の『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』の法隆寺推古15年(607)完成説が知られていたが、これは法隆寺金堂の薬師如来像光背銘文の法隆寺は用明元年(586)発願、推古15年完成説を踏襲していることが指摘されてきた。また最近では薬師像光背銘文は法隆寺焼失後の成立とする見解が強くなっている。それに何より薬師銘の内容を信じると、法隆寺はわが国第一号の飛鳥寺の発願より早く、飛鳥寺の完成前に完成していたことになる。寺院建築や金銅仏を誰一人見たことがなかった飛鳥時代に、百済から造寺工と造仏工が来日し、彼らの指導によってわが国の造寺工・造仏工が養成され、日本人工人を動員することが可能になった時点でわが国初の飛鳥寺造営が発願されたのであるから、同じ時期に飛鳥寺のほかに法隆寺をも造営していたとする薬師銘の内容を信ずることはできない。薬師銘は法隆寺焼失後、国の援助によって再建工事を遂行しようとして、法隆寺をもっとも古い寺に仕立てようとしたことから書かれたものである。法隆寺の発願・造営はわが国の造寺工や造仏工がきわめて少ない飛鳥時代初期に造営されたのであるから、第一号の飛鳥寺の造営工事が峠を越さない限り無理であろう。それ故、飛鳥時代の寺院造営組織を検討するかぎり、法隆寺の発願は推古15年とするのが私見の結論となる。研究成果の発表1998年5月30日 「創建法隆寺の建立年代について」第51回美術史学会全国大会(於:早稲田大学)

  • 法隆寺金堂の釈迦三尊像と法隆寺の創建・再建

    1996年  

     概要を見る

     奈良斑鳩の法隆寺は世界最古の木造建築としてあまりに有名であるが、その金堂中の間には鞍作止利が制作した釈迦三尊像が安置されている。つまり釈迦三尊像は金堂の本尊ということになるが、現存の金堂は天智9年(670)に法隆寺が焼失したあと再建されたものであるから、釈迦三尊は再建法隆寺の本尊として金堂の中の間に安置されたのである。このことから、従来多くの先学は創建法隆寺でも釈迦三尊像が本尊であったと推測してきた。しかしながら、釈迦三尊像の造像銘には推古30年(622)に聖徳太子が発病したため、その病気平癒を祈願して釈迦三尊を発願・制作したことが明記されているから、推古15年(607)ごろ飛鳥寺につづいてわが国第2号の本格的伽藍として聖徳太子が発願・建立した法隆寺の本尊であったと解することにはいささか無理がある。 創建法隆寺は現法隆寺内の若草伽藍と呼ばれる一画に建てられていたが、発掘の結果金堂や塔の大きさは飛鳥寺のそれとほぼ同規模であった。飛鳥寺の金堂には鞍作鳥が制作した丈六の金銅釈迦像が安置されていたが、飛鳥寺につづいて建立された法隆寺の堂塔の規模が同じであることからすると、法隆寺の金堂に安置した仏像の大きさも丈六ということになる。わが国にはもともと金銅仏をつくる仏師は存在しなかったから、百済の仏師の来日によって仏師が養成されたが、その中で頭角を現わし、指導的仏師に成長したのが鞍作鳥であった。私は創建法隆寺の本尊はこの鞍作鳥が制作した丈六の金銅仏であったと推測している。すると現本尊の釈迦三尊は創建法隆寺の本尊ではなく、太子の病気平癒のために制作したのなら、太子が生前住んでいた斑鳩宮内に建てられた仏堂のような建物に安置されていた可能性が強い。本研究の成果としては、まず法隆寺の創建年代を検討し、ついで造営集団の実態を明らかにしていく論文を発表する予定である。

 

委員歴

  • 2004年
    -
     

    美術史学会  常任委員