2024/03/28 更新

写真a

ササキ モトナリ
佐々木 基成
所属
附属機関・学校 高等学院
職名
教諭
 

特定課題制度(学内資金)

  • 国語教育におけるVISUAL LITERACY教育の可能性に関する研究

    2014年  

     概要を見る

    前年度より継続して国語教育における視覚教材の読解の可能性とその方法について探求した。本研究の目的はいわゆる「非連続型テキスト」(グラフや図像)を用いたヴィジュアル・リテラシー教育の国語科への導入の実践とその成果の分析にある。本研究では前年度までの研究を進め一か年、中学校三年の国語科として定期的に利用できる教材を開発し、実践した。生徒の成果物の分析により、図像のみでは読解力そのものの育成につながらず活字コンテクストとの併用が望ましいということ、写真や映画、風刺漫画などのの歴史とテクノロジーや作法を紹介することで内容の理解度が高まったことを確認できた。成果のさらなる公開を検討中である。

  • 国語教育におけるVISUAL LITERACY教育の可能性に関する研究

    2013年  

     概要を見る

    いわゆる、PISA(OECD生徒の学習到達度調査Programme for International Student Assessment)・ショック後に、読解リテラシーの向上が国語科の目標として掲げられることが多くなった。情報技術の発展とともに映像によるコミュニケーションは増加する一途である。国語教育がそれを有機的にとりいれ、教室が現実とリンクして生徒の世界認識をより正確に豊かにするために寄与できうるかどうかを本研究の目的とした。読解はそもそも、ある特定の一義的な解答を取り出すことのみの謂ではなく、対象に内在するパーツに有機的な関連を見出すという意味創出の営為でもある。グラフも論じる立場によって読み取られる情報に差異があるように、平面的に羅列された対象間に有機的な因果関係を見出し、それを系統化して了解したうえで表出する営為全体に言語は関わるのであり、国語科は読解対象を「連続型テキスト」に限定すべきではない。その意味で、写真や映画、イラストといった図像に対する解釈と、言語による表出は、国語教育の一つの読解力育成のオプションとなりえよう。本研究では、平面的に情報が並置する「非連続型テキスト」を、その読解自体を主目的として国語科に導入する可能性を模索した。高度情報化社会においてわれわれは映像情報に囲繞されて生活している。PISAの「非連続型テキスト」導入に即して、平面的に羅列された対象間に有機的な因果関係を見出し、それを系統化して了解したうえで言語として表出する能力の涵養の可能性を映像資料を用いた研究授業から試行した。具体的には次のような研究授業実践を実施した。①「写真を読む」 被写界深度や構成などの写真の技法を提示した後、セバスチャン・サルガドの写真を読解した。②「ピクトグラムを読む」近年増えているピクトグラムを構成する意味内容を言語化した。③「絵画の意味」石田徹也のイラストを、その人生や時代背景といった文字情報との連携による読解の変化を検討した。以上の実践から、映像を言語化する技能と、それ単体のオブジェクト布置から内部構成を再構成する能力、映像とそのコンテクストのあいだに有機的な関係を創造する能力は、個別的かつ相補的であるという帰結を得た。今後は、『WRITING THE VISUALCAROL』(DAVID&ANNE R. RICHARDS)など海外の事例や論考を踏まえて、実践を積み重ね、系統的な学習の構想を構築していきたい。研究成果のさらなる公開を検討中である。

  • 明治期作文教育からヴィジュアル・リテラシーへの応用の研究

    2012年  

     概要を見る

    本研究は、ヴィジュアル・リテラシーへと応用するための明治期作文教育における記事文・写生文の踏査と再構築を目的とした。現在、世界では図像に囲まれた生活環境のなかで、それらにたいするliteracyを教育しようとする志向と実践があるが、日本では十分に体系的に取り入れられていないことを確認した。二〇〇三年のPISA(OECD生徒の学習到達度調査Programme for International Student Assessment)調査結果を受けて、対応策として、学習指導要領の徹底・教育課程実施状況調査の結果を受けた改善の提言の指導への反映・教科横断的な総合的取り組み、の三つを掲げ「非連続型テキスト」と呼ばれているデータを視覚的に表現したもの(図、地図、グラフなど)に対する読解力の必要性が求められている。現在、世界では、図像に囲まれた現代の生活環境のなかでそれらにたいするliteracyを高め教育するというヴィジュアル・リテラシーの思潮と実践があるが日本では十分に体系的に取り入れられていないことを確認した。I.V.L.A(International Visual Literacy Association)や中国の看図作文指導などの実践を整理したうえで、それをどのように効果的に日本の国語教育に包摂しうるかを考察した。図像の読解と描写の営為は明治期の本邦に於いてすでに作文教育に取り入れられている。記事文と写生文がそれである。明治二十年代の作文教育は一般に、範文主義に陥った生命のないものとされているが、事象を文章という連続的テキストへ変換する手順と作法の精密な試行錯誤が実践されていたことを整理した。図像や実物を観察し文章で書き表す記事文や出かけていった場所の対象を書き取る写生文の試みは、その方法論や営為の産物と共に今こそ見直されるべきであると考える。すでに2010年度の科研費奨励研究により明治期二十年代の作文教育の全体像と写生文の多面的な営為は用意している。世界におけるヴィジュアル・リテラシーの実践の調査とそれらを有機的に結びつけ、映像素材や画像を効果的に生徒に示して作文教育の実践をすることを構想し、教育現場において実践した。写真や絵画、ビデオといった非連続型テキストと文という連続型テキストというまったく別種の表現における内容的往還の意義と効果を考察した。更なる成果の公表を期したい。

  • 地名の表象における物語と地理との連関性の考察

    2011年  

     概要を見る

     本研究では、日本近代文を中心とした物語空間と表象における地名との関わり、地誌学・地理学における場所との関わりを考察した。文学と地理の学際的研究はこれまでもあったが、次の二つの視点から新たにアプローチした。物語世界と現実空間に対する第三項である表象空間との有機的連関と、通時的視点である。本研究では、先学の成果を援用しつつ、この二つの視点からモデルとして柳川を取り上げた。柳川は戦前から北原白秋『抒情小曲集 思ひ出』によって水郷として知られるようになった福岡県の小都市である。明治末期から昭和四十年代にかけての柳川に言及した言辞を網羅的に蒐集するとともに、柳川古文書館にて閲覧することが出来る地元紙『柳河新報』を明治から昭和期にかけて調査した。その比較対象によって、外部によって表象される柳川像と地元の人々による像との差異を分析した。また、柳川市役所観光課から戦前から戦後にかけての観光の実態について伺った。その結果、戦前は柳河と表記された堀割で名高い都市、柳川は白秋が取り上げる以前と以後では、その表象は大きく異なっていったことを考察した。柳川は、異国情調あふれたエチゾチズム・古き良き日本のノスタルジア・そして退廃美という三つの文脈から描かれていくがそれらは、北原白秋の文学的イメージによって多分に影響を受けている。エトランゼが望見するオリエンタリズムに充ちた幻想都市としての柳川と、現地の実態との差異が鮮明になるのは戦後三十年代、福永武彦が柳川をモデルとして書いた小説『廃市』が発表された時期である。観光化と産業化によって堀割の汚濁が進む一方、文学的情調の中で美化されている柳川との相克を考察した。 これらの考察により、地名を軸に地誌的な情報と文学的表象との有機的な影響関係の、一つのケーススタイディが出来たと考えている。以上の成果を形にすべく論文を執筆中であり、発表する予定である。 なお、これらの地理と文学の考察のモデル都市として候補にしていた小田原について調査していく中で、関心を抱いた、小田原出身のプロレタリア文学者である津田光造について、派生的ながら論文を執筆し発表した。

  • 明治期作文教育と西洋詩学 散文指導の可能性

    2009年  

     概要を見る

    明治期作文教育の濫觴として伊沢修二の実物教授を調査研究した。実物に即して説明文を書くという伊沢修二から始まる作文教育の系譜の消長を考察するとともに、早稲田大学を中心として展開された美辞学において叙事文や記事文といった文の詩学的整理がどのように展開されたかを検証した。また、明治三十年前後に就学率が高まるにつれて各書肆より上梓された作文作法書や文範において、西洋詩学の導入の程度、応用のされ方を検証し、西洋画から着想を得て写生文を提唱した正岡子規の叙事文を再考した。成果として、実物教授の手法と近年のヴィジュアル・リテラシーの考えを融合し、図像を用いて解釈しそれを文として表出することを目した授業を実践したうえで論文化した。(「図像による読解力育成授業の試み 石田徹也の作品を教材として」『早稲田大学国語教育研究』第30集)また、正岡子規が「叙事文」によって展開した新たな文章論を実践した写生文家の中で、それを報告文としてもっとも遂行した人物として、今まで言及されてこなかった明治期の西遼一という人物を調査した。西遼一は熊本県出身、日露戦争では通訳を務め、露領ウラジオストックで商人をし、帰国後は立憲民政党とも関係した人物であり、新聞『日本』と雑誌『ホトトギス』にルポルタージュ性の強い写生文を大量に掲載した人物であるが、今までその研究が全くされてこなかった人物である。そのご子孫を探し当て、連絡いただくことができ、貴重な証言と残っている資料を閲覧させていただいた。正岡子規の短冊、河東碧梧桐の俳句などを西遼一が所蔵していたことが明らかになり、両者との交友が実証された。この成果は「〈写生文〉の一水脈 ―子規、鼠骨、そして西遼一―」と題して早稲田大学国語教育学会の例会で口頭発表した。現在、そこでいただいた意見を参考に論文化を試みている。また、文学教育の濫觴を明治期の作文教育の中に模索する試みも副次的に進めており、そこで生じた問題意識を「教材としての〈作者〉谷川俊太郎「私は私」の授業実践をもとに」と題して『日文協 国語教育』第39号に発表した。