2022/10/01 更新

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トビタ ヤスヒロ
飛田 康裕
所属
附属機関・学校 高等学院
職名
教諭

兼担

  • 文学学術院   文学部

学歴

  •  
    -
    2013年

    早稲田大学   大学院文学研究科   博士後期課程東洋哲学専攻  

  •  
    -
    2004年

    早稲田大学   大学院文学研究科   修士課程東洋哲学専攻  

  •  
    -
    2001年

    早稲田大学   第一文学部   哲学科・東洋哲学専修  

学位

  • 早稲田大学   博士(文学)

経歴

  • 2015年04月
    -
     

    早稲田大学高等学院   教諭

  • 2014年04月
    -
    2015年03月

    慶應義塾大学文学部   非常勤講師

  • 2010年04月
    -
    2015年03月

    早稲田大学文学学術院   非常勤講師

  • 2010年04月
    -
    2015年03月

    早稲田大学高等学院   非常勤講師

  • 2009年04月
    -
    2015年03月

    武蔵高等学校・中学校(学校法人根津育英会)   非常勤講師

  • 2008年04月
    -
    2015年03月

    本庄児玉看護専門学校   非常勤講師

  • 2007年04月
    -
    2009年03月

    早稲田大学文学学術院   助手

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所属学協会

  •  
     
     

    早稲田大学東洋哲学会

  •  
     
     

    日本印度学仏教学会

  •  
     
     

    仏教思想学会

  •  
     
     

    日本仏教学会

 

研究分野

  • 中国哲学、印度哲学、仏教学

  • 中国哲学、印度哲学、仏教学

論文

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書籍等出版物

  • 説一切有部における三世実有論の形成: 『阿毘達磨識身足論』の分析を中心に[電子資料]

    飛田 康裕

    2013年

共同研究・競争的資金等の研究課題

  • -

講演・口頭発表等

  • 大衆部における自己認識論の形成過程の考察:対論者・説一切有部の『婆沙論』における批判から推測される形成過程のモデル

    早稲田大学東洋哲学会第31回大会  

    発表年月: 2014年06月

  • アビダルマ文献における経典の妥当性に関する一解釈

    日本仏教学会平成22(2010)年度学術大会  

    発表年月: 2010年09月

  • 『識身足論』の三世実有論証における二心和合の問題が占める役割

    日本印度学仏教学会第58回学術大会  

    発表年月: 2007年09月

  • 『識身足論』における三世実有の一理由の考察:なぜ、「観察されるものは、存在しなければならない」か

    早稲田大学東洋哲学会第22回大会  

    発表年月: 2005年06月

特定課題研究

  • 説一切有部において「一切法非我」の解釈が「一切法無我」へと傾倒した理由の考察

    2021年  

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    釈尊の説いた「三法印」と呼ばれる根本的教義の一つに“sarvadharmā anātmānaḥ”という命題がある。しかし、この命題には、古来、二種の解釈のあることが知られている。すなわち、「一切法非我」(あらゆる事物は個人原理でない)という解釈と「一切法無我」(あらゆる事物の中には個人原理がない)という解釈である。さらに、この歴史的変遷については、当初は「非我」と解釈されていたものが、時を経て、「無我」と解釈されるようになったことが先学により明らかにされている。ところが、この解釈は、アビダルマの段階に到るや、明らかに「一切法無我」の方へと傾倒していく。本研究では、この理由を論究すべく、『識身足論』「補特伽羅蘊」を分析した。この結果として見えてくる「無我」説への傾倒の理由は、第一には、外部ではなく、仏教内部に個人原理を確立しようとする動きが生じ始めたこと、そして、第二に、その個人原理の規定が非常に漠然としたものであったことである。

  • 三宝尊『仏母般若波羅蜜多円集要義論註』における如来蔵思想の特徴について

    2020年  

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    インド仏教において物議を醸した概念の一つに「如来蔵」がある。これは、一般的に、生きとし生けるものに内在する仏陀になりうる可能性と説明される。5-6世紀の学僧と目される三宝尊も、その著書『仏母般若波羅蜜多円集要義論註』において、如来蔵について解説する。彼の「如来蔵」は、損減散乱分別(apavādavikalpa-)を否定する文脈で述べられるが、この分別は、事物が空性までをも欠いていると見なす誤った見解である。よって、三宝尊における「如来蔵」は本質的には「空性」を意味することが窺われる。この著書を考察した結果、彼の思想においては、「如来蔵」についても、「空性」を「無二智」と等置することにより説明し、最終的に「無二智」を「自己認識」と理解しようとする特徴の見られることが明らかとなった。

  • 『解深密経』における肯定される無為と否定される有為・無為とに関する考察

    2019年  

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    『解深密経』においては、《無為》が円成実相として肯定される一方で、「有為」「無為」が遍計所執相として否定されている。本研究では、この矛盾が如何に解釈されるかを考察し、以下を明らかとした。まず、認識の対象としては、「有為」「無為」から成る一切の事物に遍在する法無我性がまことの《無為》である。次に、この《無為》が分別によって捉えられるとき、「有為」のみに遍在する縁生自性として誤解され、語句の拠り所たる“有為法”や“無為法”として働く。なお、この縁生自性は敢えて“有為”とも言うことができる。そして、この依他起相を拠り所として個々の「有為」や「無為」などが名称によって仮に設定されるが、これが否定される。

  • 依他起性中心の三性説と円成実性中心の三性説の相違点とその思想的背景に関する考察

    2018年  

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    遍計所執・依他起・円成実という三性の関係を説明する際には、依他起性が中心に据えられることが通例である。ところが、三性説には、依他起性(虚妄分別)をも否定し、円成実性(空性)を中心に据えて説明するものがある。これの顕著な例は、三宝尊による『仏母般若波羅蜜多円集要義論註』である。本研究では、彼が説いた三性説の特徴と意義について考察したが、その特徴は、所取・能取を離れた自己認識(無二智)を「唯識」の識と定めて、それを三性説の中心に据えたところであり、そして、その思想史上の意義は、この自己認識を円成実性に配当することにより、五事説における「正智」の中に「真如」を編入したことであることが明らかとなった。

  • 初期インド仏教における無我論証に秘められた言外の意図の分析と無我論証の目的の考察

    2017年  

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    本研究は、『阿毘達磨識身足論』における「一切法無我」という命題に秘められた「話者の意図による言外の限定」とこの命題の目的を明らかにすることを目標とした。そこで、この「無我」という概念をより克明に把握するために、『般若波羅蜜多心経』の「空性」との比較を試みたが、分析の結果、『般若心経』の意図としては、空性は、世俗的には一切の事物に共通する特徴(共相)として理解されているが、真実としては固有の特徴を有する事物(自相)であり、しかも、この自相は「本来的に清らかな智」であるということが念頭に置かれていることが明らかとなり、『阿毘達磨識身足論』に見られる「無我」の概念から大きく逸脱することが判明した。

  • 『般若波羅蜜多心経』に秘められた言外の意図の分析とそれを反映させた現代語訳の作成

    2017年  

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    本研究の目的は、言語的には簡単明瞭であるが、文字通りに読んだ場合には論理的に飛躍していて理解できない『般若波羅蜜多心経』の著述の意図を「言外の意図」という概念を援用して追究し、その意図に即した現代日本語訳を作成することである。分析の結果、明らかとなった『般若心経』の意図は、「空であるというあり方」(śūnyatā-)は、世俗的な智慧によっては一切の事物に共通する特徴(sāmānyalakṣaṇa-)として理解されているが、最高の智慧によって理解される場合には固有の特徴を有する事物(svalakṣaṇa-)であり、しかも、この固有の特徴を有する事物とは、所取・能取という「二つのものを有しない智」であり、「本来的に清らかな智」であるということである。

  • 東部ユーラシア世界および日本に影響を及ぼした初期仏教における無我論証の分析と考察

    2016年  

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    仏教の根本的教義の一つに「一切法無我」という命題がある。本研究は、紀元前2世紀頃におけるこの命題に秘められた「話者の意図による言外の限定」を明白にすることを目的とし、これを解明する方法として、『阿毘達磨識身足論』「補特伽羅蘊」を対象として分析するとともに、「無我」の概念をより克明に把握するために、後世に出現した『般若経』の「空性」の議論と比較検討することにした。分析の結果、有部の用いる「我」の概念は、専ら不変の個人原理を表すのに対して、『般若経』の「我」は、①妄想された個人原理と独自性と②真実の個人原理と独自性に大別され、後者(②)の我においては空性が意図される傾向のあることが明らかになった。

  • 『阿毘達磨大毘婆沙論』における三世実有論証の分析とその展開に関する思想史的研究

    2016年  

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    インドの仏教教団内の説一切有部(以下、有部と略す)は釈尊の教説を体系化せんと試み、その中心概念として「三世実有」という考え方を据えた。三世実有論導入後の有部の活動は、体系化の際に生じた齟齬を解消するための議論や補足説明へと展開し、その集大成として『阿毘達磨大毘婆沙論』が編纂された。本研究では、『阿毘達磨大毘婆沙論』の三世実有論について、旧訳(北涼・浮陀跋摩等訳)と新訳(唐・玄奘訳)を比較対照し翻訳を行ったが、旧訳に対して新訳には増補された部分が多く、議論を論理的に分析した結果、その増補部分は、三世実有論と諸行無常説との齟齬を解消するために導入された「作用説」の影響下にあることが明らかになった。

  • 『阿毘達磨識身足論』における「一切法無我」の論証方法の分析

    2015年  

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    仏教の根幹をなす教義の一つに、「一切法非我」あるいは「無我」という命題がある。本研究は、紀元前2世紀前後におけるこの命題に秘められた「話者の意図による言外の限定」を明らかにすることを目的とした。そして、その方法として、『阿毘達磨識身足論』「補特伽羅蘊」を対象として分析する手法を用いた。現段階では、その約三分の一の訳注を作成しているが、今回、その中核をなす論証の部分に説一切有部所伝の『大般涅槃経』が引用されていることが明らかになり、立論者の意図もある程度明らかになりつつある。今後は、インド仏教の論理学に基づいて分析することにより、「話者の意図による言外の限定」を厳密に抽出するつもりである。

  • 説一切有部における念住の内容がなぜ教義の発展段階において変遷したかに関する考察。

    2007年  

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     世親の『倶舎論』においては、四念処の内容は「身を不浄、受を苦、心を無常、法を無我と見る」と規定されている。これに対して『倶舎論』に先行する『中阿含経』においては、身に関しては身中の内臓や汚物を観察するなどの18種の観法が提示され、受に関しては21種をありのままに知る観法が、心に関しては20種の心をありのままに知る観法が、法に関しては六結・五蓋・七覚支という心所法を観察するというものが示される。筆者は、この重要な四念処の内容が、なぜ以上のように大きく変遷したのかということが追求されなければならないと考え、そして、そのためには四念処の特徴を決定する「出入息念」と「修定」という念処の支分についての考察が必要であると考えた。 しかし、「出入息念」について『雑阿含経』(内容的には『中阿含経』に先行すると考えらている)の用例を調べるにつれ、四念処の内容自体が『中阿含経』と『雑阿含経』(『雑阿含経』では四念処の具体的内容までが示されることはごく稀)では異なる場合があり、後者ではむしろ『倶舎論』に近い「無常・苦・空・無我」という観察が暗示されているものがあることが明らかとなった。筆者は、初め阿含経における四念処の内容はすべて基本的には『中阿含経』の内容と共通すると考えてもよいと見做していたので、以上のようになると四念処の内容自体についても『雑阿含経』を中心に考察し直さなければならない可能性がでてきた。また、これと相俟って『雑阿含経』の「出入息念」の概念についても『中阿含経』との相違点を念頭においた吟味が必要となろう。 今のところ、『雑阿含経』における四念処の調査と内容分析が完了したので、今後は『雑阿含経』と『中阿含経』の共通点と相違点のより精密な吟味、そして『雑阿含経』における「出入息念」の調査と内容分析、『中阿含経』との比較、さらには『倶舎論』と『雑阿含経』との関連についての考察を行う予定である。

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現在担当している科目

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